・説教 マルコの福音書13章1-13節「最後まで耐え忍ぶ人」
2019.04.14
鴨下 直樹
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今日からマルコの福音書の13章に入ります。主イエスと弟子たちはエルサレムの神殿で宮清めをなさったあと、もう一度エルサレムの宮に戻ってきます。そこで、いろいろな人たちと論争をなさいました。最初に来たのは神殿側の人々です。祭司長や律法学者たちが主イエスに、いったい何の権威があって、神殿の商売を妨害するのかと論争を挑みました。その後も、続いて次々に主イエスはいろいろな人たちと論争をし、対話を重ねてきました。その対話のすべては、結論から言えば主イエスの勝利と言ってよいと思います。もはや、誰も主イエスに論争を挑むものはいなくなったのです。そして、ここで、その神殿を去ろうとしているのです。
その時です、弟子のひとりがこう言ったというのです。1節です。
「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
誰がこう言ったのかは分かりません。ただ、どうしてこういう言葉が出て来たのかということを想像することはできます。主イエスは神殿の運営を思いのままにしている祭司長たちや、その周辺にいる人々と論争して、勝たれたはずなのです。もう、誰も戦いを挑んでくる人が出てこないほど完全な勝利をされたのです。神殿側の人間と戦って勝ったということは、本丸を落としたということです。もし、そうならやることは神殿に留まってエルサレムの指導権を握って改革に着手するのが普通です。けれども、主イエスはやっと手に収めたはずの神殿から去っていくのです。だから、こういう言葉が出てきたのです。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんと素晴らしい建物でしょう。」これはもはやあなたの手の中にあるのです。これは、あなたのものとなったはずです。そんな思いがあったのではなかったかと思うのです。
当時のエルサレムの神殿は、第三神殿と呼ばれていました。ソロモンが最初の神殿を建設してから、2度エルサレムは陥落し、神殿も壊されてしまっていました。ところが、この時代、ヘロデの手によって三度、神殿が建設されたのです。そして、まだ主イエスのおられた当時、完成まではあと30年を費やすと言われていました。今もこの時の神殿の西側の壁だけが残っています。嘆きの壁と言われて、多くのラビたちがその壁の前で祈っている姿を目にすることができます。その壁にはもっとも大きな石で9メートルもの長さの石が使われているのだそうです。立派な石です。
エルサレムの神殿というのは、イスラエルの人々の心のよりどころです。だから、年に一度の過越の祭りの時には、国を挙げて大勢の人々がエルサレムを訪れるのです。国の誇り、民族の誇りの象徴です。そこは誇りだけでなく、安心感や、幸福のシンボルともなっていました。当時のイスラエルはローマに支配されていたとはいっても、ローマはイスラエルには特別な優遇措置を与えていました。たとえば、自分たちで裁判をすることが認められていました。また、ローマの皇帝礼拝も免除されていました。ローマはイスラエルの信仰に一目置いていたことがここからもよくわかると思います。変な例えかもしれませんが、それは立派な大企業に勤めているのと、似た感覚があると思います。この会社に勤めていれば絶対安心、そんな確かさがあるわけです。
ところがです、主イエスはこう言われたのです。
「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることはありません。」
2節です。主イエスはここで、この立派な建物は徹底的に破壊される日が来るのだと言われたのです。目に見える確かさなどというものは、意味はないのだと言われているようなものです。この主イエスの答えは、衝撃的なものでした。
この芥見教会の礼拝堂も、もともと地盤が固いのに、その地盤にさらに杭打ち工事をして、より地盤を強固にしてからこの建物を建てたと聞きました。地域の避難場所になるようなしっかりとした建物を作ろうとしたのです。私たちにしてみれば、この礼拝堂がこなごなになるほどまでに壊れると言われているようなものです。
主イエスはここで問いかけておられます。あなたがたは一体何を見ているのかと。私たちは、立派な建物や、目に見えて美しいもの、あるいは、みんながこれがあれば大丈夫と言うようなもの、そういうようなものを見ながら、これは確かだと安心するわけです。老後にいくら必要とか、地震が来ても大丈夫な家とか、病気の備えとしてできるだけ手厚い生命保険に入っておいてほうがよいとか、いろいろな確かさを求めています。
