2009 年 5 月 24 日

・説教 「神のかたちに」 創世記1章24-28節

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 10:30

  今朝は、この創世記1章の24-28節から、神が人間を造られたところを少し丁寧に見ていきたいと思います。神が私たち人間をお造りなったというわけですから、どうしてもこの朝は丁寧に見てみたいのです。そして、丁寧に見ていきますと、神は本当に私たち人間を、心をこめて造ってくださったことが良く分かってくるのです。聖書は、「神が人間をお造られた」と宣言しています。しかも、この聖書を見てみますと、実は、これまでのところとはずいぶんと異なっていることに気がつくのです。

 これまで神がこの天地になるものをお造りになられた時、それは「○○よ、あれ!」とか「○○に、なれ!」と書かれています。けれども、人間についてはこの26節をみますと、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」と仰せられたのです。このこと、ひとつ見るだけでも、神が実に人間を特別に創造されたということが分かります。神が手ずから、人間を造ってくださったのです。

 

 この「特別」と言う言葉は、考えてみますと、私たちの心をくすぐる言葉のようです。英語で言えば「スペシャル」と言う言葉です。町じゅうにこの言葉が溢れています。スーパーマーケットでも、日常の会話にでもです。ドイツ語ですと「besonder」(ベゾンダー)と言う言葉です。たとえば、今日は、もう10年ほど前のことになりますけれども、この芥見の教会に通っていて下さったチェーミッシュさんのご家族が、私たちと一緒に礼拝を祝っています。昨日も古川さんのお宅で家庭集会を開きまして、まだ到着したばかりのチェーミッシュさんご家族と交わりの時を持つことができました。ご存じない方々もあると思いますので、このご家族のことを少し話したいと思うのですが、このチェーミッシュさんたちは、私たち同盟福音の宣教師として来ている宣教師の子供たちが学校教育を受けるために、特別に来日してくださって、子どもたちの先生をしいてくださっていたのです。当時、大垣の教会に通っておられたのですけれども、古川昭子さんが、奥さんのウラーさんの日本語の先生として教えられたことから、親しくなりまして、この芥見教会に集うようになりました。昨日、ご主人のヴォルフガングさんが、その時に、古川さんたちと出会うことが出来たのは本当に、神様が天使を使わしてくれたかのように、本当に特別な出会いであったということをお話しされました。言葉や文化も言葉るところで、そのような出会いに恵まれるというのは、本当に大きな支えです。まさに、それは「特別な出会い」であったということができるでしょう。

 そのように、この「特別」と言う言葉には、とっても深い親しみと、言いつくし難い思いが秘められています。そして、まさに、神はそのような思いで私たち人間を造ってくださったということを覚える時に、私たちにとって、そのことは本当に大きな喜びとなるのです。

 

 神が人間を創造なさる時に、どのようにして「特別」な存在とされたかが分かるのは、今日のテキストではこの最初の26節です。「神は、われわれに似るように、われわれのかたちに人をつくろう。」と仰せられました。神は、私たち人間を、「われわれ」ここでは、つまり神のことですけれども、神に似たものとして造ってくださったというのです。

しかし、神のことがここで「われわれ」と言われているのは、どういうことなのでしょう。恐らく、先週の礼拝でこの箇所が読まれた時に、気になった方も多かったのではないかと、思います。けれども、先週はこの箇所には触れませんでしたし、あるいは、祈祷会などで質問してくださった方もありますけれども、日曜まで待って下さいと言いましたので、ある方にとっては、ここは気になって仕方がない箇所であったと思います。

神が人間をお造りになる時、「われわれに似るように」と言われた。ここには「複数形」で書かれているのです。これは、神が三位一体の神であることが、この複数形によって表わされているからだと教会では伝統的にそのように考えられてきましたし、そう考えますと、本当にこの言葉がイメージ豊かな言葉になると思います。そして、私はこの理解がとても大事だとも思っています。けれども、聖書学者たちは、ここに三位一体が突然でてくるというのは、解釈としては成り立たないと言います。ならばどのように理解したらよいのでしょうか。

