2009 年 6 月 14 日

・説教 詩篇46篇  特別礼拝 ドイツ教会音楽と聖書 「ルターとドイツ・コラール」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:15

伝道特別礼拝 鴨下直樹

  今年、この芥見キリスト教会は、ここに新しい礼拝堂を献堂して三年を迎えます。それで、今年は、新会堂三周年記念ということで、様々な行事を計画しています。その最初が、今回の特別礼拝と、午後に行われるコンサートです。多くの方々がこれを大変楽しみにしていてくださいまして、コンサートのための問い合わせの電話も、毎日来ています。

 今日は「ドイツ教会音楽と聖書」というテーマで、この礼拝でお話をしたいと思っておりまして、午後は犬山の国際交流合唱団をお迎えして、ドイツコラール・コンサートの演奏会をしていただくことにしております。そこでも、曲と曲の間に、私がこの「ドイツ教会音楽と聖書」というテーマで少しお話しをさせていただきたいと思っています。


ドイツ教会音楽というと、すぐに思い浮かべるのは、やはりヨハン・セバスチャン・バッハだと思います。今日の午後、コンサートのための看板をきれいな習字で書いてくださった方も、「バッハ・コラール演奏会」と書いてくださいました。コラールと聞けば、すぐにバッハという名前がでてくるほど、ドイツの教会音楽にこのバッハは大きな影響を与えた人です。ですから教会音楽の父などと言われるほどです。

 しかし、今朝は、このバッハのコラールではなくてルターのコラールを少し紹介したいと思っています。先ほど歌った賛美歌21で「神はわが砦」を賛美いたしました。これは、宗教改革者マルティン・ルターが作詞し、作曲した歌として知られています。もっともこの曲も、バッハの編曲によって知られる曲でもあります。

今日は、午後からドイツコラール・コンサートをいたします。先日も新聞社の方から電話を頂きまして、このコラールというのは、どのような音楽なのですか?と尋ねられました。ドイツ教会音楽と言えば、真っ先にでてくるのが、「コラール」と言えるかもしれません。コラールというのは、午後のコンサートのためのプログラムに、この教会の執事で、また、午後から歌ってくださる犬山国際交流合唱団の方々の指揮者でもある赤塚さんが、丁寧に書いてくださいました。ここにも説明が書いてありますけれども、この「コラール」というのは、無伴奏で、混成四部合唱で歌うのが一般的で、特にルター派のこの時代の讃美歌のことをいいます。けれども、この四声で歌われたりするのは後期・コラールと言いまして、ヨハン・セバスチェン・バッハのカンタータから取られたもののことなどを指しています。ですから、「コラール」というと、あまりなじみのない言葉、なじみのない音楽と思ってしまいますけれども、言ってみれば、讃美歌の原点と言ってもよいものなのです。

しかし、もともと「コラール」というのは、グレゴリアン・チャント、グレゴリオ聖歌のことを指していました。ドイツ語の辞書をみますと、「聖歌」とまず書いてあります。そして類義語として「キルヘンリード」と書かれています。これは「教会の歌」ということですから、私たちが礼拝の時に歌っているもののことだと、考えてくださってもいいかもしれません。(この「聖歌」というのは、「讃美歌」と同じ意味だと思ってくださっていいと思います。)

ただ、このグレゴリオ聖歌とコラールというのは多少異なりますので、それと区別するためにドイツ・コラールなどと言い分けるときもあります。けれども、今日では「コラール」と言えば、ドイツ・ルター派の教会音楽のことだというふうに一般的に受け止められているようです。

そして、このコラールでもっとも知られている讃美歌が、先ほどみなさんと一緒に歌いました「神はわが砦」という讃美歌です。「讃美歌」と同じように日本でよく用いられている「聖歌」で慣れ親しんだ方には「御神は城なり」という歌いだしではじまる、ルターが作詞作曲したとされる讃美歌です。もっともこの曲は少し前にラテン語で同じメロディーの者が見つかりまして、ルターが紹介したものというのは正しいのですけれども、一般的にはこのコラールはルターの作品であるとして知られています。

