2011 年 7 月 10 日

説教:マタイの福音書13章24-43節 「よいものと悪いものとの中で」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 21:55

2011.7.10

鴨下直樹

マタイの福音書の第十三章にはいくつもの主イエスがなさったたとえ話があります。有名なたとえ話と、あまり知られていないたとえ話があります。有名な、というのは少し正しくないかもしれません。よく耳にするたとえ話というのがあるのです。それは、なぜかと言うと、ほかの福音書にも同じたとえ話がでてくるからです。けれども、今朝、私たちに与えられているこのたとえ話は、主イエスがなさったたとえ話の中でも、マタイの福音書にしか記していません。ですから、それほど良く知られているたとえではないと言えるかもしれませんけれども、だからと言ってそれが大事の話ではないということにはならいのです。そのたとえ話が二十四節から三十節までに記されている、一般に「毒麦のたとえ」と言われているたとえ話です。

この芥見キリスト教会の周りには田んぼや畑がたくさんあります。今からちょうど二週間くらい前だったでしょうか、麦の収穫が終わったばかりです。今、収穫が終わった麦畑は何も植えられていない状態です。私はこの毒麦のたとえ話を教会でするということもあって、麦畑を注意深く見ていたのですが、畑が奇麗な小麦色をしていることが刈り入れ時なのかと思いましたら、そうではありませんで、ずいぶん麦が黒くなるまで収穫をしませんでした。たまたま今年がそうだったのかもしれませんし、いつもそうしているのかもしれません。詳しい方に教えていただいたいくらいです。

なぜ、そんなことを考えながら麦畑を見ていたかといいますと、ここで主イエスがなさったたとえ話の中に「毒麦」というのが出てきます。麦畑からある日突然、毒麦が現れたのです。この毒麦を解説しているものを読みますと、ある本に、毒麦というのはそれほど猛毒のあるものではないようです、ただ、毒性のある菌が付きやすいのだそうです。そして、形は小麦とほとんどかわらないけれども、実った実が黒っぽくなるという説明を見つけました。小麦色の麦と、黒くなった毒麦であれば見わけがすぐにつくようになるなだというわけです。そうしたら、この近くの畑では収穫する時に、黒くなるまで待っているのを見て、これではどうすることもできないのかな、などと考えたのです。もちろん、これは素人考えというものなのでしょう。主イエスはこのたえと話の最後に、最後までまてば見分けられると語っておられるわけです。

そしてもちろん、日本の麦と、イスラエルのこの地域の麦は違っているかもしれませんし、ほかの本の説明では、それほど似ているというよりも、毒麦を抜いてしまうと、麦のほうは根が弱いために、毒麦を引き抜くと麦の方が抜けてしまうという説明がありました。そうであったのかもしれません。

主イエスというお方はさまざまな働きをなさっただけではなく、実に豊かなお話をなさいました。イメージ豊かな言葉でお語りになったのです。イメージの伴う言葉というのは、人の記憶に残ります。そして、そういう話の中で、ドキッとすることをお話になったのです。

畑に種がまかれて、豊かな収穫をえることができるというのは、この前のところで語られた話でした。ところが、ここでは、豊かな畑に種が蒔かれても、それでもう安心して待っているわけにはいかない。その畑に毒麦が蒔かれることがあるのだとお話になったのです。もちろん、聞き手はびっくりして、主イエスが何をお話になろうとしているのか注意深く聞いたことでしょう。

主イエスはここで「敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った」と言われました。主イエスは豊かに育つはずの土地に、毒麦が蒔かれたと言われたのです。このたとえ話は、マタイ独特のものです。そして、マタイはこの毒麦の話を、色々な土地に落ちた種のたとえ話の後に、この話を持って来たのです。ここが、この福音書を記したマタイの面白いところです。豊かな実を結ぶことができると聞かされて喜んでいた弟子たちに、けれども、話はそんなに簡単なことではないのだと、さらにこの話をなさったのです。ですから、この毒麦のたとえ話は、主イエスの弟子たちに、さらに言えば、今日の教会の中で聞かれるべきたとえ話として大きな意味を持つ話であることがよくおわかりになると思います。

