2013 年 4 月 14 日

・説教 詩篇33篇 「主の慈しみに満ちる世界」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:41

2013.4.14

鴨下 直樹

主の復活をお祝いする第三週目を迎えました。私たちの教会では前に七本の燭台を並べて、一つずつともし火を灯しております。今朝は三つのともし火がついております。この復活節の第三主日をラテン語で「ミゼリコルディアス・ドミニ」と言います。今朝の詩篇の三十三篇の五節の言葉からとられています。五節にはこのように記されています。

主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている。

このラテン語の「ミゼリコルディアス」という言葉は「慈しみ」と訳される言葉です。それで、この日曜は「主の慈しみ」という名前の日曜日として、主の復活の第三週目につけられました。ところが、この「慈しみ」という言葉が新改訳聖書にはありません。新改訳聖書では「恵み」と訳されているからです。新共同訳聖書をお読みしますと、このようになっています。「主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみで満ちている」。
この「恵み」と訳された言葉が「慈しみ」と訳されていたことに気づかれたと思います。初めからこのような説明の言葉で始めるのはあまり良くないと思いますけれども、この言葉が「恵み」とも「慈しみ」とも訳すことのできる言葉であるということがお分かりいただけるのではないかと思います。この言葉の元の言葉はへブル語で「ヘセド」と言います。これは旧約聖書の中に頻繁に使われている言葉で、やはり新改訳聖書では「恵み」と訳すことが多く、新共同訳では「慈しみ」と訳されることの多い言葉です。

実は、いつもですと礼拝の説教は講解説教と言いまして、ひとつの書物を順に学ぶ説教の方法をとっていますけれども、今年のイースターは教会暦で読むことになっている聖書を順に学んでみたいと考えています。その大事な理由は、私たちの礼拝でいつも教会の暦が掲げられておりますけれども、何の為であるか良く分からないという方があると思います。それで、完全に教会の暦に従って礼拝をすることは致しませんけれども、教会の暦というものが何を大事にしてきたのか。特に復活節にそのことが明確に分かると思いますので、この復活節に教会暦ではどの聖書を読むような伝統があったのかということを知ることはとても良いことではないかと考えたからです。
それともう一つの理由は、実に、今日の箇所を説教したいと思ったからです。教会暦で「主の慈しみ」という名前の主の日がある。このヘブル語である「ヘセド」という大切な言葉について、どうしても一度ちゃんと説教をしたいと思ったのです。もちろん、自分の子どもの名前をこの「慈しみ」という文字から「慈乃」と付けたこととも関係しますけれども、やはり、この聖書の大切な言葉についてぜひ知っていただきたいと考えたからです。

この慈しみとか恵みと訳されているヘセドという言葉には特別な神さまの心が込められているといってもいい言葉です。カトリックの聖書学者で雨宮慧という方がずいぶん前になりますけれども『旧約聖書の心』という本を書かれました。これはとても素晴らしい本で、まさに旧約聖書の心をつかむには実に有意義な本です。特に、聖書の言語にとても精通しておられる方ですので、聖書の言葉の背景にあるものをかなり丁寧に説明してくれるのです。
この『旧約聖書の心』という本のなかにこのヘセドの意味を記している項目があります。そこで紹介されている聖書はホセア書という小預言書です。
このホセア書というのは、少し変わった出来事が記されています。このホセアには神さまの命令でゴメルという姦淫の女を妻に迎えます。ところが、このゴメルはホセアの子どもを次々に産むのですが、夫を愛することなく、離れていっては姦淫の罪を犯すのです。それに対して、神さまはホセアに語りかけます。その夫に愛されていながら姦淫の罪を犯す妻を愛せよと命令されるのです。なぜかというと、そのような苦しみを経験しているのはホセアだけではない。私も、イスラエルの民に何度も裏切られても、この民を愛し続けているのだと語りかけるのです。そこでこう語ります。

エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。

とホセア書の六章の四節で主が語ります。エフライムもユダも神の民、イスラエルのことです。この新改訳で「あなたがたの誠実は朝もやのよう」と訳されている言葉、これは、新共同訳聖書では「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」となっています。ここで、誠実とか愛と訳されている言葉が、「ヘセド」という言葉なのです。
そこで、雨宮先生はこういうふうにこの言葉を説明しておられる。「ヘセドは、親と子、友人同士など、人と人を結ぶきずなのことである」と説明しているのです。
人間と人間のきずなを表す言葉がヘセドだというわけです。この「絆」という言葉を私たちはこの二年の間、よく耳にするようになりました。あの、東北で起こった大きな震災以降、人々は大切なのは人と人との絆だということを自分たちの言葉で言い表すようになったのです。でも、絆と一口に言っても、それが何を意味するのかはみんなまちまちのイメージを持っています。昨日も阪神で大きな地震がありました。震度6弱の大きな地震でした。それほど被害は大きくなかったようですけれども、阪神大震災というのも、私たちはその前に経験しています。そういう経験からお互いに助け合おうという意味で絆ということが語られるようになったことはとても意味深いことだと思います。
このヘセドという言葉は、雨宮先生の説明によるとさらに二つの側面があると言います。一つは両者を結ぶ愛で、もう一つはその愛に対する誠実さだと言うのです。聖書がヘセドという言葉を使う時には、そこに両者を結びつけている愛があるのだということをまず語ります。ですから、このホセア書のところを雨宮先生はまず取り上げるのです。ホセアと妻ゴメルの愛です。ホセアは誠実に妻を愛そうとします。しかし、妻はこの夫の愛に答えようとしない。ここで神さまが何をホセアに気づかせようとしておられるかと言うと、神と人を結ぶ絆のことを、聖書は「ヘセド」とまず呼んでいるのです。神は人を愛しておられるがゆえに、ヘセドを示してくださるのです。それは、愛とも言い表すことができるし、慈しみと言い表すこともできるのです。この神の人への絆とは何に結びついているかと言うと、神の約束です。そして、この神の愛に答えようとする時に、その人からの応答を、誠実と言うのです。この場合の誠実もヘセドです。だから、この言葉は誠実とも訳されるのです。

