2022 年 11 月 27 日

・説教 ルカの福音書1章5-25節「良い知らせを伝えるために」

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2022.11.27

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今日こうしてまた皆さんと共に、礼拝をささげることができることを嬉しく思っています。先週、私は入院していたこともあって病室からオンラインで礼拝に参加しました。私にとって、オンライン礼拝に参加するというのははじめての経験でした。確かに、画面越しに説教を聞くことができますし、礼拝の様子を見ることができます。便利になったものだと思います。

 ただ、同時にやはり物足りなさを感じるのも事実です。何よりも、教会の皆さんと顔を合わせることができない、みなさんと語り合うことができないというのは、オンライン礼拝の最大の欠点です。特に、私は入院中個室にいたということもありますけれども、ほとんどこの9日間誰とも会話をすることができませんでした。もちろん、手術の後というのは喉を傷めていますので、飲み込むときにかなりの痛みがあります。ですから、積極的に会話ができる状態でもありませんでしたので、教会にいたとしてもお話しできたか分かりません。

 今もオンラインで礼拝をされておられる方が一定数います。日本中の教会でも3割ほどの人が礼拝に来なくなったという報告もあるようです。オンライン礼拝というのは、便利ですが、どうしても人との交わりという部分、あるいは教会の愛の姿を奪うものとなってしまう要因になっていることは、大きな課題と言えます。

 私自身、この入院している間、それこそ誰とも交わりをすることができませんでしたから、この9日間、強制的に沈黙の時間を得ることになりました。この期間、私は何をして過ごしていたかと言いますと、病室でテレビをみたり、インターネットをしたり、本を読んだりして過ごしていました。入院というのはそういうものなのかもしれません。ただ、今から思うと、もっと違う時間の過ごし方があったのではないかと思っています。とても、怠惰な時間を過ごしました。
 
 そんな中で、今日のみ言葉を心に留めていました。ここに記されているのは、バプテスマのヨハネ誕生の秘話と言うべき内容が記されています。どうやって、ルカがこの物語を知ったのか、そのこともとても興味があります。

 ルカは、順序だてて書いていく中で、洗礼者ヨハネの誕生の出来事の背後に、大きな神の働きがあったことを知って、そのことをこのように記録しました。それはヨハネの両親の上に働かれた神の御業を記すことです。

 バプテスマのヨハネの両親は、ザカリヤとエリサベツと言います。ザカリヤは祭司をしていてアビヤの組に属しています。これはダビデが王様だった時に祭司を24の組に分けて、一年に二回それぞれの組で担当者になった祭司が一週間神殿の祭儀の奉仕をする当番になるようになっていました。このアビヤの組だけでも当時700人の祭司がいたそうです。その中で一年に2度しかチャンスが回って来ないのです。一度に何人が当番になったか分かりませんが、その担当者を決めるためにくじ引きをして神殿での奉仕に担当者に割り振られます。神殿の奉仕担当になった人は大変名誉なことだったようで、一度くじに当たると、次からはくじのリストから除外されていたようです。ですから、祭司としてのどれほどこの働きが名誉なことだったかが分かると思います。

 そんな、まさに祭司冥利に尽きると言ってもいいような奉仕をしていた時に、ザカリヤに主の御使いガブリエルがあらわれたというのです。この時、ザカリヤに語られた御使いのメッセージは13節から17節に記されています。

 最初の知らせはこうです。13節をお読みします。

恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。

 この時天使がザカリヤに伝えた知らせは驚くような内容でした。ザカリヤとエリサベツには子どもは無かったようです。そんな中で、二人は子どもが与えられるように祈ってきたのでしょう。この祈りは若い時にしたのかもしれません。その時の祈りが、もう諦めていたのかもしれませんが、その願いを主は聞き入れてくださったというのです。しかも、その子どもは「主の御前に大いなる者となる」と15節で語られて、続く16節と17節では「イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」と記しています。

