・説教 詩篇119篇49-56節「悩みの時の私の慰め」
2021.03.07
鴨下 直樹
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『百万人の福音』というクリスチャンのための情報雑誌があります。そこで俳句のコーナーの選者をしてみえます辻恵美子さんは、皆さんもご存じですが、この芥見の教会員です。昨年、恵美子さんは、選者をされるようになって五年経ったということもあって、皆さんから投句された信仰の俳句をまとめられて、一冊の本を出されました。『合同俳句集 野の花 空の鳥』というタイトルです。とても素晴らしい句集です。この本は昨年出版されたのですが、すぐにコロナウィルスの問題が起こってしまい、なかなかこの本のことを紹介することができないまま、もう一年がたとうとしています。しかし、岐阜県の緊急事態宣言も先日解除されましたし、もういいだろうと思いまして、今日は、少しこの本のことを紹介したいと思っています。
昨日も、「ぶどうの木句会」という句会がこの私たちの教会で行われました。この句会は毎月行われております。コロナも少し落ち着いてきましたので、今はこの集まりも再開されております。その句会でどんなことをするかといいますと、句会に集まって来る人は、その季節の俳句の季語を使った俳句を5句出します。その自分の俳句を、短冊に書きまして、一つの短冊に一句書かれているものを、人数分で分けます。そうやって配られ、自分に割り当てられた俳句を、それぞれの参加者が清記用紙という紙に書き写していきます。そうすることで、この俳句を誰が書いた俳句か筆跡を分からなくするわけです。
一枚の清記用紙には、四句か五句の俳句が書かれているのですが、その清記用紙を、参加者に順番に回していきまして、自分が気に入った俳句を、自分の選句用紙という紙に書き写していきます。そして、その中から、出席人数によって変わるのですが、自分がいいなと思った俳句を五句とか六句と選んでいきまして、最後に発表していくのです。そして、自分が選んだ中でも一番いい俳句だと思った特選の俳句を選びます。
こうやって、それぞれが選んだ句を司会者が読み上げる時に、その読まれた句が、自分が書いた俳句であれば、自分の俳句が読まれた人は「だれだれ」と名乗りをあげます。そこで、はじめて、その俳句を書いた人が誰か分かるようになっているのです。
ちなみに、昨日の句会で、私が特選に選んだ俳句はこういう俳句でした。
「みちゆきの一絵一絵や春日影」
これは辻恵美子さんの俳句でした。
「みちゆき」というのは、先日の説教でもお話ししましたが、カトリック教会の壁に掲げられている主イエスの十字架までの道行きを描いた絵のことを指しています。おそらく、どこかのカトリックの教会を訪ねられたのでしょう。今はレントですから、まさにこのみちゆきを見ながら、主イエスの十字架の苦しみのお姿を心に刻むわけです。そうやって、一絵一絵というのは、みちゆきとして描かれた一枚一枚の絵ということですが、その絵に春の日差しが差し込んでいるというのです。
「春日影」というのは、私も知らなかったのですが、日の光を指す季語のようです。けれども、この影という文字に私は、十字架の重さを感じました。同時に、けれども、その影は重い影を落としているのではなく、光なのだという意味だったのです。
私は、これはいい俳句だと思いまして、この俳句を特選に選びました。わずか17文字で、これだけのことを表現できるわけです。昨日は、他の方の俳句もたくさん見たのですが、私の心がなかなか重くて、言葉が私の中に届いてこない、そんなことを感じているなかで、この俳句は私の今の心のありかたを教えてくれるような思いで、とてもいい俳句だと思ったのです。
俳句を選ぶというのも、なかなか難しいものです。その人がその俳句で伝えたいと思っているものが、なかなか読み取れないという読み手の想像力の貧しさもあるでしょう。季語の持つ意味の深さが分かればわかるほど、その言葉を読み取る力も付くのだと思いますし、俳句を作る時にも、自在にその季語を使えるようにもなるのだと思います。
こういう俳句が、この「野の花 空の鳥」という本の中には満ち溢れています。一句一句とても味わい深い俳句ばかりです。芥見教会の方々の俳句も何句か載っております。ぜひ、手に取って読んでいただきたい本です。もうちょっと宣伝すると、恵美子さんから買い求めることもできますが、いのちのことば社の通販用のサイトでも取り扱っておりますので、そこから注文することもできると思います。
今日、この牧師は俳句の話からはじめて、どうしたんだろうと思われる方もあるかもしれません。今、まさにお話したように、俳句を読み取るというのは簡単なことのようでありながら、たくさんの俳句に触れれば触れただけ、想像力が働いて、深く読み取ることができるようになると思うのです。
なぜ、こういう話から始めたかと言うと、今日の詩篇のテーマは「悩み」です。
「これこそ悩みのときの私の慰め」と50節にあります。今日の詩篇の中心的なテーマはまさに、この言葉です。
今日の説教題を「悩みのときの私の慰め」としました。そこで、みなさんと一緒に考えてみたいのは、みなさんは悩みの時、どんなことが慰めになるでしょうかということです。私自身のことを、そうやって考えますと、好きなテレビなり映画をみながらぼーっとアイスクリームを食べるというのが、かなり効く気がします。
牧師のくせに、もっと何かないのかという声が聞こえてきそうですが、思い悩むときというのは、私にとってはもうそのことは悩んで考えても仕方がないので、気持ちをどうやって切り替えるかということを考えるわけです。そして、一番気持ちを切り替えるのに有効な方法が、テレビでも見ながらアイスを食べるというのが、私には合っているなと思うのです。
