・説教 「神の造られた美しい世界」 創世記1章14節ー2章3節
今日は、創世記1章14節から2章の3節を通して、神が天地を創造されたその四日目から七日目までをどのように聖書が語っているかに、耳を傾けたいと思います。
この四日目に神によって何が造られているのでしょうか。14節にこうあります。
「ついで神は、『光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。』と仰せられた。するとそのようになった。」
ここを読むと私たちはすぐに、考え込んでしまいます。「あれ、一日目に神様は光をお造りになったのに、ここでまた光る物を造られるのはどういうことか?」と。「5節にもう夕があり、朝があったとされているのに、今頃太陽と月ができるというのは、ますますもって分からん」となってしまいます。 しかし、これは先週すでにお話ししましたけれども、初めの三日間は、神がそれぞれを区別されて、それぞれの被造物が造られた場所を先につくられたからです。前にもいいましたけれども、聖書は科学の書物ではありません。ですから、私たちの常識に照らすと分かりにくいことがでてきてしまうのです。ただ、こう考えて下さったら、分かりやすいのではないかと思います。小さな子供が、空と海と大地の絵を書こうとしています。まず、上のほうを空色で綺麗に塗って、海を目が覚めるような青色のクレヨンで塗りつぶします。そして、大地を青々とした緑でぬりるのです。そうすると、何か足りないということに気がついて、空に太陽を描き、海の上に魚の絵を、緑の大地にはライオンを書こうとする。まあそれでも、バックの色がもう濃い色で塗ってしまったので、動物を塗る時になると、どうしても汚い色になってしまうのですが、それは愛嬌というものです。聖書のここも同じことが言えます。三日目までは、まずバックを描いておいて、この四日目からが、いよいよそこにおさめる太陽や、生き物、動物、そして人間がでてくるのです。
実際に聖書をよく見てみますと、興味深いことに気が付きます。一日目にできた、光と闇を埋めるように、そこに、太陽と月、星が四日目に造られる。二日目に造られた空と海にうまい具合に入るように、五日目に鳥と魚などの水の中の生き物が、三日目に造られた陸地には、六日目に動物と人間が造られています。実にうまい具合に初めの三日間に対応しているのです。これは天地創造を大きな枠で考えてみますと、今説明したように、ずいぶんと大雑把で、当時の人々の考えがそこによく表れているように見えますけれども、少し内容に踏み込んでみると、実に驚くほどに、この神の創造の御業を非常に細かなところまで丁寧に記したことが分かるのです。
たとえば、この四日目に神がお造りになったのは、「太陽と月」です。けれども、聖書はそのようには書いてありません。「光る物」という言葉が使われています。
「それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を照らさせた」(16節)とあります。ここでわざわざ「光る物」といい、「大きいほう」とか「小さいほう」などという言い方を見ますと、なんだかまだるっこしいと感じるかもしれませんけれども、これが、イスラエルの人々の誠実さの表れでもあるのです。良く見てみますと、ここには一度も「太陽と月」という言葉は使っておりません。なぜでしょう。たとえばヘブル語で太陽のことを「セメシュ」といいます。そしてそれはそのまま「太陽神」あるいは「太陽の神」という意味を持っていたのです。日本でいえば「天照大神」、ギリシャで言えば「アポロン」となるような言葉なのです。ですから、そのような偶像の名前に使われるような言葉は用いないで「光る物」という言葉を用いたのです。これはたとえば「ともし火、燭台、ランプ」というような翻訳をされる言葉です。けれどもそのような言葉を用いることによって、私たちの信じている神、この世界を創造された神は、人々が神と祀り、拝んでいるそれ時代を「光る物」として創造しただけでなく、「そこに配置し」、「季節のために役に立つように」命じられた神なのだという信仰の告白だったのです。
この世界の人々は、目に見えるものを神として、拝んでしまいます。それは目に見えるゆえに安心するからでしょう。けれども、聖書は目に見えないものも、目に見えるものもすべてを造りになり、それに意味を与え、役割を与えた神こそ、私たちが礼拝しなければならない神であることを伝えます。
