・説教 マルコの福音書7章31ー37節「エパタ―神の言葉が聞こえてくる―」
2018.06.10
鴨下 直樹
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先週の月曜日から水曜日までJEAと言いますが、日本福音連盟の総会が行われました。福音派と呼ばれている教会や教団の代表者が集まって総会を行うのです。今回の総会では、5年後の伝道会議の会場が東海地区に決まりました。
この総会に先立って、東海地区のこれまでの取り組みについて報告する時間がありました。私は東海聖書神学塾の働きについて紹介して欲しいということでしたので、神学塾の働きについて紹介しました。この東海地区というのは、私たちが所属しています福音派の教会が良い協力関係を長年築き上げて、宣教協力をしてきましたし、また地元の奉仕者を育てるための機関として神学塾がその役割を担ってきました。こういうこれまでの東海地区の働きを知ってもらって、その翌日の総会で5年後の会場が決議されたわけです。
今回、3日間の総会で、その他にも様々なJEAとしての取り組みも紹介されましたが、その中で何度も何度も語られた言葉の中に、「次世代」という言葉があります。今、日本中の教会で、次の世代、特に若い人に福音が届かないという共通した危機意識があるようです。日本の教会の将来はこの次世代に、若い人たちに福音が届いていくのかどうか、それが大きな課題となっているのです。
私自身は、福音が届きにくくなっているその背後に、スマートフォンの普及があると考えています。スマートフォンの普及によって、人々の、特に若い人々の生活が大きく変わりました。電話や音楽や写真がいつでも手軽に楽しめるということもありますが、それ以外にも、例えば本の購入にしてもテレビ番組や映画なども、今はこのスマートフォンで自分の好きなものを簡単に選ぶことができます。
みなさんも、「聖書」のアプリを入れている方が何人もいると思います。「礼拝中に携帯をいじってあの人は」と思ってよく見てみると、聖書を読んでいるということも多いわけです。スマホで買い物も簡単にできるようになりました。この小さな機械の中で欲しい情報が何でも手に入れられるようになったわけです。そうすると、自分の興味のあるもの、関心のあるものを選ぶすべての選択権を自分が持つことが出来ます。家族でテレビチャンネルを取り合う必要もなくなりましたし、駅で公衆電話に並ぶこともなくなりました。今の流行が何かというような他からの情報に影響される必要もなく、何でも自分が物事の判断の基準でいられるようになりました。
自分で選び取ったものだけで楽しむことができるわけですから、このスマートフォンというものの中にはストレスはあまりなくなっていきます。そうすると、思いがけない外からの言葉というものが、なかなか耳に入って来なくなるわけです。もし、何かの都合でそういうものが入り込んできたとすると、それは、広告であったり、スパムなんて言い方をするわけです。スパムというのは家に送られてくるダイレクトメールのインターネット版のことです。
今の若い人は、スマートフォンに熟練すればするほど、周りの言葉はどんどん届かなくなってしまうわけです。これは、教会だけのことではなくて、家族の言葉にしても、会社の上司の言葉にしてもそうなっていくわけです。外からの言葉を一切シャットアウトして、自分で見たいもの、聞きたいものだけを選びとっているわけですから、そこに入り込んでいくことは簡単なことではないわけです。今、私たちはそういう世界の中で生きています。言葉が、お互いの意思が、相手に届けにくい世界の中で生きているわけです。
今日の聖書はそういう視点から考えて見ても、とても興味深いところです。主イエスは異邦人の町にいました。今日の箇所はまずこういう言葉から始まっています。
イエスは再びツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けて、ガリラヤ湖に来られた。
シドンというのは地図を見るとツロの更に上にある町です。デカポリスというのはガリラヤ湖の右下のあたり全体を指す10の町の総称です。これまでの新改訳は「デカポリス地方あたりのガリラヤ湖」となっていました。つまり、ガリラヤ湖と言っても異邦人の町の側だというわけです。最近の聖書学ではデカポリスを通ってガリラヤに着いたとするべきなのではないかという理解があって、今度の翻訳はそれにならったようですが、私はこれまでの翻訳が自然なのではないかと考えています。着いたのは、まだ異邦人の土地なのです。
異邦人の町を主イエスがぐるっと回りながら神の言葉を語られたに違いないのです。けれども、誰も耳を傾けないのです。人々が関心を向けるのは主イエスの奇跡だけです。そして、ここでも、人々は主イエスに奇跡を期待して近づいて来たのです。ところが、連れられて来たのは、耳が聞こえず、口のきけない人です。人々が連れて来たというのは、あの中風の患者を連れて来た四人の友達のようであったと読むこともできるかもしれませんが、おそらく、連れてきた人々も様々な願いがあったのだと思います。一人で行く勇気がなくても、みんなで集まれば怖くないというような気持ちであったのかもしれません。そして、ここで、主イエスは、この耳が聞こえず、口のきけない人をお癒しになったと書かれているのです。
今日もそうですが、いつも礼拝の時にKさんが手話で同時通訳をしてくださっています。この教会に来て、私が最初に驚いたのは、礼拝で手話の同時通訳が行われていることです。それまで、私にとって手話というのは、あまりなじみのあるものではありませんでした。妻は少し手話ができますが、それまでは見る機会はほとんどありませんでした。この教会に来て、私はTさんを通して、色々なことを教えられました。