ある人は、ここで突然神が「わわれわ」と複数形で書かれているのは、天の上で天使たちと神が相談したのではないかと考える人もいます。しかし、そう解釈することは少し無理があるようです。あるいは、他の学者たちは、多神教の神話などからの影響がここに表れているのではないかとも言いますが、それも唯一神の信仰をはじめから前提とする創世記に、多神教の影響があるというのもあり得ません。調べてみてよく分かってきたのは、そうではなくて、これは自問文といいまして、自分で自分に語りかけるような形が聖書の中には何度も出てきまして、ここはそれに当たるだろうというのです。これを「熟慮の複数」と文法的には言います。つまり、神は人間を創造される時に、ことの他、よくお考えになった。それは、まるで自分に自分に問いかけるようにして、創造されたというのです。だから、人間は特別な存在であるということができるのです。

 

このように神は人を、よく考えたすえに、ご自身のかたちとして創造なさいました。ではその「神のかたち」というのはどういう意味なのでしょうか。

この「かたち」という言葉は「模型」というふうに訳すこともできる言葉です。「私たちは神の模型である」と。「模型」というのは、たとえばこの会堂を立てる時に、建築家の方が模型を持ってきてくださったことでしょう。そのように、模型を見ると、「ああ、この建物はこのようになるのか」と全体を見渡すことができるわけです。模型は、本物を示すための型です。そのようにして、模型から本物を容易にイメージすることができる。つまり、私たち人間は、私たちの生き方や考え方をじっと良く見てみると、「本当の神様というお方は、実に愛に溢れていて、親切なお方だ」と分かるというのです。このように人間は神のすばらしさを証しするため、この世界にあらわすためにつくられました。

 そういうわけで、ウェストミンスター大教理問答という、信仰の基礎を教える書物の最初にこうのせられているのです。

 問一 人間のおもな、最高の目的は、何ですか

 答え 人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜びことである。

人間は、神の栄光をあらわし、神を喜ぶために生きている、というのです。それは、神が私たちをそのように、神のようにお造りになったからです。そして、その私たちは、神が私たちをお造りになったその意図に留まり続けるならば、私たちは栄光を表し、永遠に喜んでいきることができるのです。

 

 しかし、この「神に似ている」ということについて、私たちはもう少しよく考える必要があります。この続く27節ではこのように言い換えられています。

 「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を(アダム)創造し、男と、女とに彼らを創造された。」

 この新改訳の言葉は、日本語としてはあまり美しいとは言えない訳ですけれども、実に丁寧に訳しているおかげで原文の雰囲気を味わうことができます。神は、ここで、人間をお造りになる時に、「神のかたちに彼を」とまず書かれています。これは「彼」ですから、単数形です、そしてその後に、男と女とに「彼ら」をとありまして、ここでは「複数形」です。つまり、「人間」という一つの存在には、「男と女」というあり方があるのだということが、ここで言い表されているのです。

 あまり、上手く説明出来ていないかもしれませんが、実にこれは素晴らしい聖書の語りかけだと言わなければなりません。

 

 良く聞いていただきたいのです。神は人間を「男と女とに造られた」というのです

 

「あれ、何か特別なことを言った?」と思われた方があるかも知れません。こう言い換えると、はっきりするでしょうか。「神のかたちというのは、はじめから人間を男と女という二つの性質があるように、神が造られたということです」。ここには、実に様々な意味があります。

 これはたとえば古代においては男尊女卑という考えは、当り前のこととされていました。ところが、この聖書は最初から、神は「人間を男と女とに造られた」と記しているのです。女が長い間軽んじられたこの世界の歴史になって、この聖書は全くの例外ともいえる宣言を最初からしているのです。そして、それにならって、たとえばパウロはコリント人への手紙第一でこう書きました。

「主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。女が男をもとにして造られたように、同様に男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。」(Ⅰコリント11章11-12節)

 このように聖書は男と女が、互いに離れず、向き合う存在としてあるときに、それを神のかたちと呼んでいるのです。つまり、人間が神のかたちである、ということは、人間が他者と向かい合っているということです。それは、三位一体の神が、それぞれ向かい合う存在であるのと同じように、人間も神と向かい合い、人と向かい合う存在とされて創造されているのです。だから、人間には、神を愛することと、隣人愛することが聖書では常に、求められているのです。ですから、そういう意味でも最初にお話しした、この「われわれのように」という言葉は、わたしはそのまま「三位一体の神のように」と理解しても良いと私は思っているのです。神が向かい合っておられるように、私たちも、神と向かい合い、他者と向かう。そのように、神はわたしたちを造ってくださったのです。そして、それが、人間の基本的な姿なのです。

