・説教 詩篇17篇「瞳のように私を守ってください」
2022.09.04
鴨下直樹
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これまでローマ人への手紙からみ言葉を聞いて来ましたが、今日からしばらくの間、詩篇やさまざまな箇所からみ言葉を聞いていきたいと願っています。
今日の、この詩篇の祈り手は、自分の訴えが正しいと信じています。自分は、主の前に誠実に生きて来たのに、自分の身に降りかかってくるのは災いばかり。それで、神からの救いを、慰めを求めるのです。詩篇を読んでいると、時折このような詩篇の言葉に出会います。
先日、私はある方からとても美味しい梨を頂きました。梨は私の大好物です。梨好きなので、触っただけで、その梨が美味しいかどうか想像ができます。頂いた梨も、どれもとても美味しく私のお腹の中に入りました。ただ、梨以外の果物となると、触っただけで味を見極められるとはいきません。
みなさんも経験のあることだと思うのですが、これは美味しい果物に違いないと、少し高めのお金を払って、家に帰って食べてみると、思ったほどではないという経験をすることがあるのではないでしょうか?
美味しい味を知っていると、それは、それなりの値段がするということが分かるわけですが、出した値段の割に、思ったほどでなかったりするとがっかりしてしまいます。ある程度の品質のものを求めると、それ相当の値段がするのです。
「クオリティー・オブ・ライフ」という言葉があります。「生活の質」を豊かにしたいということをあらわす言葉です。最近いろんな所で使われるようになりました。病院の生活や、介護施設などでも使われることがあります。
意味は良く分かるのです。豊かな質のものに囲まれて生活したい。それをさまざまな領域で求めるのです。私たちは、一度良い物を知ってしまうと、なかなかその質を下げることが難しくなってしまいます。だから、どこででも、それなりの生活の質を求めたいということになるわけです。
問題は、良い物を知ってしまうと、残念なことですが悪いものでは満足できなくなるということが起こります。食べるものがない時代や、困難な時代は、食べるものがあるだけでありがたいのですが、いつの間にか、クオリティーの低いものを掴まされると、腹がたつというジレンマに陥ってしまいます。良い物に囲まれて生きたいと願うのに、その結果、悪いものに悩まされるというジレンマが待ち構えることになるのです。
これは、私たちの人生のさまざまな場面で登場します。ここ数週間、教会の中のかなりの割合の方々がコロナウィルスに感染してしまいました。そうなると、自宅に留まらなければならなくなってしまいます。買い物を自由にできません。この隔離期間の間は、外に出られませんので、それこそ人生のクオリティーというようなことが言えなくなってしまいます。
そんな時、私たちはそのがっかりした気持ちから、どのように抜け出すことができるのでしょう。本当の慰めというのは、いったいどこから来るのでしょうか。
この詩篇17篇というのは、ダビデの祈りと表題に記されています。もし、ダビデが書いたのだとすると、いつ頃の祈りかなと想像するのですが、ダビデは祭司サムエルから王様になるという油注ぎを受けます。ところが、ダビデが油を注がれた時、イスラエルにはサウルという王がいました。ダビデはこのサウル王に仕えるのですが、サウル王はダビデを憎んで、いつもダビデを捕らえようと狙い、常に命の危機を感じていました。
そんなときの祈りだとすると、この詩篇の状況がよく理解できそうです。
1節
主よ 聞いてください 正しい訴えを。
耳に留めてください 私の叫びを。
耳に入れてください 私の祈りを。
これは欺きの唇から出たものではありません。
このころのダビデは、このように祈れる誠実な生き方をしてきた人であったといえます。私たちは、なかなかこのような祈りはできないと思うかもしれません。ダビデは自分の行いとは関係のないところで、自分の身に降りかかる嘆きを経験しました。そのような中で、ダビが求めたのは、まさに、主の慰めでした。
主の約束してくださった「人生の質」と、自分が味わっている「人生の質」のズレ、違いにダビデは苦しんだのです。
これは、私たちも日常よく感じることでしょう。その時、私たちはどこから慰めを見出すことができるのでしょうか?