たとえば神がここで目に見えるものとして造られたのは、太陽と月です。けれども、同時に神はここで時間をも造られました。そして、この時間も神が造られたということの意味を私たちはよく考えなければなりません。私たちが子どものころ、今のように時間が短いなどということを、あまり感じなかったのではないでしょうか。ところが、中学、高校と進み、社会で働くようになると、日に日に、時間が足りないということを思うようになる。なぜかと言うと、それは、私たちがしたいと思うことが次々にでてくるからです。まるで、砂が手のひらからこぼれ落ちていくかのように、時間の流れを留めることはできません。私たちは、色々なことをしたいと思います、そしてその時間をどのように用いるかは、誰もが自分の裁量で自由に使うことができます。私たちは、自分に与えられた時間を、いつも、自分で判断して使っています。そして、それはどこかで、時間はまだまだ沢山あるという前提のもとで、使われているということができるかもしれません。
カトリックの作家で加賀乙彦という方がおります。この人は、元々作家ではありませんで、精神科医でした。主に死刑囚と向かい合いながら、その人々と関わってきたのです。そしてある時、そのような死刑囚との出会いから、人間には色々な時間のとらえ方があることに気がついたと、「生と死と文学」という本の中に書いています。
刑務所の中で死刑囚たちと無期懲役の人たちとを比べてみると、反応が全然違うんだそうです。そういう反応を見ながら人間には4つの時間のとらえ方があることが分かってきた。初めの二つは「近い将来」と「近い過去」という時間の感覚です。この近い時間といくのは、感情に彩られたいきいきとした、生きた時間です。もう二つは「遠い過去」と「遠い将来」という時間があります。これは感情に支配されないで、静かに、理性でもって考えることのできる時間なのでそうです。そして、普通、「死」というのは、この「遠い将来」に置かれているので、死ということをわりと平気で考えることができる。ところが、「明日死ぬ」となると、とたんに事情が変わります。つまり、「遠いはずの将来」が「近い将来」に移行するので、死に対して必至な反応になる。これが顕著に表れるのが、死刑囚と無期懲役囚だというのです。
けれども、もし、私たちの感情をかき乱してしまう「死」が、加賀乙彦が「近い将来」と名づけるものの中に入ってきたとしても、この時間を創造し、支配しておられるのが、この造り主である神であるなら、私たちは、平安を持つことができます。なぜなら、命の終わりをも、神の御手の中にあると、私たちは信じることができるからです。
神は時間を、神と出会い、隣人と出会うために造ってくださいました。私たちは、私たちに与えられている時間を、そのために用いるように神は願っていて下さいます。そして、私たちはその時間を、神や隣人とともに過ごす時に、豊かな時間を過ごすことができます。まるで、子供が人と関わることでしか時間を使うことができず、その時間が満ち足りているようにです。けれども、何か他のもので満足感を得たいと願うようになる時、「時間が欲しい」と考えるようになってしまいます。そして、身近な「感情的な時間」だけを追い求めてしまうようになるのです。
神は私たちに、神と出会うために自由な時間と、隣人と会うために必要な時間とを与えてくださいました。昼の間、私たちが働くのも、休息するのも、勉強するのも、食べるのも、病気になることすら、神はすべての時間を神と出会い、人と出会うために与えて下さいました。そして、そのような「光」の中を歩む時、神はそれを見て「よし」としてくださるのです。
「ついで神は、『水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。』と仰せられた。それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類に従って、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、よしとされた。神はまた、それらを祝福して仰せられた。『生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。』こうして夕があり、朝があった。第五日。」(22-23節)
神は五日目に「生き物」を創造されました。ここであの、一節に使われた「創造する」という言葉が、もう一度使われます。つまり、「生き物」は神によって造られたということの強調です。ここに出てくる「生き物」という言葉は、もともと「呼吸するもの」という意味です。これは、このように記すことによって、生き物は、自分の力で当たり前に呼吸しているのではない、神がそれを許されたから、呼吸をしている。神に存在が許されているから、すべての生き物が生きることができるということを表しています。
つまり、この世界の生き物はすべて、まさに、神の創造のもとで生きることを許されているのです。そして、創造者である神は、そのような生き物が、新しい命を生み出していきながらも、神の被造物であることを覚える時に、造り主である神の栄光を表すようにされたのです。
