2019 年 3 月 24 日

・説教 マルコの福音書12章35-37節「キリストって?」 

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 10:49

2019.03.24

鴨下 直樹

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 前回の聖書箇所の最後にこう書かれていました。34節の後半です。

それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。

 ここに、主イエスと神殿側の指導者たちをはじめ、もろもろの人々との討論の終わりが記されています。みな主イエスの語る言葉に驚きながら、主イエスの言葉に耳を傾け、そしてみな納得したのです。主イエスの言葉の力を認めるしかなくなったのです。

 さて、それでどうなったのか。今度は主イエスの方から尋ねられる番です。主はこう切り出されました。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。」

 「キリスト」とは何者なのか、「キリスト」は「ダビデの子」なのかという問いかけを主イエスの方からなさったのです。これは、いきなり問題の核心をついた質問だと言えると思います。

 今、私たちは受難節を迎えているわけですが、この受難節の問いは、このキリストとは何者なのかということに尽きると思います。というのは、主イエスが十字架刑を受けた時、自らキリストと偽証したという罪で殺されることになったからです。

 キリストというのは、固有名詞ではりません。人の名前ではありません。イエスが名前で、キリストが苗字というようなことでないわけです。そうではなくて、「キリスト」というのは称号です。キリストはギリシャ語ですが、旧約聖書のヘブル語では「メシヤ」と言います。メシヤというのは、油を注がれた人のことを指して言う言葉、称号です。そして、この油を注がれる人というのは、聖書の時代、王が選ばれるときに、油を注がれました。あるいはまた、祭司や預言者も、油を注がれます。神から特別な務めを与えられた者に油が注がれたわけです。

 けれども、いつしか、油注がれた者、メシヤと言うと、人々の中で真っ先に頭に浮かぶようになったのが、ダビデ王でした。ダビデはイスラエルを外的から守り、度重なるクーデターにも耐え、神の民の国としての安定をもたらせた王さまです。そして、次々に王が変わっていく中、神の御心を行わない王たちによってイスラエルは腐敗していきます。そして、ついにイスラエルは、南ユダと北イスラエルとに分裂してしまいます。それでも、神の民には悪い王ばかりが立ち続け、ついには外国に侵略されてしまいます。このころになると、神は預言者たちを立てて、もう一度油注がれた者、メシヤが与えられるとの約束を語らせました。そして、預言者を通して語られたこのメシヤによって、もう一度神の御心を行う国として立ち直ると聖書は約束を告げてきたのです。そうすると、自然に、人々は神が約束されたメシヤというのは、ダビデのような方に違いないという期待が膨らんでいきました。そして、イスラエルの人々はキリストが現れたら、きっと今のイスラエルを支配しているローマの手から私たちを救い出してくれるに違いないという幻を描いたのです。

 教会の歴史の中でも、さまざまなメシヤ、キリストのイメージが作り上げられてきました。キリストは教会の頭である。そんなイメージからいつのまにかキリストは教会の絶対的な権力者であるというイメージが生まれていきました。そして、中世の時代になると国の王よりも、王を任命するローマ教会の教皇、私たちが耳慣れた言葉でいうとローマ法王が絶対的な権力を持つようになりました。なぜ、こうなったのかというと、王様を任命するのは教皇の役目でしたので、教会が認めなければ王様にしてもらえなかったわけです。それで、ローマ教皇はこの世界のすべての権力を持つようになったのです。

 先ほど「聖書のお話」であったスキットの話は、このころに作られたものです。二人の農夫が道端で見かけた行列の話です。一人はみすぼらしい姿でロバに乗った人の行列です。この人は粗末な着物を着て、頭にはいばらの冠をかぶり、貧しい人や病人とともにみな楽しそうに通りを進むのです。その一行を見た農夫はもう一人の農夫に、あれは誰かと尋ねると、あれが、われらの主イエス・キリストだとの返事が返ってきます。しばらくすると、別の一行が通りかかります。この一行はたくさんの兵隊を引き連れています。そして色とりどりな服に金で着飾って立派な姿で馬に乗り、「私は正しい」という旗を掲げてみんなを黙らせて闊歩する皇帝のようないでたちの行列だったのです。農夫はその一行を見ながら、あれは誰かと尋ねると、あれは先ほどのキリストの地上の代理人と言われるお方だと知らせたというのです。

 これは中世の時代のローマ教皇を揶揄した話として残っているのです。当時の教会もまた、完全にキリストのお姿を見失っていたのです。キリストはへりくだり、罪びとの傍らにおられたお方でした。しかし、主イエスから1000年も過ぎる間に、しだいにほんとうのキリストの姿は見失われてしまって、立派な権力者のような姿に変わってしまったというのです。そう考えると、今の私たちは大丈夫だと言えるのでしょうか。

 もしかすると私たちも、自分の都合のよいキリスト像を作り上げてしまって、キリストはこういうお方なのだからと、何か偏ったイメージに無理やりはめ込もうとしているのではないでしょうか。もし、そうであるなら、それは、正しいとは言えないわけです。主イエスは困ったときには助けてくださるお方、病気の時には治してくれて、お金のない時には必要を備えてくれて、悩んでいるときにはいつも道を示してくださる。そうやって私たちが祈るときの主イエスのイメージを順に挙げていくと、それは確かにキリストのイメージに合致します。けれども、そうして自分たちの都合の良いイメージにキリストを無理やりはめ込んで、それがキリストなのだと思い込んでいるのだとすると、やはりそれは間違ったキリストのイメージだと言わなければなりません。