この13章には4回、同じ言葉が使われています。「気をつけなさい」という言葉です。今日の箇所で言うと、5節と9節です。5節は「気をつけなさい」とあります。9節は「用心していなさい」となっています。そのほか、23節と、33節にも出てきます。これは、どれも同じ言葉で「じっと見る」という言葉から出来ている言葉です。
主イエスはここで、「じっと見なさい」「しっかり見ていなさい」と言われています。何を見るのか。何を見極めろというのでしょう。
10節にこうあります。
「まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。」
ここに「ねばならない」という強い言葉が使われています。「福音が伝えられなければならない」のです。何が大事なのか。何を見極めるのか。それは、自分の安心が一番ではなくて、「福音が伝えられること」。そのことを見極めなさいと言われるのです。
これが、使命だというのです。神殿を手に入れることは使命ではないのです。より確かなものを手に入れることが、一番大事なことではないのです。あなたがたには使命がある。それは「まず、福音が、すべての民族に宣べ伝えられることだ」と主イエスは言われるのです。
民族同士が争いあう、戦争が起こる。地震が起こり、飢饉が起こる。こういう出来事が起こるということは、私たちのいのちがおびやかされるような出来事が起こるということです。そして、迫害されるときが来ると主イエスはここで言われるのです。私たちの生活の状況がどんどん大変になるかもしれない。私たちが生きている環境は決して安心していられるような状況ではなくなる日がやがて来る。でも、その時に見ていなければならないのは、周りの状況や、私たち自身の状態ではなくて、私たちの中に何があるのか、私たちの使命は何か、そのことを見極めよと主イエスは言われるのです。
先日、新しい元号が告知されました。「令和」という元号になるのだそうです。先日、テレビで、この31年間の平成という時代がどういう時代であったかということを振り返る番組をしていました。いろいろと言えるのだと思いますが、日本では戦争がなかった時代であったと、その番組の司会者がまとめていました。世界でさまざまな戦争が繰り広げられている中で、戦争がない時代であったというのです。それは、幸いなことだと思います。ただ、私たちはこの戦争のない時代に生きているということに、いつのまにか安心しきってしまって、何も困ったことが起こらないから大丈夫と油断した生活をしてしまうなら、やはり、それも大事なことを見失うことになるのだと思うのです。むしろ、大変な時代であれば気が引き締まるのかもしれません。
平和であることがいけないのではないのです。大事なことはその中にあって変わらないものを見極めることです。そして、その変わらないものというのは、「福音」そのものなのです。
立派な建物も神殿も、永遠ではないのです。まさに、そのことば通りに、この第三神殿はこのあと30年後に崩壊することになるのです。けれども、このとき語られた神の言葉は長い時間を経て、今もなお語り続けられているのです。
この後、教会は実際に大迫害の時期を経験します。主イエスのおられた時からは想像できなかったと思います。だとしたら、どうして私たちのこれから30年後がそうならないと誰が言いきれるでしょう。
この迫害の時代、教会は多くの殉教者を出しました。主イエスの弟子たちもペテロも、ヤコブもヨハネもこの後、殉教の死を迎えます。もう今から20年以上前に出された小さな本で、「殉教者たちの祈り」という本があります。これは、殉教していった人々が祈った祈りが一冊にまとめられているものです。
アンテオケのイグナティウスという人がいます。紀元35年~107年頃まで生きた人です。パウロの少し後の時代の人になるでしょうか。この人はシリアの地域の司教で迫害のために捕らえられ、ローマに連れていかれ、そこで、教会に手紙を書き送った人です。このイグナティウスの最期は、ローマの闘技場で獣の歯牙にかけられて死を迎えたと考えられています。このイグナティウスの祈りにこういう祈りがあります。
「剣に近ければ、私は、神に近くなる。野の獣に囲まれても、私は神とともにいる。ただ起こることすべてが、イエス・キリストの御名の内にあるように。それによって、私たちが主と共に苦しみにあずかるように。もし主が私に力をくださるのなら、すべてのことを耐え忍べるのだ。」
また、同じイグナティウスの祈りにこういう祈りもあります。