 この讃美歌は先ほどお読みした詩篇46篇をもとにして、ルターがつくった曲、コラールです。詩篇46篇にはこうあります。1節から3節をお読みします。

「神はわれらの避け所、また力。苦しむ時、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ」

 今日はこの讃美歌について少しお話したいと思っているのですけれども、ルターはこの聖書をもとに讃美歌を作曲しました。ここにルターの信仰告白があるといってもいいほどです。ルターは合計すると37の作品を作ったと言われています。このルターが友達のスパラティンに送った手紙にこういうものがあります。

「大衆のためにドイツ語の聖書を作ることが、私の目的です。そして、歌っている間に神の言葉が人々の心を強く打ち動かすような霊の歌がつくりたいのです。私たちは、そのためにいたるところで詩人を見出したいのです。」

これには少し説明がいるかもしれません。まだ教会が出来たばかり時代、この時代のことを初代教会の時代といいますけれども、この時代には、大変盛んに会衆によって、つまりみんなで讃美歌が歌われていました。ところが、中世になると、讃美歌を歌うのは、聖職者たち、あるいは修道士たちのようなある訓練を受けた人が歌い、会衆はそれにアーメンとか、ハレルヤとかキリエ・エレイソン(主よ憐れんでください)というような決まった言葉だけを口にするようになっていったのです。

また、聖書はラテン語でしたから、母国語で聖書を読むこともできませんでした。今からつい500年ほど前までは、自分の国の言葉で聖書を読むことができなかったのです。

 そういう中で、ルターの宗教改革が始まりました。もちろん、ルターは聖書を読んでいく中で、当時の教会で言われていたように、人は信じるために良い行いをしなければならない、とぃうことは聖書に書かれていないで、ただイエス・キリストを信じるだけで人は救われるということに気がつきました。このルターが聖書を読んで見出した「信仰義認の教理」はを当時の教会、つまりカトリック教会の上の方の人たちは理解してくれると思っていたのです。ところが、このルターの「主イエスを信じるだけで救われて、神が義と認めてくださる」という教理は、異端である。過ちであるとして、ルターは宗教会議にかけられることになります。

この時に行われた宗教会議がヴォルムスでの会議です。ここに写真があります。写真をみながらお聞きくださればと思います。

ヴォルムスの教会  ヴォルムスの教会 

 

この写真はルターが宗教会議で戦ったヴォルムスの教会です。ここで、ルターは戦います。この会議において審問官はルターを問い詰めて言います。

「なんじは、自己の教説を撤回するか、しないのか、どちらなのか?」

するとルターはこう答えたと言われます。

「私は、聖書の証明、または明白な論拠によって論証されないかぎり、また聖書から正当な理由を示されない限り、私は何も撤回することができないし、撤回しようとも思いません。私の良心は聖書に捕えられております。私は聖書にさからうことができません。神よ私を助けたまえ。アーメン」

このときの事が、すぐに当時グーテンベルグによって印刷機が発明され、またたく間に書物にして人々の目に触れるようになりました。この初期に出された本にはルターの最後の言葉はこうであったと記されています。

「私はここに立つ、わたしはこうするより他にない。神よ私を助けたまえ。アーメン」

この信仰の戦いが、どれほどルターに恐れを与えたか分かりません。ただ、神に助けを求めるほかないほどの恐怖と、けれども自分が聖書から見出した真理を捻じ曲げることはできないという意思が、この言葉の中にはあります。

このヴォルムスに向かう前にルターは、友達に「たとえ、ヴォルムスに集まる悪魔の数が、屋根の瓦ほどあったとしても、私は行く」と、言っているほどです。

 このヴォルムスには大聖堂と呼ばれる美しい奇麗な会堂があります。

 ヴォルムスの大聖堂

 

