2009 年 5 月 10 日

・説教 「光よあれ!」 創世記 1章1-13節

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 16:12

 

 「地は形がなく、何もなかった」。創世記1章2節にそのように書かれています。「形がなく、何もない」という言葉を聞いて、私たちは何を思い描けばいいのか、まるで分らなくなります。この間もお話ししましたけれども、私たちは「ある」ものからしか、「ない」というものを、あるいは事柄を考えることができませんから、「何も無い」という言葉に出会うと途方に暮れてしまいます。それで、この聖書の翻訳に別の可能性を提示したので、新共同訳聖書です。ここには「地は混沌であって」という訳を試みたのです。ヘブル語では「トーフー・ワボーフー」と読むことで知られている言葉です。この言葉ですと、多少イメージしやすいかもしれません。お豆腐が暴風にあって崩れてしまっているようなイメージを誰もが簡単に想像できるかもしれません。

まさに「混沌」といった感じなのですが、これが、ギリシャ語で「カオス」として知られる言葉です。このカオスをどのように訳すのかで、聖書の立場がよく表わされているということができるます。

 新改訳聖書は、主にプロテスタントの私たち福音派と言われる教派の牧師や聖書学者たちが中心になって翻訳をいたしました。そして、このカオスという言葉を翻訳するにあたって、特に前回お話ししましたけれども、1節に書かれている神の無からの創造という点を強調しようと考えたために、神がこの世界をお造りになったとき、そこには何も無い状態であったことを、この「トーフー・ワボーフー」という言葉があらわしていると理解したために、「地は形がなく、何もなかった」という翻訳を試みたわけです。そして、それは、この「カオス」として知られる言葉を「混沌」と訳してしまうと、神が世界を造られた時から、混沌が支配したとすると、何か悪の存在や、闇の存在が神の創造よりも先にあったよ呼んでしまうのではないかと考えたのです。そのように聖書の翻訳というのは、できるだけ、誤解を避けるように訳すことを心掛けたのが、この新改訳聖書だということができるわけです。

 そして、新共同訳聖書は、カトリックとプロテスタントの古くからある主流の教派の教会が協力して翻訳を試みたものです。ですから、学問的にも、文学的にも最新の注意を払って訳されたという特徴があると言えます。そして、それによれば、この「カオス」は「混沌」としっかり訳すべきだという考えがはっきりと出ています。しかし、混沌と訳しても、そこに何か悪魔的な存在が認められてしまうようなことは、言語学的も、内容的にもあり得ないことだと、フォン・ラートという旧約聖書の代表的な神学者が丁寧に説明を加えています。そして、まず私たちが聖書を読むときに、1節をまず読んでから、2節へと読み進めるわけですから、1節に書かれていることに、強調点があることを覚えながら、この2節からつづくこの神の創造の御業を読み進めていくうちに、どうしても、「混沌」という言葉を使わざる得ない事実に目を留めることが大事なことだと思います。

 混沌とした世界から、この創造物語が描きだされていることは、また私たちにとっても意味深いことだと思います。というのは、私たちはまさに、そのような世界に生きているからです。目的を失った状態のことを「混沌としている」と言います。生活が基礎づけられていない。秩序を失ってしまっている。そのような人にとって不可欠なのが、神の創造の御業であるということができるのです。

 

 さて、では神はどのように創造の御業を行われたのでしょうか。今日は、神が七日にかけて造られたその初めの3日目までを見てみたいと思います。

 

 もう一度2節をお読みいたします。「地は形がなく、何もなかった。闇が大いなる水の上にあり、神の霊は水の上をうごめいていた。」

 「混沌」つまり「形もなく、何もない」状態は、まさに闇です。この闇は光を受けることに待ち焦がれ、形なきものは形造られることに憧れています。神の創造の御業が始まらなければ、あらゆるものが、不安定な状態に留まらざるを得ないのです。この部分を、少し前に岩波から新しく出された岩波訳と言われる聖書があります。これは長い間岩波文庫で読まれていた、無教会の関根正雄が訳したものと異なり、月本昭男という聖書学者が訳したものですけれども、「神の霊がその水の面に働きかけていた」と訳しています。神の御業が今か今かと、待ち構えている様子をうまく訳しています。新改訳聖書にも下に注がありまして、別訳として、あるいは「舞いかけていた」としています。この訳にもそのような神のウォーミング・アップが始められているように訳されています。

 そして、神は創造の御業を始められます。「そのとき、神が、『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」3節

 神が創造の御業をなさる時、それは「仰せられる」つまり、「語られた」のです。神が、語ることに創造の御業をなさいました。神が、語られると、そのようになるのです。創世記に先立って、ヨハネの福音書第1章1節から5節までの御言葉を先ほど聞きました。神が、言葉によって創造の御業をなさったことを、このヨハネでは、神はことばそのものであると語っています。私は、このヨハネの福音書を読む時に、いつも、心躍るような気持になります。私たちの神は、言葉の神なのです。言葉を支配される方です。