「今やとうとう私は、弟子となることを学び始めました。この世の楽しみもこの世の支配も、私には何の益ももたらしません。私にとっては、この地の果てまで治めるよりも、死んでイエス・キリストを得るほうがいいのです。光に至るまで、私が全うすることができますように。そのとき私は、欠けのない者となることができるのです。我が主が苦しまれたように、私も苦しむことができますように。」
この聖書に書かれているように、その時語るべき言葉は聖霊が与えてくださるのです。イグナティウスはまさに聖霊に導かれながら、迫害の中でこう祈ることができたのです。
先日、渡辺先生が礼拝と午後の修養会に来てくださいました。そこで、何度も語ってくださったのは、この聖霊の働きです。今、私たちは聖霊の時代に生かされています。聖霊なる神が、私たちと共にいてくださるのです。この神の霊に満たされて導かれて生きる、それが私たちの信仰の歩みであると渡辺先生は語ってくださいました。この聖霊は、私たちと共にあって、私たちを励まし、力づけ、語るべき言葉、祈るべき言葉をも与えてくださるのです。
13節にこうあります。
「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。」
そう書かれています。誰も、人に憎まれたいと思ってクリスチャンになった人はいないと思います。
先日の可児教会で行われた結婚式で、結婚されたワイゲル先生ご夫妻にこんな言葉を祝辞として語りました。それは、マタイの福音書の5章44節から語りました。そこにはこう書かれています。
「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」
という言葉です。「汝の敵を愛しなさい」。結婚式でこの言葉が読まれることはあまりないと思います。けれども、結婚生活の祝福はここにあると語りました。ワイゲル先生たちは国際結婚です。奥様になられた方はイギリスで信仰を持たれた方です。けれども、イギリスが好きで何度も何度も訪ねたとのことでしたが、それでもイギリスとドイツは違います。いろいろと乗り越えなければならないことがあります。理解できないことがたくさんあります。
けれども、本当は日本人同士であっても同じことです。たいてい、結婚式というのはお互いの好きだという気持ちが最高に高まって、爆発するようなそんな幸せの絶頂の気持ちで結婚をするのだと思うのです。けれども、どれほど気持ちが高まったとしても、本当はまだ相手のことがよく分かっていない、分からない者どうしが一緒に生きていくことになるわけです。結婚したとたん、お互いの嫌なところに目が行くようになる。そして、だんだんと気持ちが離れて行ってしまうような気がする。けれども、本当は最初からお互いは遠く離れたところにいるわけです。お互い、初めから敵の位置にいるわけです。そして、そこからぶつかり合って、相手を知って、そうやって受け入れること、愛することを始めていくわけです。敵を愛する、憎しみを乗り越えていく。そこに、敵を愛する愛があります。そして、それこそが結婚生活の基本なのだということをお話ししました。先週の火曜日の牧師会でワイゲル夫妻に会いました。もう二週間たつのに、まだ喧嘩をしていないと言っていました。少し驚きましたが、まだ遠慮があるのかもしれません。
愛することの反対にあるもの、それが憎むということです。憎しみを乗り超えていくのが愛です。それは実のところ、クリスチャンだけが憎まれているのではないはずです。愛しあう家族の中でも憎しみが生まれるのです。愛があるからこそ、そのような気持ちが生まれることもあるのだと思います。
「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」とあります。愛することを諦めてはいけません。愛は意志です。愛すると決めることです。赦すと決める。受け入れると決める。私たちの主は、私たちを愛してくださったのです。
今日から受難週を迎えます。主イエスがどのような覚悟をもって私たちを愛してくださったか。私たちはそのことを心に刻みたいのです。私たちの主は、絶対に私たちを見捨てないと決めてくださったのです。何があっても愛すると決意してくださった。私たちがいい加減な気持ちで、主イエスから何度心をそむけたとしても、それでもその愛を貫いてくださると、主は決意された。それが、主イエスの十字架です。この主イエスの愛は、すべてを覆うのです。私たちの醜さを、私たちの弱さを、すべて覆ってくださるのです。
これが、福音です。これこそが良い知らせです。わたしたちはこの主イエスによって示された愛の知らせを見る。この知らせこそが確かなこと。この福音こそが、壊れることのない永遠に確かな知らせなのです。私たちの主こそが、この弱く罪深い私たちを信頼して、最後の最後まで耐え忍びながら、私たちを愛してくださるお方なのです。
お祈りをいたします。