良いものを知った人、経験した人は、それよりも質の下がったものを経験すると、不平がでたり、不満に感じたりするのだとすると、私たちの生活は常に、不安と不満に満ちたものになりかねません。
私たちは、日常の生活の中で、質のよい生き方をしようと思う時、質の良い人との出会いを求め、より刺激のある生活というものに、希望を見出します。けれども、私たちが、悲しみを経験し、絶望するとき、自分が憧れていた質の良い生き方をしている人、自分よりも豊かな生活をしている人のそばで慰めを見出すことは、難しくなってしまいます。
そこで、その人と自分を比較すると、自分がますます惨めに思えてしまうからです。
ダビデはその慰めを、主に求めました。ダビデはそこでこう祈りました。6節7節です。
神よ 私はあなたを呼び求めました。
あなたは私に答えてくださるからです。
私に耳を傾けて 私のことばを聞いてください。
あなたの右の手で 奇しい恵みをお示しください。
向かい立つ者どもから 身を避ける者を救う方。
ダビデはこれまでの経験から、神であられる主は、祈りを聞いてくださるお方だと知っていました。また、神の右の手には奇跡を行う力があること、恵み豊かなお方であることをも知っていました。主は、救いを求める者を、敵から守ってくださるお方だと、そう言い表しました。
人は祈るときに、どうしてもそこで神を見上げることになります。その時、自分の悲しみばかりを見つめ続けることができなくなります。自分の祈る相手がどういうお方なのか、そこに目を留めなければ祈れないからです。
そして、ここに、私たちは悲しみの現実から引き上げられるきっかけをつかむことができるようになるのです。
神に祈るとき、私たちは下を向いては祈りません。天を仰いで祈ります。その時、神のお姿を見るのです。
ダビデはこう祈りました。8節です。
瞳のように私を守り
御翼の陰にかくまってください。
このダビデの言葉は、この詩篇の中心の言葉です。
「瞳のように私を守り」とダビデは言いました。神は、私をそのように守ってくださると言い表したのです。
私たちの瞼というのは、不思議なもので、私たちの目の中にゴミが入らないように自動的に瞼が閉じて、瞳を守ります。そのことを、ダビデは知っていて、神はそのようにして私を守ってくださるお方だと言ったのです。
さらには、親鳥の翼の陰に、雛が守られるように、神は私を守ってくださると言いました。
このような言葉をダビデはどこから知ったのでしょうか?
実は、この言葉は申命記32章の10節と11節にある言葉です。この申命記32章というのは、モーセがその死を迎える直前に、歌を歌ったその歌詞の一節です。
少し、読んでみたいと思います。
主は荒野の地で、
荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、
これを抱き、世話をし、
ご自分の瞳のように守られた。
鷲が巣のひなを呼び覚まし、
そのひなの上を舞い、
翼を広げてこれを取り、
羽に乗せて行くように。
モーセの辞世の句ならぬ、辞世の歌です。神がイスラエルの民を守ってこられたことを、モーセはその人生の最後で美しい詩的な言葉でこう表現したのです。この歌は、イスラエルの人々の心の中に残る歌詞となっていたはずです。この言葉を短く言い現したのが、この8節の言葉です。
瞳のように私を守り
御翼の陰にかくまってください。
神は、確かにイスラエルの民を、大切に自分の瞳を守るように守り、親鳥が翼に雛を乗せて飛ぶように、私たちを導いてくださった。そのような絶対的な安心を与えてくださる神の救いを、モーセはその死の直前に思い起こして歌いました。この歌は、イスラエルの人々の心を打つ歌となりました。ダビデは、この歌の歌詞を思い起こしたのです。
自分の知らないことを思い起こすことはできません。ダビデは信仰の先輩であるモーセの信仰の姿を、歌を通して、もっと言えば聖書を通して知っていました。だから、祈りの時に、神を見上げた時に、自分が祈っている神とはどのようなお方なのかということが出来たのです。
さて、その後ダビデの祈りはどうなったかというと、私を敵から救い出してくださいという祈りになっていきます。そして、13節まで来るとこう言いました。
主よ 立ち上がり
彼の前に進み行き 打ちのめしてください。
あなたの剣で 悪しき者から
