2011 年 6 月 12 日

説教:マタイの福音書12章38-45節 「届く言葉を与えられ」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 21:40

2011.6.12

鴨下直樹

今朝、私たちはペンテコステの主の日の礼拝を覚えて祝っています。ペンテコステと言うのは、神の霊が、弟子たちの上に与えられて新しい存在へとされたことを覚えて祝う日です。私たちが真の人間として回復される、本当の自分を取り戻すことができることを覚えて祝う日です。ですから、この朝私たちは、この希望を覚えて祝っているのです。

今、私たちはマタイの福音書の十二章を学んでいます。この十二章の大部分の割合をしめていますのは主イエスとパリサイ人たちとの論争です。論争というくらいですから戦いです。勝ち負けがつくのです。もちろんそのように挑んで来ているのはパリサイ人たちです。けれども、そのきっかけは、当時のユダヤ人たちが働いてはならないとしてきた安息日に、主イエスの弟子たちが麦を摘んで食べたことからはじまっています。そして、その後で、まるでこのパリサイ人たちに挑むかのように会堂で癒しの業をなさったのは、主イエスの方からでした。ところがこの癒しを見て、パリサイ人たちは、これは悪魔の頭が悪霊をお追い出しているだけのことと、調子に乗ってその種明かしをしたのです。それに対して主イエスはそんなことは論理的にも起こり得ないことだし、また、その罪は赦されない罪だと言われたのでした。

ですから、ここでは主イエスとパリサイ人たちとの非常に激しいやり取りが描き出されています。まさに、真剣な信仰の戦いの姿です。なぜこれほどに主イエスが戦っておられるのかと言うと、人々が本当の人間のあるべき姿を失ってしまっているからです。神のかたちが失われてしまった人間の姿をご覧になりながら、主イエスはこの十二章の中で、何度もわたしこそが、そのようなあなた方に救いを与える真のメシヤなのだ、救い主なのだということを明らかにしてくださっているのです。人々に、自分のところに真の救いがあるのだ、本当の人間としての姿を回復する道は私のところにあるのだと宣言なさっているのです。わたしこそが、あなたがたが失ってしまっている本当の人間性、つまり、神の霊を再びあたえることのできる存在でることを伝えようとしてくださっておられるのです。ですから、この朝の聖書個所は、ペンテコステに聞くのにふさわしい個所だということができると思います。

しかし、この主イエスとの論争の中で一方的に悪者にされてしまっているパリサイ人たちからしてみれば、ここまでずっと主イエスにやっつけられっぱなしで、面白くはないのです。ここらで一つ反撃を言わんばかりに切り返したのが、今朝の最初の御言葉である三十八節の言葉です。

「先生。わたしたちはあなたからしるしを見せていただきたいのです」という言葉です。

病人が治ったというくらいでメシヤなどと言ってもらっても私たちは納得しません。そんなに偉そうなことを言うのだったら、もっと目に見えて分かる証拠を提示してほしいというわけです。まさに、これならどうか?とでも言わんばかりの反撃に打って出たのです。

何も、本当に主イエスを先生と考えていたわけではないのです。インギンに、そうやって煽てておいて、後に引けなくしようという作戦でさえあるのです。

「証拠を見せてほしい」という言葉はいつの時代でも、相手を図るためには格好の言葉であったということが、ここでも良く分かるかもしれません。私たちでも、相手の言葉を信じるに値するかどうかを見極めるために、ならば何か証拠をと言うのと同じことです。銀行でお金を借りる時にも、返す証拠を見せなさいと言うことで、担保を取ったり、保証人などという人のサインを求めるのも同じです。

言葉だけでは分からないというのです。言葉だけでは信じるに値しないから、証拠を、しるしを見せて欲しいと言うのです。

私は今、「いつの時代でも」と言いました。いつの時代でも人々は証拠を求めていると。それは、今に限ったことではないのです。この主イエスの時代からそうだったのです。そして、興味深いことに、このマタイの福音書の十二章の中にはこの「時代」という言葉が何度も使われています。

三十九節には「悪い、姦淫の時代」とありますし、四十二節でにも「今の時代の人々」とあります、また、四十五節にも「邪悪なこの時代」とも言われています。聖書の中に時代と言う言葉が何度も出てくるということはありませんから、非常に珍しい言葉です。しかも、この当時がすでに「悪い時代」であり「邪悪な時代」であったと言われているのです。

この2011年という現代のことではないのです。私たちは時代という言葉を使う時によく、昔のことを思い起こしながら使います。ですから、そういう私たちからしてみれば、「今は悪い時代」だと言う言葉が二千年も前にから、もうすでそうであったということは少し理解しにくいことであるかもしれません。