洗礼入会式や、あるいは他の教会から転入会を希望される方の場合もそうですけれども、その前に学びの時を持ちます。そこでいつも最後に私たち同盟福音キリスト教会の教会憲法と教会規約の学びをいたします。同盟福音という教会はどのように教会の制度をもうけているか。他の教会や教派の教会で洗礼を受けた方にも、同盟福音という教会について知っていただく必要があるのです。そして、その中に戒規という項目があります。そうしますと、時折びっくりされる方がありますけれども、教会でもそういうものがあるのですかと問われることがあります。戒規というのは、何か間違いを犯した人は罰則を受けるというのが一般的なイメージであるからかもしれません。しかし、その学びをする時に、私がいつも必ずお話するのは、教会戒規というのは、人を罪に定めるために行なうのではなくて、人が罪を告白して、赦されるためにあるのだという説明をいたします。教会は、赦しの場所であるからです。人を断罪して裁くところではないのです。ところが、このことはなかなか理解されないことが多いのです。

主イエスがここでこの例えを話された意図は明らかです。まさに、教会にそのような問題が起こることを知っておられたかのようです。このたとえは、教会に起こりうる二つの面からよく考えてみる必要があります。その一つは、教会の中で間違ったことを見つけた時に、それを正そうとする中に見られます。それは、しかし、少し丁寧に語る必要があります。教会というのは、長い歴史の中で、さまざまな会議を開いてきました。そうやって、聖書とはなにか、教会とは何か、神とはどういうお方か、キリストとはどういうお方かというような事柄の理解を共通のものとして来たのです。そうして、間違った教えから教会を守ってきたのです。たとえば、パウロの手紙を読んでみてもそれは明らかです。教会というのは常に間違った教えと戦い続けているのです。

しかしながら、教会という場所は人々との愛の交わりを形作るところでもありました。ですから、教会という言葉は、建物や組織のことを意味する言葉ではなくて、人々の集まりのことを意味する言葉が使われてきたのです。

教会には色々な人々が集まります。もう信仰の歩みを長くしている者もいれば、短い者もいます。聖書を深く理解することができる人もいれば、そうなりたいと志している人たちがいます。色々な国で信仰を持ったひとが来ることもあれば、異なった教派の教会で信仰について教えられた人もいるのです。そういった信仰の面だけでなくても、さまざまな異なった考え方を持つ人たちが集まるのが教会です。そして、そのようなあらゆる人々が一つに集まって教会という群れをつくり続けてきたのです。

そこで、強い意見の人が出て来て、この考え方はこうあるべきだという主張をする人が現れれば、異なる意見を持つ人が現れます。その対立がひどくなりますと、そこで、この人の考え方は聖書的ではないのではないかとか、間違った信仰の理解をしているのではないかというような疑念が生じることが起こるのです。

その時に、私たちが覚えていなければならないのは、そういった異なるものがその中に芽生えて来た時にどうするかということについて、主イエスはここで、急いで毒麦を抜かなければならない、などと考えなくてもよいのだと教えられたことを、知っていなければならないのです。

といいますのは、いつの時代もそうですけれども、教会の中に起こる問題として教会の潔癖症ということがあります。小さな過ちや間違いをゆるすことができないということが起こってしまうのです。そして、特に自分の考えが正しい、正統である、正義であると考える時に、そういうことが起こります。

もちろん、教会の中だけではない、家庭でも、職場でも、人の過ちを指摘するということはあるでしょう。しかしながら教会にかぎってはそういうことはあってはならないのではないかという考えが出てきやすいのです。なぜなら教会というところは、“神の真実が行われるところ”と、考えているからです。

それで、もう一つの面を考えてみる必要があります。自分が正しいという側にいる場合はそれでいいのかもしれないのですが、自分が間違っているかもしれないという思いを抱きながら教会生活を続けるということもあります。たとえば、その一つは教会学校の教師です。今、私たちは子供礼拝をしておりまして、この説教の時に、別の部屋で教師たちは毎週御言葉を語ります。あるいは、そのためのスタッフをしてくれている方々も子供の前に立つことになります。そうすると、自分がここで正しく御言葉を語ることができるのかというような不安に悩まされることが起こる。

何となく、続けてやっているうちに、誰も何も言わないからこんなものでいいのかなぁなどと思うようになるようですけれども、教師になりたてのころは特に不安です。間違ったことを教えてしまったらどうしようかと思う思いが自分の心の中にある。そういう時に、今日の聖書の個所を読んだら、どう考えるでしょうか。どうも、自分が話していることは毒麦を蒔くようなことになっているのではないか。そんなことが気になると、もううかうか今度子供の説教をしますなどと言えないくらいの、恐怖感が襲ってくるかもしれません。あるいは、自分がちょっと口を滑らせた言葉で、子どもの誰かが躓いたらどうしようかなどということを考えるかもしれません。

