2018 年 12 月 9 日

・説教 マルコの福音書10章35-45節「土台のある人生」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 08:53

2018.12.09

鴨下 直樹


 先週、教団役員会で武豊教会を尋ねました。教会の前に、もみの木のクリスマスツリーが置かれていました。今年から武豊で牧会されているベルンス先生に聞くと、根の上の部分から切り落とした生のもみの木でした。プラスチックのものと比べるとやはり生のもみの木は雰囲気があって一段と綺麗に見えます。ただ、根がありませんので、しばらくすると枯れてしまいます。このクリスマスの季節だけ使うことを考えればそれで充分です。それで、この時期になると、切り倒してきたもみの木が売られているわけです。けれど、ひと月ほどは持つようですが、何か月かすれば枯れてきてしまうので、少し残念というか、もったいない気がします。今日は、「土台のある人生」という説教題にしました。土台がない、根がない人生ということについて考えてみたいと思います。

 今日の聖書の箇所は主イエスの弟子であるヤコブとヨハネの言葉からはじまります。

「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」

 主イエスの2度目の受難予告の後の出来事です。主イエスがここで、自分が殺されるという話をしているのに、その後で出てくる質問としてはちょっとどうかと思う質問がここで出されています。33節で、主イエスは受難の予告をされたときに、エルサレムに上って行くという話をしています。昨年、冬のオリンピックで良い成績を収めた選手のパレードの様子を何度かテレビで見たことがありました。何万人という人が集まって、金メダルをとった選手を一目見よう、またお祝いの声をかけようと集まってくるのです。その時の歓声の大きさ、人の集まり、それはもうまさに大群衆というような人の群れが生まれます。主イエスがエルサレムを訪れる。今ほど人口の多い時代ではありませんから、何十万人というような人がエルサレムに集まることはないと思いますが、それでもかなりの人の群れがエルサレムに集まるのです。それほど、主イエスは当時の人々の注目を集めていました。大祭司や律法学者が妬みを引き起こすほどの人気ぶりだったのです。

 弟子たちは、そんなことを想像したのかもしれません。あるいは、これは私の想像が行き過ぎているのかもしれません。ただ、殺されるという話を聞いて、ならば今のうちにお願いできることはしておこうということだったのかもしれません。いずれにしても、ヤコブとヨハネは、自分たちの願い事をかなえていただきたいというものでした。兄弟二人で申し出たわけですから、このタイミングで思いついたということではなくて、前からお願いしたいと考えていたということでしょう。

 主イエスにかなえてほしい願い事がある。それは、よく考えてみれば、特に珍しいことでもないでしょう。私たちには実にさまざまな願いがあります。病気が治るように祈ることもあります。無くしてしまった財布が見つかるように祈ることもあるでしょう。遠くに住んでいる家族のために祈ることもあります。ですから、このヤコブとヨハネの申し出を私たちは簡単に場違いなひどい願いだと決めつけてしまうことはできないと思うのです。

そして、主イエスはこの二人の願い事に対してこう言われました。

「何をしてほしいのですか。」

 先日の祈祷会でこの箇所を学んだ時に、何人かの方々はこの主イエスの言葉の前に「この期に及んで」という言葉が付くのではないかと言われました。主イエスの立場で考えたら当然そうなると言うのです。わたしの話を聞いていたのか。わたしは今、大事な話をした。わたしは今からエルサレムに上って殺される。そう話したのに、その言葉に対する反応は何もなくて、「この期に及んで何をして欲しいというのか」そんなニュアンスなのではないのかと言うのです。

 確かに、聖書を読むだけではニュアンスまで受け取ることはとても難しいことです。確かに、主イエスの立場で言えばそういう思いであったかもしれません。けれども、私たちの側から考えてみると、「何をしてほしいのですか」と聞き返してくださるということは、自分が受け入れられているという気持ちになれます。「ああ、願い事を言ってもいいのだ。自分のことを拒絶されていないのだ」ということが分かるわけです。これからエルサレムに上って殺されるという殺害予告をされているわけですから、願い事を聞いているような場合ではありません。それなのに、主はそんなわがままなことを言う弟子たちに耳を傾けていてくださるお方なのです。

 そこで、二人は願い事を告げます。

「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」

と37節にあります。かなり厚かましい願い事です。「あなたが栄光を受けるとき」と二人が言うときに、その言葉が何を意味していたのでしょうか。弟子たちは主イエスがメシアであるということが分かり始めていました。けれども、その意味はエルサレムに入られて、そこでローマの権力を打ち破って、そこで神の国を立て上げるというものでした。そして、そのとき、自分たちをナンバー2とナンバー3のポジションに置いて欲しいと願ったわけです。もちろん、それは主イエスが語る「神の国」とまったく真逆のイメージです。ヤコブとヨハネはそれこそエルサレムをローマから奪還して、その王座についておられる主イエスの両隣に自分たちがいたいというようなイメージをもっていたのでしょう。

 願い事の多くは、自分の願っている理想を手に入れることです。理想のものを手に入れることができれば、安定する。安心が得られる。これまで頑張ってやってきたことが報われる。そこには、さまざまな思いがあります。私たちの願い事というのは、自分がどう生きるか、これからどうあるか、そういう願い事であることが多いのだと思います。けれども、その多くは、根本的なものではなくて、表面的なものであることが多い気がします。