 

 この話は、洗礼準備会でもよくお話ししますし、結婚準備会の時にもお話しします。というのは、これは、私たちがどうしても知らなければならない基本的なことだからです。神は私たち人間を、一人で、誰とも関係を持たなくてもよいような存在としてお造りにはなりませんでした。私たちは、神と向かい合うことが必要でなければ生きていくことはできません。そして、同じように、他の人々、他者と関わりあわなければ生きていくことができないのです。今日、ここに一緒に礼拝をささげているチェーミッシュさん家族は、ドイツでキリスト教の学校を経営しています。日本で語学宣教師として働いた後、ドイツから、何度も何度も日本にまた来たいと願っておられたそうです。けれども、ドイツでこの神を愛し、隣人と出会い、愛する、そのようなキリスト教の子どものための学校を立てることが求められて、学校を設立して10年ほどになります。今では1300人以上の生徒があつまる学校になっていると、昨日お伺いしました。私立の学校にそれだけ多くの子供が集まるのは、驚くべきことです。けれども、それほど、この学校教育の働きが、この地域に期待されていることを表しています。そして、それは、この聖書が教えることの原則である、神と人を愛するということが、この地域に受け入れられたことの証しだろうと思うのです。

 

 今、私はこの「神のかたち」というのは、向かい合う存在だということをお話ししました。けれども、向かい合うというというのは、どういうことを言うのでしょうか。それは、三位一体の神が向かい合っておられるように、私たちも向かい合うということです。そこには、深い交わりがあり、愛があり、信頼があります。そして、そのように向かい合うためには、互いに責任を果たさなければなりません。相手に対して、応答するという責任です。神が私たちに目を留め、私たちに心を注いでくださっているのに、それに背を向けることは許されません。神が私たちを愛して下さっているのに、そのお方に対して何の応答もない。

愛するという言葉の対義語は何でしょう。私が神学校で学んでいた時に、その質問が出た時、一人の学生いが「無視する」と言うことだと答えました。私はなるほどと思ったので、今でもよく覚えています。聖書ではそれは「憎む」と言う言葉です。「憎む」というのは積極的な感情なので、そのような感情のことを良くないということは、誰もが感じるかもしれません。けれども、「無視する」ということも、結局は同じことではないかと思うのです。相手の思いに対して、気がつかないふりをする。あるいは、見ようとしない。それは、無関心ということでもあります。そして、それは相手を憎んでいることと同じになってしまう。相手を傷つけ、悲しませてしまうのです。

しかし、神はそのように、人間をお造りにはならなかった。私たちは互いに向き合い、認め合い、赦し合い、信頼し合い、声を掛け合う存在として、まるで神のようにお互いが向き合うようにと造られたのです。ですから、私たちは、神と向き合い、隣人、ことに身近にいる人たちとしっかり向き合って生きる必要があるのです。そして、私たちがそのように生きるなら、その生活には、神の栄光があらわされるし、また、自分自身喜んで生きることができるようになるのです。

そのようにして、神は人間を祝福の存在として創造してくださったのです。

 

「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ』」(28節)

神はそのような人間が、この世界へと祝福されて、世界中に広がるようにと宣言してくださり、また、この世界の正しい管理者として遣わしてくださったのです。ですからこれはマタイの福音書の最後に記されている「全世界に出て言ってあらゆる人々を弟子としなさい」との大宣教命令と並んで、これは文化命令などとも言われています。

こうして、神は私たち人間を祝福の存在として世界へ送り出してくださいました。私たちは、神がそうしてくださったように、なることができます。それが、神の約束であり、宣言でもあります。ですから、神を愛し、人を愛し、この世界の祝福の存在として、新しく与えられた一週間も、私たちをそのようにしてくださる神と共に、歩んでまいりましょう。

 

 お祈りをいたします。

 

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