2009 年 5 月 31 日

・説教 「神からの霊を与えられ」 創世記2章4節―25節

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 10:30

この朝から、創世記の二章以下に進んでまいります。この二章を読みますと、本当に創世記は、大変美しい文章で書かれているということが良く分かります。それはまるで、映画を見ているかのようです。この朝、私たちに与えられているテキストは、創世記1章と内容が少し異なりまして。この創世記2章4節からまた、もう一度で別の視点で神の創造が物語られるのです。この第一章を「天地創造物語」と名づけるとすれば、この第二章の四節から三章の終りまでを「エデンの園の物語」ということができます。そして、この「エデンの園の物語」では、もう一度新しい視点で、ここでは特に人間に焦点を当てて語りなおしています。映画のカメラの手法ではじめに全体の見識を見渡しながら、次に主人公にカメラをクローズアップさせて撮るのと似ています。特にここでは人が生きるべき「地」、あるいは「土地」と言ったほうがこの場合正確ですが、その「土地」を神が供えてくださったことに焦点があてられています。

ここで、人間は「土地のちりで人を形造り、その鼻に息を吹き込まれた。それで人は、生きものとなった」と7節に記されています。人間のことをここでは「アダム」というヘブル語でしるされていますが、ここではまだ固有名詞、人の名前としてではなくて、集合名詞で、人間を表す言葉として「アダム」と書かれていますが、「人間」を示すアダムも、最初の男を表す「アダム」も言葉にはなんら違いがありません。けれども、この言葉は7節の最初のある「土地」と言う言葉、これをヘヘブル語で「アダマー」といいますけれども、人間(アダム)というのは、土のちり(アダマー)から造られた存在であると書かれいるのです。なぜ、この二章から、もう一度人間のことが説明されているかというと一つには、人間は神の被造物にすぎないということが、ここで表わされているのです。人間は、他の動物や植物もこの土、土地から造られた神の被造物であって、それは、人が死ねば土に還る。ちりにすぎない儚い存在である、ということです。

その意味では人間は、他の神がお造りになられたものと、何ら違いはないのですけれども、神はその人間に「息を吹き込まれた」とあります。ここにもうひとつ別の人間の大切な意味が込められています。この「息」ということばは「ルーアッハ」というヘブル語で、「霊」とも訳すことのできる言葉です。神の霊が、人間に与えられたということです。これは、一章に書かれていた、「神のかたち」を言い換えているとも言えます。人間は神の霊を頂いているので、他の動物とは異なって、神との交わりを持つことができるのです。そして。ここに、人間が他の被造物とは全く異なった、神に特別な存在とされていることが分かるのです。このように、第二章から「エデンの園の物語」として神の創造がもう一度語られているのは、このことがそれだけ大切な意味を持つからなのです。

 

今日は、教会の暦でペンテコステです。主イエスが十字架につけられ、よみがえられ、弟子たちと四十日の間ともにいてくださり、「わたしたちの住まいを天に備えにいく」と言われて、天に帰っていかれました。教会は、再び、主イエスを見ることができなくなってしまいました。けれども、主イエスは、私たちに神の霊を与えてくださると約束してくださって、このペンテコステの日に、主イエスの弟子たちは神の霊を頂いた。このことを覚えて祝う日が、ペンテコステです。神の霊を失ってしまった人間が、もう一度神の霊をいただくことが許された。その記念する日です。けれども、実は、神は最初に人、つまりアダムに神の霊を吹きかけて、神の霊が与えられて神と共に生きる者としてくださいました。これが、実は本当の人間の姿なのです。ですから、神の霊を失ってしまっているのは、実は、人間が人間でなくなってしまっているということでもあるのです。ですから、今日、このペンテコステの礼拝を祝うことを通して、私たちは、主イエスによってもう一度、本来の本当の人間の姿を取り戻すことができるようになったことを、こうして喜び、祝っているのです。