さて、少し説明が長くなってしまいましたが、この神のヘセドが私たちに示されたのは何であったかと言うと、それは、イエス・キリストによって示された十字架と復活です。これによって、神が私たちをどんなに深い絆で愛してくださっているか、私たちを見捨てないで、私たちと関わり続けようとしてくださっておられるかがよく分かるのです。
それで、イースターの第三の主の日にはこう読んだのです。「ミゼリコルディアス・ドミニ」。「主の慈しみの主の日」と。そして、この詩篇の第三十三篇の五節「地は主の慈しみで満ちている」というこの言葉を教会の礼拝で読むように定めたのです。
地震が起こるこの世界は神に見捨てられているのではない、こんなに悲しい事ばかりが起こるこの世界に、神に真実は行なわれないというのではない。この世界にはこれほどはっきりと、神の慈しみが示されているのだ。この世界には神の慈しみに満ちているのだと、復活をお祝いした人々に教会はそのように語り続けて来たのです。

問題は、私たちが気落ちしてしまう時に、この主の慈しみが分からなくなってしまうということです。それは悲しみが自分をすっかり支配してしまって、神を見出すことが出来なくなってしまう時です。
宗教改革者のルターは実によく悩んだ人でした。ベイントンという歴史学者がルターの代表的な伝記を記します。『我ここに立つ』という本ですけれども、その中にルターがこんなことを言っています。「気落ちする時の内容はいつも同じで、神は善であるし、神は私に対しても善であるという信仰の喪失であった」と。
神が良いお方、私に対しても神はその善をお示しくださるお方だということが信じられなくなるのだと言うのです。誰もが経験のあることでしょう。あの宗教改革者のルターも、ここで言う、神は慈しみ深い方であるということが信じられなくなったというのです。なぜこうなるのかと言うと、キリストを見失ってしまっているからだと言います。問題のほうばかりをみて、キリストを見上げることを忘れてしまうのです。
このルターの伝記の中で、神を見出すことができなくなることに対しての対処法をルターは二種類もっていたと書いています。一つは、直接悪魔と戦うということをしたのだそうです。その例としてこんなエピソードが書かれています。
私が寝床に行く時、悪魔はいつも私を待っている。悪魔が私をいじめ始めると、私はこう答えることにしている。「悪魔よ。私は眠らなければならない。昼間は働き、夜は眠れ、これが神の御命令だ。だから出ていけ」と言うのだそうです。
そして、主イエスとカナンの女の出来事で、主がこの女に「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われると、カナンの女は「主よ、そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と答えた話があります。ルターはこの話が大好きなんだそうですけれども、ここで主イエスはカナンの女に否定しておられる。私たちが悩んでいる時というのは、このイエスの否定の言葉、ノーという言葉だけを聴いている。けれども、このカナンの女は主イエスのノーという言葉の背後にイエス、いいよ、という言葉があることを聴きとっていた。私たちは、隠れたイエスという言葉と向かい合って、この堅い信仰で神のみことばにしがみつく必要があるのだと言っています。
もう一つ、間接的に戦う方法もある。それは、孤独にならないことだと言っているのです。悩んでしまう時に、一人でいるのは良くない。エバは一人で園を歩いている時にとんでもないことになったのだ。だから、人と一緒に食事をし、踊り、ふざけて、歌うことが大事なのであって、断食するなどは最悪の方法だというのです。そうすると、たとえば、自分の四歳の娘からだって正しい信仰に気づかされることもあるのだ。「なぜ、信じないの」と言われる。神さまは約束をまもってくださる方であることを単純に信じる。そのために、外からの援助は大事にしなければいけないのだと言っているのです。そして、特に、悪魔が責める時には「私は洗礼を受けている」と答えるたものだと言っているのです。
もう神の御業は行なわれているのだという、自分の外にある事実に目を向けることの中に、思い悩みから抜け出す道があるのだというのです。

教会の暦で、この朝、「地は、主の慈しみに満ちている」と言うのも、このことを私たちに教えているのです。私たちの世界に救いがないのではないのです。神が働いておられないのではないのです。もう神は働いてくださったのです。十字架にかかり、復活してくださったのです。そして、その事実を私たちは確認する必要がある。そのためにも、このようにして礼拝に集いながら、この主のみことばを共に聴くのです。自分一人で悩みから乗り越えるのではなく、教会の人々と共に主の言葉に支えられて、主の救いの事実に支えられて、主の慈しみの御業を知るのです。
他の誰でもない、神ご自身は私たちとの絆を大事にしてくださるのです。そして、そのことが伝わるように、愛してくださる、誠実に、真実に尽くしてくださるのです。それが、主の十字架と復活の御業なのです。

お祈りをいたします。

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