 すばらしい神からの約束が、ザカリヤに告げられました。ザカリヤという名前は諸説ありますが「主は覚えておられる」という意味なんだそうです。このザカリヤは御使いから、3つの希望の言葉を聞きます。一つは、念願の子どもが与えられる事。そして二番目は、その子どもはイスラエルを立ち返らせるという使命を帯びていること。そして、三番目は、やがてこられる主、キリストのために民を整えるためだということです。

 ザカリヤは祭司です。主にお仕えするという奉仕を担って来て、一生に一度あるかないかの、晴れ舞台の日に、天使があらわれて、こんなにも素晴らしい約束の言葉を受け取りました。自分が置かれている状況から考えても、このような出来事はまさに特別な神の御業としか言えません。もうこの知らせを信じるしかないとでもいうような状況に置かれていたのです。

 ところが、ザカリヤは天使ガブリエルにこう答えます。18節です。

私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。

 ザカリヤは、あろうことかこの主の約束の言葉を、信じることができなかったと聖書は記しているのです。ここに、信仰のリアルがあると言えるのかもしれません。ザカリヤは一生に一度の体験をしているのです。そのような祭司の務めの時に、天使が現れたら誰だって信じると思うのです。これで、信じられないのだとしたら他にどんな方法があるかと思えるほどです。しかし、ザカリヤは「自分も妻も年寄りだから無理です」「そんなことはありえないことです」と答えるのです。

 主の言葉の力を知らないのです。これは、とても残念なことです。そして、このことは毎週み言葉を聞き続けている私たち自身への問いともなっています。こんなにも、はっきりと主の言葉が伝えられているのに、主の御言葉を信じなければ何も起こりません。神のどれほどの力があったとしても、神の言葉に力があったとしても、信じなければ何もないのと同じなのです。100×0は0です。10000×0もゼロです。

 主に仕えるはずの祭司であっても、主の言葉の力を知らなければそれは何もないことと同じになってしまうのです。

 さて、しかし、主はそれでこの物語を終わりにはしませんでした。何とか、そのことをザカリヤに気づかせようとなさるのです。その結果、主はザカリヤに一つの宿題を与えます。ガブリエルはザカリヤにこう告げました。19節と20節です。

この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。

 主は御使いを通してザカリヤに、ヨハネが生まれる時まで、あなたは口がきけなくなると告げたのです。10か月の間、主はザカリヤに強制的に沈黙の時間を与えられたのです。

 今日の最後の24節と25節に、エリサベツが身ごもったことが記されています。神の語られた言葉は、その言葉の通りになったのです。この20節にもこう語られています。

 「その時が来れば実現する私のことば」とあります。今日の中心聖句はまさにここです。

 主の言葉は、その時がくれば実現するのです。ここでの問題は、その神の言葉を受け止めることが出来ないザカリヤの心が記されています。そして、主はこのザカリヤに10か月沈黙の期間を与えることによって、ここで語られた神の言葉を聞き取るための期間を与えられたのでした。
これが、神のなさり方です。

 私がまだ18か19歳の時のことです。当時、学生キャンプのスタッフとして私は参加していました。その時に、宣教師のクノッペル・ポール先生がお風呂の中でこんなことを言いました。

 「直樹は、一日の中でどのくらい沈黙する時間があるか?」そう問いかけられたのです。その当時、インターネットはまだない時代です。家ではテレビを見て過ごすか、当時の私はゲームをしているか、本を読んでいるかという生活でした。車に乗れば音楽を流します。会社で働いている間も沈黙するなどという時間はありませんでした。その時、私はクノッペル先生にこう答えました。

 「考えてみると沈黙している時間は全然ない。せいぜいお風呂に入っている時だけだ」と。

 すると、こんな質問がかえって来ました。
「じゃあ、いつ考えるんだ?」そう問いかけられました。考えることから逃げているのではないかと言われたのです。自分をごまかして生きているのではないかと問われました。これは、まだ若かった私には非常に衝撃的な言葉でした。

