2019 年 6 月 9 日

・説教 マルコの福音書14章43-72節「鶏が鳴く前に」

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ペンテコステ主日

2019.06.09

鴨下 直樹

 先週の月曜日から水曜日まで静岡の掛川でJEAの総会が行われました。JEAというのは、日本福音同盟の略語です。日本の福音派の教会の代表たちが集まりまして、毎年総会を行っているわけです。私は、今は教団の代表ではないのですが、2023年に行われる東海地区の伝道会議に備えるために、教団では昨年から2名総会に出席することにしていて、私はオブザーバーとして参加をさせていただきました。今年の総会では、昨年全教団に次世代育成の課題をアンケートにして聞いていまして、そのまとめの発表と討論が行われました。

 この「次世代」という言葉の定義がどうもそれぞれの教団で異なるということが、まず確認されました。私たちの教団では五か年計画に「次世代への献身」と掲げています。そこでは60代は50代に、50代は40代にという具合に自分たちの世代の一つ下の世代に奉仕などの責任を引き継いでいきながら、次の世代を育てていこうという取り組みを教団全体でしているわけです。他の教団は子どもや学生、青年への信仰継承、信仰育成といった取り組みのことを意味しているようでした。実は、このアンケートのまとめが2週間前に東京で行われまして、私はそこで3人の発題者の一人として、同盟福音での取り組みについて発言してきました。私たちの教団では、この次世代の育成ということと、そのための環境を作るということで、宣教ネットワーク制を導入して近隣の2~3の教会との協力関係を築いて、伝道できる体力づくりをしようということに取り組んでいます。それで、たとえば、芥見教会で今ちょうどホタルがたくさん飛ぶようになりましたので、今日の夕方に可児教会と合同でバーベキューをしながら、一緒にホタル観賞をしようということを計画しているわけです。

 また、昨年行いましたアンダー50フェローシップキャンプを通して、次世代の方々の交わりの土台をつくると同時に、ドイツのアライアンスミッションの代表であるシェヒ先生を講師にお招きして、宣教のビジョンということを学びました。そこで、シェヒ先生が語られたのは、自分たちで出来ない働きを見ながら、うちではできないというようなことを考えてがっかりするのではなくて、自分たちに与えられている賜物をちゃんと認識して、それらを用いやすい環境をつくっていくことが大切だと語られたわけです。その時に、芥見から参加したKさんの「外食しておいしい物を食べさせるというよりも、冷蔵庫にある残り物でいかにおいしい料理を出せるかということ」という名言まで生まれたわけです。2週間前の時にはそんな取り組みをしていることを話してきました。

 先週の伝道会議で改めてアンケートの内容に注目したのですが、たとえば全体の8割の教会が教会学校などの働きを通して、次世代の信仰育成のための取り組みをしていると答えていました。けれども、ほとんどの教会はそれだけでは信仰の継承ということができないと感じているわけです。以前のように子ども集会を計画すればすぐに子どもたちが集まってくるというような環境ではなくなってきているわけです。総会の夜に行われた分科会でも、それぞれの牧師たちが、自分たちの教会でどんな取り組みをしているのかを分かち合っていたのですけれども、私はその姿を見ながら、ふっと疑問が浮かんできました。どんなにいろいろなアイデアがあって、それを分かち合って共有しても、問題は改善しないという結果が出ているわけです。そうであるとするともっと根本的な問題があるのではないかということに、改めて考えさせられたわけです。それこそ、冷蔵庫に入っているものを無視して、一生懸命外食のレストランの素晴らしさを聞いているようなことになっているのではないかという気がするわけです。

 私たちのディスカッションのグループの中に、東京のミッション系の大学の学長がおりまして、この方が、次世代の働きのカギは「居場所をつくること」という話をしてくださいました。たとえば、今多くの教会で子ども食堂の働きがされています。または、学生たちと一緒にゲームをするとか、いろんな働きがその集まりの中で幾つかの教会によって紹介されていました。芥見でもそういうことをしているわけですが、そういう居場所をつくるだけでは、まだ肝心な信仰ということへの招きにはなりにくいということを味わっているわけです。

 水曜の祈祷会の時に、そんな話をしていましたら、マレーネ先生がそこでこんなことを言われました。「居場所を作るということだけでは足りなくて、主があなたを必要としておられるという居場所を作らないといけないのではないか」と言うのです。私はこの意見に、本当にはっとさせられました。こういう意見は残念ながら総会の中では出てこなかったのですが、ここに本質的な答えがあるのではないかという気がしています。

 前置きがかなり長くなっているのですが、そこで今日の聖書の箇所を考えてみたいわけです。場面は、主イエスの祭司たちによる裁きと、ペテロの否認の出来事がここに書かれています。この直前のところで、弟子たちはみな逃げ去ってしまっています。木曜の祈祷会の時にある方が、弟子たちにも同情を示しまして、弟子だって剣をもって戦おうとしたわけで、それができなかったので、もうできる手立てがなく、立ち向かうことができないという状況の中では、逃げるしかなかったのではないかと言われました。選択肢がない中で、苦肉の選択であったのではないかというわけです。もちろん逃げ去ってしまった事実は変わらないわけですけれども、同情の余地はあるのではないかということです。そういう中で、ペテロだけはまた戻って来まして、裁判の行方を見守ろうとしているわけで、これだって考えてみれば勇敢な行為であったということもできるかもしれません。もっともそんな言い訳が十字架にかけられる主の前で申し開きできないという事実には何ら変わりはないわけですが。

 そういう中で、この後のペテロの3度にわたって、主イエスのことを知らない、この言葉が嘘なら呪われてもいいという否定の言葉が出てくるわけです。ここのところ、毎週のように、弟子の至らなさということが語られ続けているわけです。そこで、立ち止まって最初に話したような視点で考えてみるわけですが、主イエスの弟子たちというのは、まだよくわかってもいない中で、主イエスに招かれて弟子として従って行きます。そうであるとすると、先ほどのマレーネ先生の話に繋がるわけですが、失敗したとしても、主イエスのお働きのために必要とされて、そのための居場所が与えられて、訓練されているのだという姿が見えてくるわけです。

 なんとなく、教会では洗礼を受けていないと奉仕させてはいけないというような感覚があるのですが、ひょっとするとこういうところから変わっていく必要があるのではないかということを、ここから考えさせられるわけです。必要とされていないところで、人は本当の居場所を作ることはできません。これは、若い人だけのことではなくて、お互いみなそうです。主は、私たちすべての人を必要としておられて、こうして御前に招いてくださっています。失敗もする。足りないところもある。けれども、それでも、自分に与えられていることを、精いっぱいやっていくということの中に、教会の生きた姿があるということなのではないでしょうか。誰かが、料理を作って持ってきてくれるのを待っているのではなくて、みなが、お互いに自分を材料として差し出しながら用いられていくということが、私たちには求められているのです。 (続きを読む…)

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