私のたましいを助け出してください。
自分の敵をやっつけてください。ボコボコにしちゃってください。そんな祈りです。ちょっと、そこまで祈っていいのかと驚いてしまいますが、それが、その時のダビデの気持ちだったのです。
もしこの時が、ダビデが洞窟に隠れているときに、外側にサウルたちが来て、追い詰められた時だとすれば、このような祈りはよく理解できます。外で待ち構えている敵をやっつけてください。そう祈ったとしてもおかしくはないでしょう。
ダビデの祈りは、そんなにカッコいい祈りではありません。正直な自分の心情を訴える祈りです。
そういう意味では、私たちも祈るときに神様の御前で何を祈ってもかまいません。大切なことは、自分の思いを主の前に吐露することです。ただ、もちろん私たちが祈ったようにすべての事が成るということではありません。何を祈ったとしても、神様の御心だけが行われるということを知っている必要があります。
そしてこの祈りは、最後の言葉を迎えます。この詩篇の難しいのはこの後の14節と15節をどう読むかです。
14節にこう記されています。
主よ 御手をもって人々から
相続分が地上のいのちであるこの世の人々から
私のたましいを助け出してください。
あなたの蓄えで 彼らの腹は満たされ
子たちは満ち足り
その余りを さらにその幼子らに残します。
この世界の人々は、神様からいただく相続財産、「あなたの蓄え」とありますけれども、つまり、神様から与えられるもので生活し、それを子どもや子孫に受け継いでいく生活をしています。神様そのものではなくて、神様から与えられる「もの」しか見ていないのです。そんな人々から、私を助け出してくださいとダビデは祈りました。
15節はこう続きます。
しかし 私は義のうちに御顔を仰ぎ見
目覚めるとき 御姿に満ち足りるでしょう。
けれども、わたしは神様がくださるものではなくて、神様ご自身の顔を仰ぎ見ています。と祈りました。
では、この「目覚めるとき」とは何を意味しているのでしょう。
宗教改革者ルターは、この目覚めるときというのは、「復活」を指しているといいました。神の御前で、目が覚めるときと読みました。この世界の財産が、私たちに与えられている神からの相続分ではなくて、神の御前にある永遠のいのちこそが、私たちの相続分だと理解したのです。
もちろん、そのように理解しなくても、ここで語っている内容は大きくは変わらないのかもしれません。私たちが毎日、朝起きるたびに、神ご自身を求めて生きることが、私たちの人生を豊かなものにするというようにも読めると思います。
この世の人たちが何を求めて生きているのか。何を慰めとしているのか。それは、子孫に相続財産を受け継ぐこと。それが、この世の人々の生き方だとすると、私は主ご自身を求めて生きる。そこに、私の慰めがあるとダビデは見出すことが出来たのです。
私たちの人生を豊かにするもの、クオリティー・オブ・ライフは、何を手に入れるのか、より良い物を、という所有物にではなく、私たちが仰ぎ見るべきお方、主ご自身を求めて生きることにある。ダビデは、この祈りの中でその答えを見出していきました。
その時、周りの人への不満、この人たちは私を苦しめる敵という考え方から自由になって、ただ、主を求めることが、私を満ちたらせることになると気づいていったのでした。
私たちは、「目覚めるとき」、「よみがえり」を信じています。私たちの人生はこの世の生で終えるのでなく、神の御許で、永遠に神を喜ぶことができる時まで、主に支えられています。だから、今目の前にあるものを、もっと良い物を、もっと質の良い生活を! とこの世の人のように、相続できる財産を求めていくことに心を注ぐのではなくて、私たちは主の御顔を仰ぎ見ることを求めたいのです。
主を仰ぎ見るとき、私たちはこの世の苦しみや悲しみに支配されるところから、自由になって、主が私たちに何を与えようとしておられるかに目を留めることができるようになるのです。
主は私たちを瞳のように守ってくださるお方です。御翼の陰にかくまってくださるお方です。そして私たちに、永遠の御国で、満ち足りた平安な生活を与えてくださるお方でもあります。このお方が、私たちの慰めです。このお方を求めるところに、私たちの確かな支えがあるのです。そのことを覚えて、主を仰ぎ見つつ、満ち足りた歩みを過ごしていきたいのです。
お祈りをいたします。