お祈りしないのか?と思う方もあるかもしれません。もちろん、お祈りはするんです。でも、一度お祈りしたら、それで十分です。もうあとのことは神様に任せたので、あとは自分の気持ちをどう切り替えるか、それが私にとっては大事だと思うわけです。
これは、私の場合ですから、どなたも、みな私と同じようにするといいですよと勧めるつもりは全然ありません。
さて、今日の49節にはこのように記されています。
どうか あなたのしもべへのみことばを
心に留めてください。
あなたは 私がそれを待ち望むように
なさいました。
ちょっと分かりにくい翻訳です。カトリックのフランシスコ会訳ではこうなっています。
あなたのしもべに言われたことばを思い起こしてください。
あなたがわたしに希望を起こさせたそのことばを。
神がわたしに語りかけてくださったその言葉によって希望が与えられたと言っているのです。そして、私に与えたその希望の言葉を、神さまの方で忘れてしまうということがないようにしてくださいね。という祈りです。
実は、今日の詩篇の箇所の意味がわかるようになるためには、54節の言葉をどう理解するかが重要なカギです。
あなたのおきては 私の旅の家で
私の歌となりました。
とここにはあります。
旅先で、神の言葉を歌う喜びのことが語られています。旅先で新鮮な景色を見ながら、心が弾むような思いで、歌を歌う。そんな場面を想像したくなります。けれども、この旅という言葉ですが、翻訳がかわると、全然違う印象になります。
フランシスコ会訳ではこうなっています。
あなたのおきてはわたしの歌
わたしがとどまる異境の地では。
「異境」というのは、異なる境という字を書きます。そう訳すと、旅というのはまた違う状況を想像させます。つまり、例えばですが、バビロン捕囚のような経験です。望まずにつれてこられた異境の地にあって、自分の心を慰める歌となったのは、あなたの教えであったということになります。そうやって言葉のもっている背景が見えてくると、そこから見えてくる景色も変わってくるのです。
その前の53節にはこう記されています。
悪しき者 あなたのみおしえを捨てる者のゆえに
激しい怒りが私を捕らえます。
今言ったような、捕囚のような状況だとすると、その土地で、神を信じる信仰を捨てて、異教の教えに走ってしまう同胞に対して、くやしさやら、憤りやらという感情が自分の中に沸き立つ、そういう姿がここから見えるようになるわけです。
いつもぶどうの木の句会に出る時に短いお話をする時間を頂いています。そこで私は昨日は、吉川直美さんという聖契神学校で働いておられる先生のまとめたエッセーですが『ひと言でいいのです』という本がありまして、そこに紹介されている言葉とエッセーを紹介させていただきました。
昨日紹介したのは、ロバート・ゴルティスというというユダヤ教の神学者の言葉が紹介されているところでした。その人はこんなことを言っています。
挫折と悲哀こそ人間がその兄弟たちと共感し合い、交わるためのパスポートである。」
そんな文章の後に吉川先生の言葉で、こういう文章が添えられています。少し紹介してみたいと思います。
ほかの参加者が様々に痛みや弱さを分かち合う中で、彼女は両親にも家族にも愛され、早くから神に仕え、とくに記憶に残る挫折も後悔もなく、どんなに心を探っても痛みがないと胸を張られました。その研修会にも、修道委員長に命じられてしぶしぶ来られたのでした。
ほかの参加者が嘆き、もだえ苦しみ寄り添い寄り添われ、やがて十分に泣いて気の晴れた子どものように笑顔を取り戻したころ、思いがけずうちひしがれていたのは彼女でした。
「私には人の痛みがわからないことがわかりました。それがはじめて知った挫折です。」-
今日の聖書の言葉を手掛かりにすれば、主の慰めを知る者は、人と寄り添い、主にある慰めを共有することができるし、そのような慰めの源である神の言葉を、共に分かち合うことができる喜びを知るということになるわけです。
私のことを言えば、最初に話したように、最初に祈って神様に委ねる。あとはアイスでも食べながら気持ちを切り替えるというのが、私が悩むときの対処方法なのですが、多くの場合、このゴルティスという方の言葉のように、悲しみやつらい経験を共有することで、理解し合い、励ましを得る経験をするのだと思うのです。
そこで私自身が葛藤を覚えるのは、人の悩みや悲しみや、死の恐れに対して共感する心が、私には少ないのかもしれないということを、私自身多々感じることがあるのです。
多く悩んだ者、多くの悲しみを経験した人は、その人にとってそれはとてもつらい経験であるに違いないのですけれども、それはその人の魅力にもなり得るわけです。その人でしかなし得ない、あるいは慰められないということもまたあるのです。
そして、最初の俳句に戻るのです。
「みちゆきの一絵一絵や春日影」
主イエスの十字架の苦しみの姿、その場面の一つ一つに思いを寄せる時に、それは確かに影を落とすようなつらい出来事なのですが、それは春日影、つまり暖かな光なのです。
主イエスにしか慰められ得ない人たちがいるのです。そして、主イエスは人のあらゆる悲しみや不安や、死の恐怖、さまざまな痛み、すべてのものを知っておられるのです。そして、その主イエスは、私たちに寄り添い、私たちを慰めることができるのです。主イエスに慰めを得ることのできない者はいないと言えるほどに、主は私たちの下に立たれ、私たちを支えようとされるのです。そして、まさに、その主イエスのお姿、この慰めの神の言葉こそが、私たちの慰めとなるのです。
この主は、私たちに希望を与えるみ言葉を与えてくださるのです。そして、主は私たちに与えた希望の言葉を、「そんな昔の約束はもう忘れてしまったよ」と言われるようなお方ではないのです。
私たちの主は、私たちを確かに支えてくださるのです。そして、この主の言葉こそが、悩める私たちのただ一つの慰めとなるのです。
お祈りをいたします。