 ご覧になった方もあると思いますが、牧師室と呼ばれる部屋が、この礼拝堂の下にあります。そこには、自分で言うのもおかしな気がしますけれども、実に多くの書物があります。キリスト教の関係の書物がほとんどですけれども、中には、絵画や音楽のものもあります。詩集や、雑誌もあります。いつもたくさんの言葉に囲まれて生活しています。それは、私だけのことではないと思います。私たちは誰もが、毎日多くの言葉に囲まれて生活しています。外に出ていて、家に帰ってきますと、すぐに郵便物に目が行きます。新聞を見るかも知れません。テレビやラジオのスイッチを入れるかもしれません。あるいは、家族が、今日一日あったことを報告してくれるかもしれません。言葉、言葉、言葉。私たちは実に多くの言葉に囲まれて生活しています。そこで、私は不図思うのです。私たちはいつも、本当の言葉と、嘘の言葉に囲まれて生活しているなぁということです。いつも、私たちはこの言葉は信頼に足るかどうかを、判断しながら生活しています。そして、その時、いつも思うのです。神の言葉によって、この世界が始まったということが、どれほど私たちの生活を支えているか知れない、と私は思うのです。

 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは、一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」

 何の説明もいりません。この言葉が、世界を造られたのです。そして、この言葉が人に光を与え、命を与える。人から光を奪う言葉が、この世界にはあまりにも多すぎるのです。人の命を奪う言葉が、人を悲しませてしまう言葉が、どれほどこの世界にあふれていることか。けれども、聖書ははじめから宣言するのです。この世界を作ったのは、この世界を支配しているのは、そのような言葉などでは断じてない。このことばは、いのち。このことばは、闇の中にも輝く。そして、闇はこれに打ち勝つことができない。

 神は仰せられた。『光よ。あれ』すると、光ができたのです。これが、神の最初の御業です。神は、混沌とした世界に、言葉によって光をもたらしたのです。どれほど、カオスがこの世界を覆っていようとも、神の言葉は、それを振り払い、神の光の支配をそこに造り出すのです。

 そして、「神はその光をよしと見られた」(4節)、のです。この「よしとみられた」と言う言葉は、「美しい」とも訳すことのできる言葉です。もちろん、ここで神は、単なる美的判断をされているのではありません。その目的に適している、承認したという意味がここに込められています。神が最初に造られた光は、混沌の世界の中にあって「いのち」であり「秩序」であり、「救い」です。そして、この光はその目的に適しているのです。そして、興味深いことは、神はここで、そこから生じた闇に対して肯定しておられないということです。闇に対して「良しとみられた」と書かれてはいないのです。つまり、神は「混沌としていること、無秩序、死というようなもの」を肯定していないということです。ドイツの20世紀を代表する神学者カール・バルトはこれを「影の局面」という言い方をしました。「明るさがあれば暗さがあります。成長があれば減退と言うことが起こります。富だけでなく貧しさがあり、価値には無価値がついてまわります。愛らしさばかりでなく陰鬱さが、初めだけでなく終りが、成功と並んで失敗が、獲得と並んで喪失が、生まれることと並んで確実な死がある」とバルトは言いました。これらは、人間が罪を犯す前からすでに、この時神によって造られ、光が造られた時に、このような「影の局面」というものができたのだというのです。このようなものが、光に付随してできました。このことは覚えておかなければなりません。それらは、光にはつきものなのですが、神はそれを良しとしておられるわけではないのです。こうして、神の創造の秩序として「光」とともに「闇」が「影の局面」とが第一日目に造られました。こうして、「神はこの光を昼をと名づけ、やみを夜と名づけられ」(5節)ました。こうして、神は第一日目に、希望と絶望の秩序を創造なさったのです。

 興味深いことですけれども、旧約聖書には、「大いなる恐るべき主の日」について語りました。「かの日」として語られる日が聖書にあることはみなさんもご存じでしょう。私たちが「最後の日」と呼ぶ日のことです。そして、この日は、聖書ではいつもこの「夜」と結びつけられてきました。パウロはローマ人への手紙13章12節で「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、わたしたちはやみのわざを打ち捨てて、光の武具を身につけようではありませんか」と語り、第二ペテロでは、「私たちは、さらに確かな預言の言葉を持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」(19節)。宗教改革者ルターは、これらの聖書から「愛する最後の日よ」と言いました。この最後の日、かの日、神はこの世界を滅ぼされる。私たちはこのような言葉を聞くときに、闇に飲み込まれてしまうようなイメージで聞いてしまいやすいのですが、ルターはこの言葉を「愛する最後の日」と呼ぶことができました。なぜでしょうか。それはヨハネ黙示録21章25や、22章5節で「そこには夜がない」と書かれています。つまり、「かの日」には、この神の光のみが支配する日が訪れるのです。これが、光をもってこの世界を創造された、神がご計画された、壮大な御業です。ですから、こういうこともできます。私たちが生きている、この一日一日も、神が新しく創造し続けてくださっているのだと。やがて、混沌も、闇もすべてがなくなって、神の光が支配するようになるまで、神は一日目の創造の御業を、今日も続けておられるのです。