 律法学者たちはキリストのことを「ダビデの子」と呼びました。主イエスはここで、そのことを問いかけられました。この「ダビデの子」と言ったのは律法学者だけではないのです。主イエスがエルサレムに入場された時に、叫んだ群衆はみな、「ダビデの子にホサナ」と叫んだのです。みなが、ダビデのようなキリストを望んでいたのです。
 主イエスはそこでこう言われました。36節と37節です。

「ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、わたしの主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足台とするまで。」』
ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」

 これは詩篇110篇の一節です。この詩篇はダビデが王として即位をした時の詩篇と言われています。

 少し意味が分かりにくいのですが、この冒頭にこうあります。「主は私の主に言われた。」とあります。この冒頭の主は、新改訳聖書では太字で書かれている主です。つまりヤハウェ、主なる神のことです。その後出てくる「私の主」というのは、ダビデが自分の子孫のことを指して言っている言葉です。ダビデはこれから出てくるであろうダビデの子孫に対して、神である主が「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」と語ってくださると言うのです。つまり、この詩篇でダビデは、やがて来られる方のことを「私の主」と呼んで、神はこの後、ダビデの子孫に救いを与えると約束してくださっていると言っているのです。

 主イエスはここで、この詩篇を引用しながら、ダビデ自身が自ら、自分の子孫として来られる方のことを「私の主」と呼んでいるではないかと言います。だから、ダビデの子孫であるキリストがダビデより偉大な者であることは、ダビデ自身分かっていたではないかと言われるのです。ダビデが理解していたのは、やがて、子孫の中からダビデにとっても主とお呼びするほかないようなお方が現れる、それこそがキリストなのだということを、主イエスはここで言おうとしておられるのです。ダビデ自身が、やがて主とお呼びするお方がキリストなのだとしたら、そのキリストは「ダビデの子」というイメージに収まるはずはないのだと言っているのです。

 当時の人々だけではありません。私たちもまた、当時の人々のように自分の都合のよい救い主を思い描きながら、新しい「ダビデの子」を作り上げてしまう弱さがあるのだと思います。いや、それは私たちだけに留まりません。現代という世界は、さまざまなダビデの子を求めているのだと言えます。それは、いろいろなジャンルで、いろいろな場面で、自分の願いを叶えてくれるようなヒーローや、白馬にまたがる王子様や、あしながおじさんを探しているのです。最近はよく、「神」という言葉をどんなジャンルでも使うようですが、自分のイメージにあうイメージを神と呼びながら、自分たちに都合のよい今日の「ダビデの子」を求めているわけです。

 けれども、主イエスはここではっきりと言われるのです。本当のキリストは、人が作り上げるイメージの中に納まるはずがないではないかと。ダビデが自分自身と同じ程度の者をイメージしているのであれば、「主」などと呼ぶはずはないではないかと。

 主イエスはここで私たちに問いかけておられるのです。「あなたのキリストのイメージは小さすぎるのではないか」と。いつのまにか、私たちはキリストを小さくしてしまっていないかと、主から尋ねられているのです。

 主イエスにはもっと大きな計画があるのです。私たちが考えているようなこととはまるで異なる次元の計画が主にはあるのです。主イエスには、主イエスにしか与えることのできない救いがあるのだと言われるのです。

 ドイツの説教者で、文学者でもあったアルブレヒト・ゲースはこう言いました。「私たちは、私たち自身が知っているよりももっと多く救われているのだ。」と。

 私たちの思いで、主イエスの御業を小さくしてしまうのではなく、私たちはもっと大胆に、より大きく主に期待することがゆるされているのです。私たちは、私たちが感じているよりも、私たちが理解しているよりも、もっと大きく、もっと確かに救われているのです。そして、わたしたちはもっと大きく期待することができるのです。

 キリストは、王です。そして、祭司です。預言者でもあるのです。このキリストという言葉だけでも、「ダビデの子」に意味されるような王の子孫というよりも、もっと大きな意味を持っているのです。今の私たちは「王」を持っていませんから、「王」すらも正しくイメージすることができていないのかもしれません。「祭司」もよくわからないし、「預言者」もよくわからないということになるのかもしれません。分からないことだらけです。けれども、そこには、より大きく、より豊かなものがそこにはあるということの表れでもあります。

 私たちの主は、私たちの期待を超えて働かれるのです。今日、教団の3月総会が行われます。私の代表役員の任期もようやくこの総会の選挙で解放されます。私はこれまで約20年にわたって同盟福音で働いてきました。代表役員の先生方の働きを見てきたつもりでしたが、見るのとやるのとでは大違いでした。いろんなこれまで見えてこなかった課題があることを知りました。そして、それ以上に、そのような課題も神がすべてに対して解決を与えてくださるお方であることを知ることができました。より大きな神の恵みを見ることのできた時だったと思っています。だからこそ、これからもこの主に期待することができるという思いを新たにされています。そして、新しい年度を迎え、また新たに始まる働きにも期待することができます。

 自分の考えている以上の神の豊かさを知ることは喜びです。それは感謝なことであり、自分の信仰がより強められる経験でもあるのです。それは、振り返ったときに味わうことができるのです。いろいろあっても、それでも今日も生かされている。それは感謝以外の何物でもないのです。

 この主を見上げるのです。私たちのキリストをより深く知っていきたいのです。ここに、私たちの確かさのすべてがあるのです。

 お祈りをいたします。

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