 私がドイツで学んだ3年半の最後の半年間、宣教師の務めを終えてドイツで牧師として働いていたクノッペル先生の教会で、インターンを過ごしました。私にとって、このクノッペル先生との再会は、神様からのプレゼントのような期間となりました。

 私は神学生の間、そしてしばらくの期間、この沈黙をとても大切にするようになりました。今回、実は入院していた間、せっかく沈黙の時間が与えられていたのにも関わらず、私はまったくと言ってよいほど沈黙することを忘れ、サッカーのワールドカップの事や、興味のあったドラマを見ることばかりに時間を費やしていたことに反省させられています。

「沈黙」、もっと明確にいうと神の言葉を聞き取るために必要な時間と言い換えてもいいかもしれません。

 以前私は京都にありますカトリックのカルメル修道会の修道院で、説教のための研修を受けたことがあります。宗教改革の後、カトリック教会の中でも対抗宗教改革と呼ばれるようになる出来事が起こります。カトリック教会の中でも、自分たちの在り方を刷新する必要があると考える人たちが出てきました。そんな中で、16世紀のカルメル修道会の中からテレジアとか、十字架の聖ヨハネと呼ばれる人物が出てきます。この修道院の壁には至る所に「沈黙」と書かれていました。この修道会は沈黙することを大切にする修道会だったのです。

 この十字架の聖ヨハネの言葉として紹介されている言葉の中に、こんな言葉があります。

「神のことばは、沈黙の中で発せられる。だから魂は沈黙の中でその言葉を聞かなければならない」

 沈黙の中で神の言葉が聞こえて来るのだというのです。実際にカルメル修道会の修道士たちは沈黙して時間を過ごします。こういう生活のことを「観想」とも言います。み言葉を聞き、目の前の出来事を観ることで、神を想い、み言葉を想う時を持つのです。沈黙の中で、神の言葉を味わうのです。神と向かい合う時間を持つのです。

 ザカリヤはこういう時間を、強制的に神から与えられました。この間、ザカリヤは自分がなぜこんなにも素晴らしい喜びの知らせを受け止められなかったのかということを考えたと思います。神の言葉を何度も何度も、自分の心に語り聞かせながら、神を想う時を持ったのです。

 私たちは毎日、さまざまな言葉に溢れて生活しています。そんな中で神の言葉を聞くときも、普段の言葉と同じように聞き流してしまっているのかもしれません。せっかく神からみ言葉を与えられているのに、その言葉が私たちの生活に何の力にもなっていないのだとすれば、私たちはそのことを見直す必要があります。

 神のみ言葉は、ここでガブリエルが語っているように「時がくれば実現する言葉」なのです。その言葉は、妻エリサベツの中で生まれ、はぐくまれて、10か月後にこの言葉の通り、ヨハネが誕生します。しかし、その言葉が、まさに約束の通りであったということが明らかになるには30年以上の年月を要します。30年後、ヨハネの活動は多くなり、イスラエルの人々は悔い改めてヨハネから洗礼を受けるようになるのです。

 神の言葉を聞いたら、すぐに何かが起こるということではありませんでした。私たちは、せっかち過ぎるのかもしれません。あるいは、短絡的に考えているのかもしれません。ただ、明らかなことは、沈黙しながら神の言葉を聞き取ることを、神はここで要求しておられるということです。

 ザカリヤとエリサベツがかつて祈った祈りが、忘れた頃に実現するというのも、まさにこのことを示しています。

 神は、私たちに言葉を持って語り掛けておられます。そして、私たちに良い知らせを告げ知らせておられます。この神の言葉を、毎日の生活の中で丁寧に聞き取ってください。右から左に聞き流してしまうのではなく、その言葉は沈黙の中でこそ、聞き取られるものです。この神の言葉を私たちが聞き取るとき、私たちは神の偉大な力の大きさを、身をもって知ることになるのです。

 お祈りをいたしましょう。

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