けれども、ヴォルムスの大聖堂の写真はこうしてお見せすることができますけれども、町の雰囲気はちょっと分かりずらいかもしれません。私はその時、瓦の写真を撮ろうというのは思いもつきませんでしたので、ヴォルムスの瓦を映した写真はありません。けれども、私が住んでいたズィーゲンという町は、この瓦で有名な町なんです。少し写真を見ていただければ分かると思います。

 瓦の町並み 瓦の町並み

 これは旧市街の写真です。そして、もうひとつの写真は私たちが住んでいたところのすぐ近くにある古い家です。この写真を見ていただければ、ルターがこのときに語った、「悪魔の数が瓦の数ほど」というのを感じていただけるのではないかと思います。この表現は、いかにもルターらしい表現ですけれども、ぎっしりと敷き詰められたような、まさに敵ばかりのところに、一人で乗り込んでいくというのは、本当に大きな恐れだったのだろうと思うのです。

このヴォルムスの宗教会議が終わりました。カール大帝はこの会議の翌日、このルターの答弁に非常に腹を立てたローマ皇帝カールは、昨日はルターを無事に帰したけれども、今後どこかで見かけたら、ルターを捕らえよと命じました。この話しがでる前の日、会議が終わってすぐにルターは旅立っておりまして、シュヴァルツ・バルトと呼ばれる黒い森に差し掛かります。そこで、ルターは謎の騎兵隊に襲いかかられて、捕えられてしまうのです。ルターの同行者も逃げ去っています。そして、ルターは死んでしまったのではないかなどという噂が流れるのですけれども、実はある地方の領主であるフリードリッヒ侯が実はルターを保護して、ヴァルト・ブルグ城にルターを連れていったのでした。

ヴァルト・ブルグ城

 これが、その時、フリードリッヒ侯によってルターがかくまわれることになるヴァルト・ブルグ城です。そして、この城でルターはドイツ人たちが自分たちで聖書を読むことができるようにと、この城で聖書の翻訳をすることになります。

 ルターが翻訳をした部屋

 

 この部屋でルターはひたすら聖書の翻訳をはじめます。会議があったのが、1521年。新約聖書を訳し終えたのは1522年ですから、どれほどそのために力を注いだかが良く分かると思います。そして、旧約聖書まで全てを訳し終得たのは1534年のことでした。

こうして、ルターは、ドイツの人々に自分たちの言葉で聖書を読むことができるようにしたのです。それは、人から言われるがままに聖書を信じるのではなく、自分で聖書を読んで、自分で決断する信仰が大切だということを知っていたからです。

 そういうルターですから、当然、讃美歌も、自分達の国の言葉で、分かる讃美歌を歌うべきだと考えました。先ほどの手紙で語っていたように、「歌っている間に神の言葉が人々の心を強く打ち動かすような霊の歌がつくりたい」というのは、ルターの心からの願いでした。ですから、ルターは聖書を翻訳しただけではなく、自分の手でつくりだした讃美歌が全部で37あると言われています。それはラテン語の讃美歌からの翻訳が12篇、宗教的民謡の改定が4篇、詩篇や聖書からの韻文化したものが13篇、そして創作讃美歌が8篇です。ルター自身、自らリュートという楽器を弾き、それで作曲したと言われていて、ヴァルト・ブルグ城のミュージアムの中にルターのリュートが置かれています。博物館でこの楽器を私はガラスに頭をこすりつけるように見ました。どんな音で、そしてどんな声でルターは歌ったのだろうと考えるのはとても楽しいことです。

 リュート

 ルターは自ら作った讃美歌で、讃美歌を歌う喜びをあらわそうとしました。この「神はわが砦」という讃美歌はそのことをよく表しています。

詩篇はこう語っています。もう一度お読みいたします。

「神はわれらの避け所、また力。苦しむ時、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ」

この聖書は讃美歌ではこのようになっています。

 神はわが砦、わが強き盾

すべての悩みを 解き放ちたもう

悪しきものおごりたち、

邪な企ても 戦をいどむ

 