私たちはこのペンテコステの日に、教会で何をするかと言いますと、再来週この教会で特別伝道礼拝のために、みんなでトラクトを配りにいこうとしています。この主イエスによって、わたしたちは本当の自分を取り戻すことができるということを、この地域の人々に伝えに行こうとしているのです。そのために、今年は新しくこの会堂が建ちまして3年になりますので、三周年記念委員の方々が、このために色々な話し合いをして、執事の赤塚さんが指揮をしています、犬山の国際交流合唱団をお呼びしてコンサートをしようとしているのです。けれども、今日は、その他にも、教育委員会が映画会を企画していまして、「パウロ」という映画をトラクト配布の後で、みなさんと一緒に見ようとしています。私も大変たのしみにしています。といいますので、今、水曜と木曜の聖書学び会でパウロ伝を学んでおります。このパウロの生涯が映像化されて見られるというので、とても楽しみにしているのです。先週の聖書学び会で、パウロの第三次伝道旅行のはじめりのところを学びました。アンテオケからガラテヤの地方を通ってエペソにやってきた。その町にはパウロと入れ違いでアポロという伝道者が伝道していたのですけれども、このアポロがエペソの教会の人々、主にアクラとプリスキラですけれも、親しくなりまして、彼らにアカヤ州に伝道に行きたいとので紹介してほしいと頼みます。この人たちはアカヤ州、コリントの街で、パウロの第二次伝道旅行の時にであって、パウロと共に、このエペソに来まして、この街にとどまっていたので、コリントの教会を紹介してやる。そうして、パウロがエペソの来た時にはアポロは、入れ違いでコリントに行ってしまいます。そして、これがもとでコリントの教会に問題を起こってしまう。それで、パウロはこのエペソからコリントに手紙を書きます。そんな話を先週いたしました。

前置きがながくなりまして、申し訳ないのですが、この時パウロが書いたコリント人への第一の16章にこんな言葉があります。

聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。(Ⅰコリント15:45-49)

少し長い箇所ですけれども、お読みいたしました。ここに、パウロの独特の理解が示されていますが、アダムは土の人であったけれども、最後のアダム、つまり主イエスのことですけれども、私たちの主は天からの人であった。そして、この主から生まれる者は、天から出た者に似ている、と言いました。これは、主イエスによって、人間はもう一度新しく、生まれる。それは聖霊によって生まれるのであって、その者は、すでに天の形をもっていると語りました。

これは、素晴らしいパウロの理解です。これまで、この創世記をそのように理解した人はおりませんでした。私たち人間、アダムは、土から出来た者です。そして、この後で、おそらく来週にお話しすることになりますけれども、ここで、アダムが、人間が、罪を犯してしまったために、この神のかたちを失ってしまいました。あるいは、今日のテキストから言えば、神の霊を失ってしまったのです。けれども、主イエスによって、私たちはもう一度、新しい存在として神に再創造していただくことができるようにされた。そして、それが、主イエスが私たちに与えてくださった救いであり、私たちが失ってしまった神の霊です。そして、今日、その主の御業を思い起こし、神に感謝しつつ祝うのが、このペンテコステなのです。

 

 

さて、では、私たち人間は、どうして神の霊を失ってしまったのか。どうして、神のかたちを失ってしまったのか。その元となる出来事が、創世記のこの後に出てくるエデンの園のところに記されています。創世記第一章15節からお読みいたします。

神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを食べるその時、あなたはかならず死ぬ。」(15-18節)

エデンの園の真ん中には二本の木が植えられていました。その一つは「善悪の知識の木」で、もう一つは「いのちの木」と呼ばれる木です。そして、神は人間に一つのことをお命じになりました。それが今読んだところ、「善悪の知識の木からとって食べてはならない」というものでした。神は、こうしてひとつの責任をおわせられたのです。

以前、古知野の教会で牧師をしていた時のことです。教会のホームページがありまして、そこに牧師なんでも質問コーナーという掲示板がありました。何でも質問してくれれば、牧師が答えるというのは、どうも画期的だったように、今でもそのようなホームページはあまり見かけませんけれども、当時ずいぶん大勢の人が質問を乗せてくれました。一番多かったのは、ミッションスクールの生徒が、学校で聖書の宿題を出されたのだけれども、分からないので教えてほしいというものでした。このホームページの掲示板の中に、何度も質問として挙がったのが「神様はどうして人間が罪を犯すと分かっているのに、善悪の知識の木を置かれたのですか」という質問です。多くの人はそのことに疑問を持つようです。人間にはできないことが、分かっているのに、それをやらせた神はひどいというのです。それは、この箇所だけではなくて、それに類する質問は、創世記に関していくつも出すことができるでしょう。けれども、この手の質問はどれもそうですけれども、簡単に言ってしまえば、神への責任転嫁でしかありません。