そのように、教師が悩んだり、心配しながらできるだけ誠実に御言葉を語ろうと努めることは素晴らしいことですし、そのような思いになることを覚えて、教会がそのために覚えて教師たちのために祈りをし、また、そのために必要な教育を続けていくということも大事なことです。

けれども、そこで、自分が毒麦を蒔いてしまっていると不安であるからもう子供の前に立てないと考えてしまうようなことが起こるときに、あるいは、この教師はまだ正しく御言葉を語ることができないから、その人を辞めさせるべきであると考えることは正しいことなのかどうかということがここで問われているのです。もちろん、教会学校の教師というのは一つの、それこそ“たとえ”です。けれども、教会というところはそういうことが色々な場所で起こりうるのです。

主イエスのこのたとえは、このどちらの側にもこのたとえ話で答えていてくださるのです。正義を主張する者も、自分に自信のない者の場合にも、主イエスはここで語っておられるのです。

二十八節から読みます。「しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

主イエスがここで答えておられるのは、それはわたしの仕事だから、あなたがた判断することではないと答えられたのです。何という頼もしい言葉でしょうか。私たちが目くじらを立てて、あれは間違っているとか、これは良くないとか語って、私たちが神のように人を裁いてしまうことがないように注意を促しながらも、そこまで私たちが心配しなくても良いのだと主は言ってくださったのです。まして、自分は毒麦なのではないかなどと、自信をなくして何もできなくなってしまうのは、主が求めておられることではありません。主は、教会に一人一人を召し出してくださいました。主イエスが呼び集められたのです。そして、そのような一人一人の違いを受け入れあいながら、共にキリストの教会を築き上げていくことを私たちに教えようとしておられるのです。

主イエスはここでつづく三十一節と三十二節でも短いたとえを話されました。「天の御国はからし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どんな野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣をつくるほどになります。」

また三十三節のパン種のたとえをなさいました。「天の御国はパン種のようなものです。女がパン種を取って、三サトンの粉に入れると、全体がふくらんで来ます。」

この二つのたとえは、それほど難しいものではありません。主イエスがこの地に築き上げようとしている天の御国、そのまま教会と言ってもいいような言葉ですけれども、小さなものだけれども、その持てる力は計り知れないと言われたのです。

神の言葉が私たちのところに蒔かれると、それははかりしれない大きな意味を持っているのだと主イエスは、もう一度念を押すようにここでお語りになられたのです。

この後の毒麦のたとえの説明のところでも主イエスが語っていて下さいますけれども、教会の中に間違ったものが蒔かれることもある。“悪い者の子”“悪魔”と主イエスがはっきり語られるほどに、明確に主イエスの働きに抵抗する働きが起こるのです。教会だからそういうものは入り込まない、神様が働いていてくださるのだから、などと言うのではなくて、教会であるがゆえに、実にさまざまなものが、その中に入り込んでくるのです。けれども、主イエスが最終的にそれらのものを滅ぼされるのであって、それは私たちの役割ではありません。ここで主が語られている最後の言葉が四十三節にあります。

「そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽にように輝きます。耳のある者はききなさい。」と言われました。

主イエスは私たちがその天の御国で太陽にように輝いていることができるように招いてくださったのです。私たちのように人を裁いてしまったり、自分に自信がもてなくなるような者に対して、あなたがたは太陽のように天の御国で輝いているのだと語りかけてくださるのです。そこには神の力に満ちているのです。

からし種というのは、あんぱんの上にのっているあの芥子の種ほど大きさですけれども、何メートルもの大きく育つと言います。パン種のたとえで言われているのも、百人は食べることのできるほどの量の粉の量にはいっているのはパン種です。それがなければふくらまないのです。しかも、三十八節によれば、この良い種というのは「御国の子どもたち」のことだと言われているのです。福音を受け入れた私たちのことだと言われているのです。

自分の中にそれほどの生き生きしたものが込められていると考えることができないかもいれませんけれども、主イエスは、まさに、私たちをそのような者としていてくださるのです。そして、太陽のように輝く存在としてくださるのです。

ですから、自分を小さく評価してしまったり、この神に信頼できないで、自分たちの力で正義を守って貫きとおして行くのだと歩むのではなくて、このお方に信頼して歩むことが私たちに求められているのです。

弱い者でも、力のない者も、主イエスはそのようなものも、天国の良い種としてくださっているのです。そうして、私たちはお互いに支えあい、受け入れあい、赦しあって、このキリストの教会を築き上げていくのです。

お祈りをいたします。

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