しかし、ある人々はこう考えました。「創造者である神は、この世界のルールだけを造られてあとは何もしていないのではないか」と、それはまるでゼンマイじかけのように、神は最初にゼンマイをまいて、この世界にゴーサインを出したあと、姿をくらませてしまったというようなものです。このゼンマイじかけの神というような考え方を理神論といいます。理性の「理」という字に、神論と書いて理神論といいます。神は、この世界に原理、理(ことわり)を与えただけというのです。
この理神論の反対のものは汎神論と言います。これは自然即神というような考えで、たとえば日本の神道なんかもこの汎神論になるわけです。これについて、ある時、村上陽一郎というキリスト者で科学者の本を読んだことがあります。ここに、ちょっと面白いことが書いてありました。この理神論、神は「理」(ことわり)つまり「ルール」を作っただけと考えたきっかけになったのは、ルネッセンサンス期に活躍したデカルトという哲学者なんだそうです。このデカルトが、こんなことを言いました。「神はこの世界を創造するにあたって物質と運動の二つを与えた」と。そして、この言葉がゼンマイじかけの神への道をつくってしまいました。興味深いことに、このデカルトは自分が理神論とは認めていません。こういったデカルトの考えに理神論の危険があると気がついたニュートンは、デカルトを批判して言いました。「神は常に自然に働きかけ介入している」と。けれども、面白いことにこれが汎神論の道を開いてしまったというのです。そして、興味深いことにこのニュートンも自分は汎神論だと認めてはいないというのです。
もちろん、自然は神が造られたものであって、神ではありません。そして、神はただルールだけを造られた神でもありません。神は、ご自分の語られたことばの中に、すべてを保っておられるお方です。色々なことを考えながらも、自分の思わない結果となってしまうのは、自分の言葉をも、人間は支配できないことの現れです。しかし、神は、ご自身の語られた言葉を「よし」とされた以上、それは、神のもとに留まっています。そして、神の意図されたところに留まり続ける限り、それは祝福されるのです。ですから、神はご自身が創造された「生めよ、増えよ」と「生き物」を祝福してくださり、今日までその生命の祝福を保って下さっているのです。
神の祝福というのは、このように、神の言葉に信頼して従う時にのみ、与えられるものです。そして、神が語りかけてくださるところには、どこにでも、その祝福が置かれているということもできます。そして、神は、そのような祝福をもって六日目に動物と人間を創造されました。これは、神が、人間がいきるためのありとあらゆるものを備えて、そこに、まさに祝福の存在として、人間をつくられたということができます。
この人間の創造については、来週もう少し丁寧にお話ししたいと思いますので、今日は、こうして6日かけて行われた神の創造が七日目に休まれたことで完成したという、最後の部分をもう少し見てみたいと思います。
2章1節にこう記されています。
「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された」。この天地は六日で完成されているのにもかかわらず、七日目に完成されたと、聖書は書いています。実はこの2章1節をどのように訳すのかということが、昔から大きな問題になってきました。新改訳の場合は、できるかぎり原文に忠実に翻訳することを心がけていますので、翻訳の雰囲気がここによく表れています。1節のはじめに「こうして」という言葉が原文にはちゃんとついているのです。ところが、そのまま正直に訳してしまうと、「六日間で天地とすべての万象は完成された」という意味にとれてしまいます。それで、2節のほうで「それで神は、七日目に、なさっていたわざの完成をつげられた」として、七日目に神がお告げになったので、神の王創造の御業は七日目に完成されたのだと訳しました。これが、たとえば新共同訳はでこの「こうして」という言葉をそのままとってしまいました。それで、こう訳しました。「天地万物は完成された。」2節。「第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息をなさった」と。こうすることで、七日間の天地創造ということを、表そうとしたのです。他にも、新改訳と、新共同訳の間をとった訳になったのが、岩波の新しい翻訳です。それでは「こうして天と地とその万物が完成した。第七日に、神は自ら果たしたその業を完成した」として、あくまれも、「こうして」という言葉は残しながらも、「七日目に完成した」と言う言葉を入れているのです。