この三十九節の「悪い時代」という言葉と、四十五節の「邪悪な時代」という言葉は同じ言葉です。主イエスがここで時代が悪いと言っているのです。どういうことなのでしょうか。しかも、この最初に出てくる「悪い時代」という言葉、「邪悪な時代」と同じ言葉にはさらに「姦淫の時代」という言葉まで付け足されているのです。この「姦淫の」と訳されている言葉ですけれども「不義」と訳されることも多い言葉ですが、新改訳はこの言葉を「姦淫」と訳しました。少し勇気のいる翻訳であったと思います。この言葉は「夫を裏切る不実な妻」というのがもと元の言葉です。夫があるのに他のものに心を奪われてしまっている人間の姿が、この時代の悪さだと言い表したのです。

私たちが日常「時代」という言葉を使う時、「今は悪い時代になって」と言う時に、家族問題のこと、環境のこと、社会問題のこと、政治のこと、色々なことを考えながら、今は悪い時代になったと言います。けれども、その時、私たちはどこかで、「今の時代」というなにかがあるかのように考えて話します。それは、まるで自分は含まれていないかのように、「時代」というものを表現します。けれども、この聖書の「時代」と言う言葉は、「私たちの生活のこと」を表す言葉です。私たちの生活が、心定まらないで、あっちにふらふら、こっちにふらふらと落ち着きを失ってしまっていると、主イエスは人々の姿を見ながら、その生活ぶりを言い表したのです。

ですから、ここで主イエスが語られている時代というのは、そこに生きている人々の生活そのものを表す言葉でした。どこか自分だけ違うところにいながら、あの人たちはひどいよねぇと、人ごとのよう語ることはできない、まさに、今そのものの人の姿を表現したのです。

そして、それは二千年たった今の私たちにとっても、まったく同じことがいえるのだろうと思います。「イエスは答えて言われた。『悪い姦淫の時代はしるしをもとめています。』」と三十九節にあります。心がさだまらず、間違ったことでも平気でできる人たちであるがゆえに、人の言葉を信じることができないから、証拠を、証拠を言うのだと主イエスは言われたのです。

そこにある人の姿と言うのは、相手の言葉が信じられなくなっている悲しい人々の生活ぶりのことを、主イエスは見ておられるのです。言葉が通じない。「信じて」と言っても、「信じられない」と言う言葉が返ってきてしまう悲しい人々の生き方を、悪い時代だと嘆いておられるのです。自分は妻を裏切るようなことをしていながら、人にはしるしを見せろと言う、これを悪い時代と言わずして、何を悪い時代と言うのかという主イエスの厳しい現代論です。

そういう悪い、邪悪とも呼べる時代の中にあって、言葉が信じられない、言葉が届かない人との関係の中にあって、では主イエスはどうなさるのか、そのような人の心に、もう一度信じてみようという思いを起こさせる方法はあるのでしょうか。それが、この後、続いて答えられた主イエスの言葉の中に語られています。

「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」三十九節。

先日、私たちの教団である同盟福音キリスト教会が年に四回発行していますエクレシアという機関誌が出されました。みなさん楽しみにしているようで、多くの方々が読んでいてくださいます。その中に、去年の夏、九州の阿蘇でおこなわれた青年の長期キャンプの記事がありました。私とマレーネ先生が青年たちを連れて行ったのですけれども、どういうわけかその記事を書いた私の名前が妻の名前に代わってしまっていました。その記事にも書きましたけれども本当に大変な思いをしまして、まず宿泊するペンションの大掃除をするということからキャンプがはじまったのです。キャンプのテーマは「主に仕えて生きる」というものでしたが、阿蘇に着いたその瞬間から文字通り仕えることを実行しなければならないキャンプになりました。

この昨年の熊本で行われた青年会の長期キャンプでヨナ書の話をいたしました。ヨナ書というのは四章の短い物語です。この話はイスラエルの預言者ヨナが異邦人であるニネベの人に悔い改めるようにと主に命じられるとうところから始まります。ニネベというのは、その時代イスラエルの人々を長い間を虐げてきたアッシリア帝国の首都の置かれていた町です。ですから、ヨナとしてはこの人々が神に裁かれることは喜んでも、悔い改めるなどということを考えることができませんでしたし、悔い改めれば、神がその町への裁きを思いとどまるのではないか、そうすればイスラエルのためにならないではないかとヨナは考えます。ですから、ヨナはニネベに行かないで、反対方向の船であったタルシシュ行きの船に乗り込みます。ここでこのヨナの物語を丁寧に説明することはできませんけれども、この時、ヨナは海の中に投げ出されます。そして、まさに死を覚悟したときに、大きな魚がヨナを飲み込みます。神が使わした大きな魚がヨナを救ったのです。

このキャンプの時のテーマは「主に仕えて生きる」というものだと言いました。しかし、この預言者ヨナは主に仕えるはずの立場であったのに、そのことを拒んだのです。そしてこの時に海に投げ入れられ時に、大きな魚の中に三日三晩飲み込まれていたことによって主の救いを経験し、そこで悔い改めて、主に仕える自分を取り戻すのです。