もう一度言いますが、神は人間と向かい合う存在として造られました。それが、神の息が私たちに吹き込まれたということです。神のかたちに造られたということです。その人間は、神と共に生きるので、神が人間に求めておられることを、人間は応えて生きることができるのです。そして、そこには、人間が神に自由に応答できる存在として造られたことがあらわされているのです。神は、私たち人間を、まるでロボットのように、いつも命じられることをそのまま行うだけのものとはしないで、自分で考え、自分で決断だけるものとして造ってくださったのです。そして、これは、私たちにとって嬉しいことです。神に信頼されて生きることができるのですから。

けれども、そのような自分にとって嬉しいことは当り前のこととして受け取っておきながら、自分がすることが出来なかったときだけ、それは神がそうしたからいけない、と言ってその責任を神になすりつけてしまうのは、わがままとしか言いようがありません。そして神はこの時、、もし人間がこの「善悪の知識の木からとって食べる時、あなたは必ず死ぬ」と言われました。この「死ぬ」というのは、神との関係のことをここで言っていまして、神との関係が完全に死んでしまう。もし、私たちがこの神の信頼を裏切るならば、人間は、死ぬことになる。神がお造りくださった人間ではなくなってしまうのです。これが、神の霊を失ってしまい、ただの土くれとされてしまった人間です。つまり、このような人間は、生きてはいても、神の目から見れば死んでいるのと同じ存在となってしまうのです。

 

 

しかし、神はここで人間に神の息を吹きかけ、神の霊を与えてくださって、神のように、神と共に生き、人と共に生きる存在とされました。神はこのように、人間を神に答えて生きる者としてお造りくださり、自由を与えてくださいました。けれども、神はそれだけではよしとはなさいませんでした。神は人間を男と女とにお造りになったのです。続く19節にこうあります。

その後、神である主は仰せられた。「人がひとりでいるのは良くない。私は彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」。(19節)

神は人間を神に答えて生きるために、何の助けもなしに、生きていけるとは思われず、助け手が必要であるとして、さらに「人のあばら骨から、ひとりの女をお造りになった」と、22節には記してあります。以前これは、結婚式の時にも説明したのですけれども、神が、人のあばら骨からとって女をお造りになったというのは、それは、女は男から造られたから劣った存在であるというような意味ではなく、男とまったく同じ性質のものという意味がここにはあります。そして、その互いが、助け手とされているのです。人間は、男と女が、互いに助け合うことによって、神から託された地、この場合はエデンの園ですけれども、ここで生きるようにされたのです。

ここに「人がひとりでいるのは良くない」とあります。この言葉は実は聖書に出てくる最初の否定的な言葉です。神は人間が孤独な存在でいることを、「良くない」として、対話の相手を造ってくださいました。神は、動物や自然を人間の相応しい助け手とはしてくださらなかったのです。

ドイツにいる時のことです。私たちは犬を飼っているということもあって、ドイツの犬の雑誌を見てみたいと思いまして、買い求めました。すると、その中に、二本のペットブームのことが取り上げられておりました。私たちはドイツで知って驚いたのですけれども、東京ではペットのレンタルというのが行われているようで、自分が犬を飼うことができるか試してみることができる。あるいは、どの犬の種類があるか色々とレンタルして借りてから決めることができるという記事をみてびっくりしました。あるいは、犬のための温泉があったり、ベビーカーの中には犬が入っているのだという記事があり、日本人にとってペットは小さな存在ではなくなっているようだと紹介されていました。ドイツでその記事を読みながら日本はどんな国になってしまったのだと、非常に不思議な気持ちになったのですけれども、帰ってきてしまうと、当り前のことのように、犬の乗せたベビーカーをよく見かけまし、犬用の保養施設があることも自然に受け止められている自分にまた驚いています。そのように、今、私たちによって動物というのは、人間にとってなくてならないような位置を得ていますけれども、これは神が造られた本来の姿ではないわけです。私自身、そのことをよく理解さなければいけないと思っていますけれども・・・。