こんな細かいところを、なぜとお思いになるかもしれませんけれども、たとえば、一番古い別の翻訳の聖書は七十人訳と呼ばれるものです。これは、パウロが使っていたことでも知られるヘブル語の聖書をギリシャ語で訳したものですけれども、これなどは、2節の七日目に完成したという言葉を、「六日」に変えてしまいまして、「この天地は六日で完成した」とさえなっているのです。そうすればつじつまがあうとかんがえたのです。けれども、教会ではそういう六日目に完成という無理な訳はしないで、それぞれの聖書が工夫をこらしながら、七日目に神の創造の御業が完成したことを大事にして、訳しているのです。
それは、なぜでしょうか。「休む」ということを考えてみれば、すぐに分かります。たとえば、仕事が沢山たまっている。どうしてもやらなければならない。そうすると、誰でもそうですけれども、休むことができません。ここで安んでしまったら、後で大変な目にあうからです。取り返しのつかないことになると思えるのです。六日間働くのと、七日間働くのと、給料を比べてみても分かります。七日間働いた方が大いに決まっているのです。六日間働いて、一日休むなどという考え方は、当時どこの世界にもありませんでした。たとえば、それは日本などでもそうです。長い間、この国は休みなしに働いてきたのです。ところが、聖書はこの七日目に、驚くべきことに神が休まれたというのです。
休みを取るというのは、実に勇気のいることです。安んでいる間に、他の人に後れを取ってしまう、休んでいる間に、お金が入らなくなる、その間に色々なことができる。私たちは、神から与えられた時間を、そのように必死に過ごしている間に、休むことが怖くなってしまうのです。ところが、神は、大胆にも、六日目にすべての業を終えられて、七日目には自ら休まれた「安息」をとられたのです。
これは、当時の世界でも異例のことでした。なぜ、そんなことができるのかと、理解ができないようなことだったのです。そして、そこに、神を信頼いる姿があらわされていることを、何よりもイスラエルの人々は知っていたのです。神の御業は休むことによって、成し遂げられました。これが、世界に類を見ない、神への信頼の証しなのです。ですから、このところは、どうしても様々な聖書が七日目に神が創造の業を完成されたと訳す必要があるほど、大事なことだったのです。
では、この休みは神のために必要だったのでしょうか? イザヤ書40章28節には「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は計り知れない。」とあります。ここからも分かるように、神は、ご自身がつかれたから休まれたのではありません。神の被造物を外に締め出しておいて、休まれるようなお方ではないのです。そうではなく、神は、私たちに安息を与えるために、休まれたのです。ドイツの20世紀を代表する神学者と言われるカール・バルトは、こう言っています。「実に、神の戒めのもとにある人間は、律法からではなく、福音から始まる。それは、授けられた祝いからであって、負わされた課題からではない。備えられた喜びからであって、苦労や労働からではない。支えられた自由からであって、強いられた義務からではない。休みからであって、働きからではない。日曜日からであって、仕事日からではない。こうして人間の日々の生活は開始される。安息日は、そのことをこの世界に示している」と。
神にとっても七日目は、人間にとっては一日目でした。そして、人はその最初の日に、何もしていないのに、休みを神は人間に与えられました。これが福音なのです。神は、創造の時から、今にいたるまで、同じ方法で私たちに接して下さいます。つまり、まず、神が全ての恵みを備えてくださって、それを受け取ることを、人間に与えてくださったのです。そして、それが、今も私たちはこうして礼拝から一週間を始めるところに、示されているのです。まず、神に礼拝をささげる。けれども、神の方ではそのために、私たちに恵みを与えるために、すでに先立って働いてくださている。神の創造の御業は、私たち人間にとってまさに喜びとなったのです。この七日間による神の創造の御業は、誰もが認めることとなりました。だから、今では世界中が、週の初めの日に休みを取るようになったのでした。このようにして、神が造られた世界だからこそ、それは「非常に良いもの」、理にかなった「美しいもの」なのです。神はこのようして、美しい世界を私たちに備えてくださったのです。
「そのようにして、神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」これこぞが、神が創造された美しい世界なのです。
お祈りいたします。