打つ勝つ力は われらには無し。

力ある人を 神はたてたもう。

その人はキリスト、万軍の君

我とともに たたかう主なり

 この讃美歌はこうして歌詞を見てみますと、一番の歌詞では、詩は完結していません。次の節、次の節と進んでいくにつれて、自分がどれほど確かな神に守られているかが分かってくるようになっています。

神はわがやぐら という歌い出しで始まりますが、この言葉はドイツ語ではein feste Burg ist unser Gott(アイン フェスデブルグ イスト ウンザー ゴット)となっていまして、直訳すると「神は堅固な城」という歌い出しです。ドイツには城という言葉は「シュロス」という言葉があります。日本で良く知られている「ノイ・シュヴァン・シュタイン城」はこの「シュロス」と呼ばれる城です。それは本当に大きな城のことをシュロスといいます。そして、もう一つの「ブルグ」というのは、先ほど写真で見せたような山の上にある小城のことを指します。ですから「砦」とか「やぐら」という翻訳はそこから来たのですけれども、ルターが聖書を訳すために守られていた城は、それほど大きな城ではありませんでしたけれども、ルターはそこで、本当に確かな神の守りを感じたことでしょう。ですから、この讃美歌は、そのようなルターの実体験がその背景にあるということができる讃美歌なのです。

三番目の歌詞はこうあります。

悪魔世に満ちて 攻め囲むとも

我は恐れじ 守りは固し

世の力さわぎだち 迫るとも

主の言葉は 悪に打ち勝つ

さきほそ、ドイツの家の瓦の写真をみせましたけれども、この瓦の黒さも、ひしめき合う姿も悪魔のように思えるほど、ルターは孤独の戦いを経験しました。けれども、そのように、周り全てを取り囲まれたとしても、神が私を守ってくださった。そう信じて喜んで歌うことができたのです。

そして、最後の4節の歌詞はこう続きます。

力と恵みは 我に賜る

主の言葉こそは 進みに進まん

わが命 我が全て 取らば取れ

神の国はなお我にあり

ルターは、このコラールを通して、神の言葉が、つまり聖書があるならば、私はどこにでも突き進むことができる。そして、それは、もし自分が死ぬことになったとしても、自分は神と共に生きているから平安であるという詩で結んでいます。

歌を歌う。ということは、私たちにとって何でもないことかもしれません。けれども、自分の心の中からあふれ出てくる歌を、神に歌うことができるというのは、それはもう一つの信仰告白です。ですから、ルターは信仰を教えるために歌を用いたほどです。そう歌うことができるならば、そう生きることもできる。それがルターが讃美歌に持たせた意味であったということができるでしょう。

ルターが埋葬された時、このコラールがあのヴィッテンベルグの城の教会で多くの人々ともに涙をもって歌われたといいます。まさに、この歌の通りに生きた人が、宗教改革者ルターでした。そして、この歌から、ドイツの讃美歌の歴史は、新しくはじまっていったのです。この曲が入れられた讃美歌集が、ドイツのプロテスタント讃美歌の始めとなりました。 私たちは今日も礼拝で様々な歌を歌います。 そして、聖歌隊などを作って歌ったり、あるいは教会で教会音楽の演奏会をいたします。 すべてがここから始まったのです。

神は私たちの砦となって、私たちを守ってくださる。私たちが、どのような困難に合おうとも、悪魔が私を取り囲んで攻めたてられるようなことが起ころうとも、神は、聖書の言葉を通して私たちを支えてくださいます。そしてその、聖書の言葉を自分の心の中に蓄えために、歌にして、賛美にして口ずさむ時、その信仰は自分のものとなるのです。

この賛美の喜びを、ぜひ知っていただきたい。ぜひ、教会で一緒に賛美を歌う一人となっていただきたい。それが、どれほど確かな人生を与えるか、その賛美の生活の中で、体験していっていただきたい。聖書の信仰を歌う。そこに、実は私たちの生きる力が与えられるのです。

お祈りをいたします。

 

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