ここで、主イエスは「ヨナのしるし」と言われて続く四十節で「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に人の子も三日三晩、地の中にいるからです」と言われました。

ヨナはまさに海の中に放り出されたときに死んだのですけれども、神はそのヨナをよみがえらせ、新しい存在として、ニネベで伝道する者へとつくりかえられたのでした。

ここで、主イエスが言われた「ヨナのしるし」とは何でしょう、それは「死と復活」です。「新しい創造」です。新しい存在になることによってしか、この悪い時代にあっては言葉が届くようにはならないのだと主イエスは言われたのです。

イスラエルに敵対していたあのニネベの人々はそのヨナの言葉を聞いて悔い改めました。新しくされた者となって生きたのです。だから、異邦人であろうとも、その悔い改めた人々、ニネベの人々が、この今の時代の人々を、言葉が届かなくなっている人々を、裁くことになるのだと、主イエスは続いて言われたのでした。

四十二節から主イエスは続いて南の女王の話をしました。この南の女王というのは「シバの女王」、新改訳の言葉では「シェバの女王」として知られる人物です。第一列王記の十章に出てまいります。この人は当時、世界の果てと考えられていた土地からイスラエルの当時の王ソロモンの知恵を聞いて、ソロモンの知恵がどれほどかを試すために難しい質問を携えてやってきました。けれども、そこでソロモンの知恵の素晴らしさを知って、イスラエルの神をあがめたのです。

主イエスはここでもその話をなさりながら、異邦人のシェバの女王であっても神の御前に謙る思いがあったことを語りながら、主イエスの前に自らの知恵深さを誇り、聞く耳を持たない傲慢さをここと指摘しておられるのです。

主イエスはここで、何故言葉が届かないのかというと、それは、その人の中にある傲慢さであることを指摘しておられます。相手を見下してしまっているのです。自分の知恵の方が優れていると思っているのです。そして、それは神の御前にでても、変わらない態度でいる姿こそが、問題なのだと語っておられるのです。

四十三節以下で主イエスは少し別の視点から語り口を変えておられます。「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を探しますが、見つかりません。そこで『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで出て行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。」と言われました。

これは、少し話が変わっているようですけれども、それほど複雑な話ではありません。ここで主イエスは、自分は汚れたところのない清い人間だと思っている人のところに醜いものがたくさん住みつくのだと言っておられるのです。これは、どういうことかと言いますと、パリサイ人たちもそうです、あるいは現代の人も、(現代の、ということは、私たちの生活がという意味ですけれども、)私たちはこういう物語を聞くときに、どこかで自分のことを棚に上げて行くことが日常化してしまっています。自分は正しい人間、清い人間だと思ってしまう。

私たちはどうもマンガのように、善い者と悪い者という役柄をイメージして、自分はどちらかと言うと善い者、善玉の部類に入るのではないかと考えます。自分はそれほど悪いことをしていないからだと考えるからです。けれども、人と会話をするときに、やはり私たちはそんなに単純に人の話を信じることはできません。どこで証拠を見せてほしいと思いながら、相手を信用しないところがあるのです。そんなこと言ってしまうと、誰ひとり善玉なんかいないじゃないかということになります。

そして、主イエスがここで気付かせようとしておられるのは、まさにそこにあるのです。私たち、今の時代、現代に生きている私たちは言葉が通じなくなってしまった世界に生きているのです。お互いに油断ならないと、どこかで思っているのです。だからと言って、自分は大丈夫だなどとは言えないのです。自分で自分はきれいにしているから、大丈夫だなどとタカをくくっていると、もっとひどいことになってしまうのです。

では、どうしたらいいのか、それが、主イエスによってここで語られているのです。それは、ヨナにまさった方、ソロモンにまさっておられるお方である主イエスによって新しく生きる者とされることです。このお方によってニネベの人々がそうであったように、自分が間違ったことをしてしまう人間であることを認めることです。そして、シェバの女王のように、主イエスご自身を認めることです。このお方が私を新しくすることのおできになるお方であると。そこにしか、この時代を正しく生き抜く道はないのです。

今日私たちはペンテコステの主の日を祝っています。神の霊が人々の上に与えられたことを覚えて祝う日です。神の霊は、私たちを新しくする霊です。私たちを新しい存在としてくださるのは、この主イエスによって新しい存在に変えてくださるこの神の霊を受け取ることから始まるのです。神は、私たちを新しくすることのできるお方であることを、この朝、私たちは覚えてこの日を祝っているのです。この主の霊が私たちに与えられる。そのことを期待しながら、主によって新しい言葉が与えられ、人との言葉もやがて本当に届くようにされるのです。

お祈りをいたします。

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