2019 年 7 月 7 日

・説教 マルコの福音書15章21-32節「三本の十字架」

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2019.07.07

鴨下 直樹

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 今日、私たちに与えられている聖書のみ言葉は、主イエスが十字架にかけられるところです。マルコの福音書は、この出来事をできるかぎり淡々と、事柄だけを列記するような仕方で書き記しました。一節ずつ、それぞれ異なる情報を淡々と読む私たちに伝えています。人が、一人十字架につけて殺される。しかも、キリストとしてこの世界に来られたお方の死を描くのに、ドラマ性をほとんど無視して書いていくわけです。そして、だからこそ、この時の出来事が、いっそう真実味を帯びて読む私たちに迫ってくるわけです。

 ローマの著述家のキケロは十字架刑について「最も残酷にして、最も恐るべき刑罰」と言っています。そして、「決してそれをローマ市民の身体に近づけてはならない。決してローマ市民の思い、眼、耳に近づけてはならない」とさえ言っています。見ること、耳にすること、考えるだけでも恐ろしいというほどに、十字架の刑罰は人を躓かせるに十分な残忍な方法であったことがよくわかる記述です。十字架刑というのは、それほど残酷で、最も恐るべき刑罰なのだと言うのです。

 そして、ここにはたまたま通りかかったために、その十字架を主イエスに代わって背負わされることになったクレネ人のシモンのことが記されています。ところが、興味深いのは、このシモンは「アレクサンドロとルフォスの父で」と紹介されています。この二人の名前は、初代の教会の人たちには知られていた名前であったようです。この時に十字架を背負わされたシモンは、その時はひどく腹を立てたでしょう。不当なことをされたと感じ、不名誉なことを命じられたわけですが、結果、やがて主イエスを信じるようになったのでしょう。つまり、その子どもたちは教会の中でよく知られる人物になっていたというのです。

 シモンはまるで自分がその十字架に磔にされるような気持ちをそこで味わいました。もちろん、シモンは十字架にかけられることはありませんでしたが、十字架に磔にされるという意味は、おそらく他の誰よりも明確に感じたに違いないのです。

 もしかすると、当時の読者はこの書き方で自然に、シモンの気持ちになってこの十字架の出来事を読んだのかもしれません。それほど主イエスに興味があったわけではない。むしろ、なかば無理やりに十字架を背負わされて、自分はいったいどんなことをした人の十字架を背負わされることになったのか、そんな少しばかりの興味を抱きながら、これから起こるであろう十字架の出来事を、どこか他人事のような思いで眺めようとしたのかもしれません。

 この時、主イエスをかけた十字架の上には「ユダヤ人の王」という罪状書きが書き記されました。そして、二人の強盗と一緒に十字架にかけられたと書いてあるのです。

 「ユダヤ人の王」。クレネ人のシモンにはさほど意味を持たない言葉です。けれども、ユダヤ人にとってはどうだったか。きっと自分たちが馬鹿にされているような、そんな思いになったかもしれない。そんな想像が頭をよぎったかもしれません。そして、シモンの背負った十字架には「ユダヤ人の王」と掲げられた男が磔にされ、その右と左には「強盗」が磔にされた。起こった出来事としてはそれだけのことです。それが、どれほどの意味があるというのでしょう。

 この礼拝堂の前の聖餐卓の上にいつも小さな三本の十字架のブロンズの置物が置かれています。これは、古知野教会の長老で鉄のクラフト作品を作っておられる加藤さんの作品です。その教会の牧師をしていた時に、加藤長老の家で毎月家庭集会が行われていました。いつも玄関の下駄箱の上に飾られていたこの三本の十字架の作品が、私はとても気に入っていて、行くたびに褒めていたのです。そうしたら、ある時にこの作品をくださったのです。 (続きを読む…)

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