耳が聞こえない、話すことができない障害のことをこれまで「聾唖」と言ってきたと思いますが、本当は「聾(ろう)」とだけいうのだということを知りました。話すことができないわけではなく、聞くことができないために、正しい音で発声しにくいということであって、話すことができないわけではないのです。
今日の聖書の箇所はこの「聾」の方の癒しの出来事が記されています。私はこういう聖書の箇所をTさんやOさんが、いったいどういう思いで読むのだろうかと、実はとても気になります。
私がまだ神学生であったときに、実習で奉仕した教会に目の見えない方がおられました。そのころ教会では聖歌を歌っていたのですが、聖歌の451番に「神なく望みなく」という賛美があります。私が教会の祈祷会でこの歌を選んだ時に、それまであまり気にしていなかったのですが、歌詞の中に「我知るかつてはめしいなりしが、目明きとなり神をほむ、今はかくも」とあります。私はその方を前にして、その聖歌を選んでしまったことを恥じました。考えなしに選んでいたのです。それで、聖歌の451番という番号の横にバツ印を書きまして、今後選ぶことがないように気をつけようと思ったのです。
ところが、それから半年くらいたってからでしょうか。好きな賛美を選んでくださいとお願いしたら、その方が451番を選んだのです。そして、この歌を歌いながら、これは私の歌だと証ししてくださったのです。そして、その時にこの方がこう言われたのです。「この歌詞は本当に目が見えないという意味で言っているわけではないのでしょう。見るべきものが見えていなかったけれども、信仰を通して見えるようになった。それは私にとっても実感なのです」。そう言われたのです。私は歌詞を見て、これは目の見えない方にとって配慮のない歌かなと思っていましたので、こういう歌が慰めになるのだということをその時改めて考えさせられたのです。
今日の箇所も同じようなことが言えるのではないかと思います。神の言葉が語られていても誰も聞いていないのです。人々は言葉を聞きたいとは思っていないのです。そして、そういうところで、主イエスの目の前には主イエスの言葉を聞きたいと思っても聞くことの出来ない人が連れて来られたのです。そこで、主イエスは何をなさったのかというと、まず、「その人だけを群集の中から連れ出し」ます。主イエスは一人一人、一対一で向き合ってくださるお方です。群集に紛れて自分の言い分もついでに聞いてもらいたいというような関係を主イエスは願ってはおられないのです。人々の願いは「彼の上に手を置いてください」ということでした。しかし、主イエスは「天を見上げ、深く息をして」と書かれています。新改訳のこれまでの訳は「深く嘆息して」となっていました。先週の祈祷会で、これがどういう嘆息なのか色々な意見がありました。
この場面はイメージしてみるとよいのだと思います。両方の耳に指を入れる。そして、つばきをした指で舌に触れ、続いて主イエスは天を仰ぎ見て、深い息をつかれる。自分でも何度もやってみました。天におられる主に期待する思いがそこにある気がします。そして、「エパタ」と声を発せられる。音がなくても、何かをしようとしていることがよく分かります。そして、最初に耳に入って来た音が「エパタ」という主イエスの声です。この「エパタ」という声とともに、この人の耳は開かれたのです。
以前、創世記を学んでいた時に、神が「光よあれ」と言われた時に、神は聞くことを創造されたのだという言葉を目にしました。今、それが誰の言葉であったのか調べていないのではっきり覚えていないのですが、まさにそうなのだと思うのです。
神の御業は語りかけることです。そして、私たちのすべきことは、この神のみ言葉を聞くことです。それは、ただ耳に入って来るということではなくて、神の言葉によって生きるようになるということです。神が語られると、その言葉はその通りになるのです。神の言葉は、出来事となる。事実となる。神の言葉はすべてのものを創り出す言葉なのです。
まさに、このようにここで、この耳の聞こえなかった人の耳は開かれます。そして、語ることができるようなる。
最後の37節の言葉は預言者イザヤの35章5節と6節の成就を思い起こさせます。そこにはこう書かれています。
そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。その時、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。
マルコの福音書は、イザヤの預言がここで実現したと見ているのです。「この方のなさったことは、みなすばらしい」と37節に記されています。ここにいた群衆がどれほど、この言葉の意味を理解していたかは分かりません。また、癒された人が発した言葉かどうかもはっきりしません。けれども、「この方のなさったことは、みなすばらしい」というこの言葉は紛れもない事実です。
神の言葉が聞こえて来るとき、私たちは、この神の慈しみ、愛に触れて、神を、主イエスをそのように濃く把握することができるようになるのです。それこそ、先ほどの聖歌の歌詞のように、「我知るかつてはめしいなりしが、目明きとなり神をほむ、今はかくも」と、心から喜んで歌うことができるようになるのです。
私たちの主は、私たちに言葉を持って語りかけてくださるお方です。それは、この世界に満ちているどんな言葉よりも、私たちを慰め、私たちを生かす言葉。この言葉によって、私たちはこの世界で力強く生きることができるようになるのです。私が聞きたいのは、私を変えてくれる言葉、私を新しくし、私の悲しみを乗り越えさせ、私の悩みに答えを示し、どう考えるのか、どう判断するのか、どう決断するのかを私たちに示す言葉です。この主の言葉、「エパタ」という言葉が、「開け」という言葉が聞こえて来るとき、私たちはそこから、新しい生き方が見えるようになるのです。新しい言葉が聞こえてくるのです。
私たちは、このお方の言葉、主イエスの言葉によって生きることができるのです。
お祈りします。