神は、そのような動物を助け手とはなさいませんでした。人間がお互いに、孤独にならないように助け合うように、補い合う存在として造られているのです。動物に孤独を紛わしてもらおうというのは、そのような人間関係が希薄になってきたことの表れです。私たちはこの神の創造の秩序をよく覚えながら、けれども、動物や植物をただしく管理しながら、生活していくのです。

「助け手を造ろう」と神が仰せられた時、神が人間に願われた生き方を、人がちゃんとすることができるように、「一人はよくない」と言われて、お互いにちゃんと向き合う存在として男と女をお造りになったのです。このように、人間がちゃんとお互いに向き合っている、夫婦がちゃんと向き合っている、家族が助け合っている。私たちが実際にそのように生活する時、私たちは神が私たちをどれほど心をこめて生かしてくださったかが分かるのです。人がお互いに向かいあいながら、助け合って生きる時に、そこで私たちは完全な喜びを、幸せを味わうことができるようにしてくださったのです。

それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりはいったいとなるのである(24節)というこの聖書の言葉が、まことに真実な言葉であるということが分かるのです。

「一体となる」というのは、「一つの肉」という言葉なのですけれども、男と女はもともとひとつの肉であった。それほどに自分ときっても切れない関係になる。それが、結婚した夫婦の姿です。そのように相手の違いを受け止めて、支えていくのです。

それは、決して相手を指摘し合うような関係ではありません。慰め合い、支え合う関係としされたのです。そして、そのような関係は夫婦にのみ言われているのではないのです。誰でもそうですけれども、人のことを指摘することは実に簡単なことです。「それは違う」「それはだめだ」「そう言う考えは良くない」などと、最もな理由をつけて相手を非難する。そのような人間関係はいつもぎくしゃくし、そうして出来る人間関係は、強いものと弱いものと言う関係でしかなくなります。あるいは、出来る人とできない人という関係でしかない。そこでは、強い人の正義がまかり通り、弱い人は我慢するしかなくなってしまう。そのような関係は家庭の中ですぐに起こってしまいます。いや、どこの家庭にもある関係だとも言えるでしょう。けれども、覚えていただきたいのです。もし、神が人間をお造りになった時、神の正しさを人間に押し付け、有無も言わさぬ世言うにして、私たちに振る舞うのだとしたら、どこから、その神から慰めを得ることができるというのでしょう。こどで私たちは平安を得られるのでしょう。聖書が「隣人を愛しなさい」という言う時、「自分にしてもらいたいように、他の人にもそのようでいなさい」とあるのはどうしてなのか、私たちはよく考えなければなりません。

神は、私たちを信頼し、認めてくださって、あなたならできるからやってみなさいと、善悪の知識の木の実を食べなくても生きることができるのだから、と言ってくださっている。だから、私たちに自由を与えてくださったのではないでしょうか。なのに、私たちはそのことを忘れて、自分の正義を、相手に押し付けてしまうなら、どこに神の愛が私たちのうちにあると言えるのでしょう。

私は今、すこし厳しいことを話しています。しかし、このことが分からないと、神の愛が私たちを通して私たちが一緒に生きている人々に伝わって行かないことを、覚えてほしいのです。神がどれほど、私たちを愛してくださっているかは、私たちをどれほど、信頼して下さっているかということの中に、豊かに表わされています。神は私たちに、このお方の息吹を、霊をくださった。このペンテコステの日に、約束された聖霊と共に、私たちに与えてくださったのです。それは本当に言い知れない喜びです。私たちが失ってしまっているものを、神が回復させてくださるのです。そして、それは実際に、私たちにもたらされるというのです。この神の霊と共に、神が私たちに与えてくださった素晴らしい助け手たちとともに、生きる。ここに、人間のまことの幸いがあるのです。

お祈りをしたします。

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