 それこそ根の無いクリスマスツリーのようなものです。ツリーにかざる綺麗な飾りを私たちは求めてしまいがちです。けれども、根がないならば、いくら飾り立てても数か月後には捨てられてしまうことになる。
根無し草という言葉があります。同じような意味ですが、確かな拠り所のない生き方を指して言う言葉です。あるいは、浮草のようなものを指す場合もあると思います。私たちは、大事なものを求めるのだとすれば、自分を本当に支えるようなものを求めるべきです。しっかりとした根の張った生き方をすべきです。自分はどこから養分を受けて、何を実らせようとしているのか。自分を支えるもの、それを求めることが大事なのです。

 主イエスは確かに私たちの願いに耳を傾けてくださいます。ただ、それは私たちの願っているようにしてくださる。何でも願いを叶えてやるということではありません。主イエスは、答えて言われました。

「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。」

と。

 主イエスの右と左の座に着くというのはどういうことなのか。その意味が分かっていないと言うのです。そして、

「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」

と尋ねるのです。主イエスが飲む杯とは、十字架で流す血潮のことでしょう。バプテスマは本来、水に沈めて死ぬということです。十字架で血を流し、殺されるということを受けることができるのかと、問われたのです。

 ところが、ヤコブとヨハネは「できます」と答えます。もちろん、意味が分かっていないのです。そのポジションをいただけるのであれば、何でも頑張ってやり遂げますというような意味にしかとらえていないのです。そして、主イエスは、確かにあなたがたはそれを受けることになると、この二人の殉教や迫害があることを告げられます。けれども、たしかに主イエスのような苦しみを受けることになるかもしれないけれども、その座に就くのは備えられた人がいると、この弟子たちの申し出を拒んでおられるのです。この2人からしてみれば残念な答えであったというほかありません。また、それを聞いてほかの弟子たちも腹を立てたということが記されています。これは、ほかの弟子たちも同じことを考えていたということです。二人に出し抜かれて、腹を立てているのです。結局のところ、主イエスに付き従った弟子たちはみな同じような考えでいたというのです。まだまだ未熟なままであったというのです。

 そこで、もう一度主イエスは丁寧に、弟子たちに分かるように説明をします。偉くなって、人の上に立って人を支配するというのは、この世の権力者たちの求めていることだと言われるのです。クリスマスツリーの一番上で光り輝くスターになって、一番になって人の前で輝いていきたいというのは、この世界の求めていること。けれども、主イエスが語り続けておられるのはそうではなくて、人に仕えること、人を支えて、人を生かすこと。

「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

と言われたのです。

 主イエスはここではっきりと、自分は人の上に立つために来たのではなくて、人の下に立って、人を支えるために、人を生かすために命を捨てるのだと宣言なさいました。もう、かなりはっきりと、ここで主はご自分が何のために来られたのか、これから何をしようとしているのかを答えておられます。そして、このマルコの福音書はこの後、弟子たちがこの主イエスの言葉をどう受け取ったのかを記さないで、また別の物語を記していくのです。

 思い込みというのは恐ろしいものです。自分の思っているようにしていただける。自分の願いは実現する。主イエスは自分の願いを叶えてくれる人だと思い込んでしまうと、なかなか主イエスの言葉が耳に入ってこないのです。そして、自分には根がないことを、土台がないままで、やがては枯れていく自分という木を必死で飾ろうとしていることに気づかないのです。

 先日、今年のノーベル賞が発表されました。今年も日本人の方が受賞されましたが、最近日本人の受賞が多いためかあまりクローズアップされることが少なくなってきている気がします。私が興味を持ったのは平和賞を受賞したコンゴのドム・ムクウェゲ医師です。先日テレビでの特集を見ましたが、イスラムの過激派組織に暴行を受けた女性たちの治療に当たっている医師です。こういう報道を通して、少しでもこのような被害が減ることになればと思います。

 かつて、2000年に平和賞を受賞したマザー・テレサのことはみなさんご存知だと思います。日本にも何度か来て、その活動が紹介されてきました。以前何かで読んだのですが、こういうマザー・テレサのような活動が紹介されると、その働きに感激して何人かの若者が随行するようになるのだそうです。ところが、しばらくしてその熱が冷めてしまうと、自分は何のためにここで働いているのか分からなくなって、例外なく帰国していくということでした。どんなに素晴らしい働きであったとしても、根がないので、やがて枯れてしまって続かないのです。でも、マザー・テレサにはその働きを続ける秘訣がありました。朝4時と夕8時に行われたミサです。カトリックですから毎日ミサがあります。そこで、聖餐にあずかるたびに、私はキリストのものであるということを覚えるのです。私はキリストのものである。自分が、キリストに支えられているというこの事実が、自分のいのちを支える土台であり、中心なのだということが分かっているのです。それが、マザー・テレサの力でした。人の上に立って人を支配するような生き方ではなくて、主イエスのように人のために自分を与えて、人に仕える者になりたいと願ったのです。

「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」

 これが、主イエスの生き方でした。人を支える者として生きる。自分のことではなく、人のこと。そのようなキリストのような生き方が、私たちの人生の土台となるならば、私たちは自分が確かに神に支えられていることを覚えることができるのです。そして、確かな平安を持つことができるようになるのです。そして、人を生かし、人を愛する喜びを知るようになるのです。人に喜ばれる生き方。神に喜ばれる生き方。これこそが、私たちの生きる意味です。私たちの土台、私たちの根っこの部分。ここがしっかりしてくるとき、私たちはすくすくと成長し、実を実らせ、確かな喜びに支配されて生きることができるようになるのです。

お祈りをいたします。

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