 

 今日は、13節までをお読みしました。最初にも言いましたように、神の創造の業の3日目までがここに語られています。けれども、もうそれらを丁寧に説明する時間は残念ながらありません。けれども、大切なことは次のことです。

 神は言葉によって世界に光をお与えになりました。そして、その創造の御業はよく見てみると、神が光以外のものを特に新しく造り出してはおられないのです。一日目には、光と闇とを分けられたこと、二日目には、大空の水と、海の水とを分けられ、三日目には、陸と海とを分けられ、そこで生じた陸に植物を生じさせたことです。つまり、神の創造の御業は、この三日目までは区別することなのです。

 そこでは二日目の出来事としては、空を天と名づけ、下の水の集まったところは海と名づけられました。そして、昔、この海は混沌が支配しているところとされていたのです。けれども、天は神が支配しておられるところです。これも聖書の最後の黙示録には21章1節の新しい天地が造られるところでこう書かれています。「また、私は、新しい天と、新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」

 ここを読むとすぐに思い出すのが、笠松教会で長い間働いておられる宣教師のマレーネ・シュトラスブルガーさんのことです。ドイツでは時々耳にしたのは、「私は泳げない」という人が意外に多かったことです。そう考えれば当たり前のことかもしれませんけれども、日本はどこもかしこも海に囲まれておりますけれど、ドイツでは北ドイツに行かなければ海を見ることはできません。ですから、当然泳ぐことができない人も多いようです。そして、このマレーネ先生も例外ではないようです。夏の学生キャンプに一緒に行った時のことですけれども、「先生は泳がないの?」と尋ねると、「泳げない」という返事が返ってきました。そして、すぐに、この黙示録の箇所を暗唱して見せて、「新しい天地には海はないのだから、大丈夫、何もこまることはないでしょ」と真面目な顔をそて言うのです。

 泳げない人にとってみれば、海はまさに「カオス」が支配している世界です。けれども、聖書にはこのようにして、海はカオスの支配という考えがいつもではありませんけれども、出てくるのです。

 そして、三日目になると、この海はさらに陸からも分けられる。こうして、混沌は夜と、海へと押し込められ、私たちが生活する昼と、陸地とが、神からよしとされて、私たちの生活する場と、神によって秩序づけられ、神の居られるところとして天が、その地の上に雄大に構え、私たちの生活を覆っているのです。

 こうして見てみますと、この聖書は、神がいかに人間を愛しておられるかを記していることがよく分かります。神の心は、私たち人間に集中して語っていてくださるのです。このお方は、光の神です。そして、いのちの神です。この神が、私たちに向けて語って下さる時、それは、そのようになります。ですから、私たちの生活は、この神の言葉を聞くことなしに、はじまらないのです。この神の光によって照らされることによってしか、私たちが本当に、この世界で、混沌とした世界でではなく、神によって明らかにされた世界で生きることはできないのです。

 

 私たちの教会にも、俳句の会がありますけれども、日本キリスト教詩人会という、キリスト者の詩人の集まりがあります。その詩人の会が数年前に、創世記という詩集を出しました。この創世記から、さまざまなキリスト者が詩を織り、一つにあつめられたものです。その中に、中山直子という「河」という詩の会の同人の書いた「光あれ」という題の詩がありますので、紹介したいと思います。

 

 光あれ ――天地創造

 

 神さま あなたがいらっしゃらなかったら

 私は どぶ泥の中の無でした

 あなたが 「光あれ!」と

 おっしゃらなかったら 私には

 何のよろこびも無かったのです

 

 「光あれ!」

 その声は どんな存在よりも みずみずしく

 つよく また やわらかな言葉そのもの

であり すると ただちに

ガラスの海のような プリズムを貫いて

ひとすじの光が 落下していった

無限の色と形とを 生み出しながら

 

さざ波のように時間を生み

ありとある よきものを生み出しながら

底へ――あなたの悲嘆の底

荒々しく 固く 冷たい場所に

あなたの悲しみ あなたの愛 この

とらえがたく悶えて旋回する二本の材を

遮二無二くくりあわせて

一基の十字架が息づいていた

 

あなたが かえりみて下さらなかったら

私は墓の中で ばらばらに腐っていました

しかし 底の底まで 照らされて

言葉といのちをいただいた者の魂は

 

あなたの足もとにすわって 世界を見

あなたに ほめうたを歌います

 

 

 この詩人は、自分が墓の中でばらばらに腐っていたと語ります。そのような墓の底にまで、この創造の光が届いた。それが、最も低い、荒々しく、固く、冷たい場所、十字架であった。まるで自分が十字架につけられていたかのように言葉を重ねながら、そこで神の言葉を聞き、命をあたえられたのです。

神の光が届かないところはありません。神の言葉が届かないところはありません。神のいのちが届けられないところはないのです。神が、ご自身のことばで世界を創造し、この世界の光をもたらし、いのちを与えたのですから、神にはできるのです。そして、この言葉は、今朝、あなたに向けて語られているのです。 お祈りをいたします。

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