2013 年 9 月 29 日

・説教 ピリピ人への手紙4章2-7節 「いつも喜びなさい」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:10

2013.9.29

鴨下 直樹

先週は水曜日に芥見キリスト教会の特別講演会として柏木哲夫先生をお招きし、とても充実した一週間となりました。柏木先生は、講演の中でも最近ユーモアの大切さを感じていると言われておりましたが、送り迎えの車の中でもずっとさまざまなユーモアの話をしてくださいました。特に興味深かったのは、柏木先生がアメリカで学んでおられたころ、通っておられた教会の牧師は、説教の冒頭にその日の説教に導くためのユーモアから始めるんだそうで、この毎週のユーモアがとても面白かったと、いくつかの話をはなしてくださいました。

ある教会に、神学校を卒業したばかりの若い牧師夫婦が派遣されてきました。その牧師は一生懸命に説教を準備をしたんだそうです。あるとき、その奥さんが日曜になるとごそごそと自分の小さなクローゼットの引き出しをいじっているのに気づきました。でも、妻のプライバシーに関わる事だからと、気にはなったのですが、引き出しをあけないで我慢をしたんだそうです。ところが、一年ほどたっても、こそこそとクローゼットの引き出しに何かを隠しているような気がして、ついに妻のいない時にその引き出しを開けて中を見てしまいました。一番上の引き出しを開けてみると、玉子が三個入っています。その下の引き出しを開けてみると、ドル紙幣が何枚か入っていました。この若い牧師はどうしても気になって、勇気を出して妻に尋ねることにしました。「いつも日曜になると君はあのクローゼットの周りでこそこそしているので、悪いとは思ったんだけれども、引き出しを開けてしまったんだ。でも、一番上の引き出しをあけると、そこに玉子が三つ入っていたんだけれど、あれはなんだい。」と質問しました。妻が「見てしまったの」と言いながら、玉子の説明をしはじめました。「実は、あなたの礼拝説教を聞きながら、あまり良くないことを話した時には、あの引き出しに玉子を入れることにしていたの」と。それを聞いて、すこしほっとした彼は、さらに質問しました。「じゃあ、あの二段目の引き出しに入っているいくらかのドル紙幣はなんだい」と尋ねると、「あっ、あれね。あれは、玉子がたまると、それを売っていたのよ!」

こういう話をするのは、同じ牧師としては大変勇気がいります。私としても墓穴を掘りかねません。時折、みなさんが説教をノートに書いておられる方がありますけれども、ひょっとすると、今日の説教は何点と書いておられる方がないともかぎりません。

さて、なぜ私がこんな話から説教をはじめたのか、感の鋭い人ならすでに気づいておられるかもしれません。今日の聖書の箇所は、前半の二節から三節までの部分と、四説から七節までのところは少し内容が違っています。最初の部分は、ピリピの教会に来ていた非常に重要な二人の女性が、どうも仲たがいをしていたようです。名前まで書かれてしまっていまして、一人は「良い道」とか「良い香り」という意味のユウオデヤさんです。もう一人は「幸運」という意味のスントケさん。三節の後半を見ると、かつてこの二人は福音を広めるために協力して戦った人たちでした。ピリピという町は、ギリシャの都市でも有名なアルテミスの神殿のある町ですから、その中で共に戦ってきた人たちということは、教会にとっては中心的な人たちであったに違いないのです。ところが、どうも仲たがいをしてしまっているのです。そして、どうも見過ごしにすることのできないほどの問題になっていたようです。

注意をしてみなければならないのは、パウロはここでこの二人のどこが悪いとか、どちらが間違っているというようなことにはふれていません。これは大事なことだと思います。どっちが悪いということはできないけれども、お互いにどうも気にいらないらしいのです。おそらく、どちらもある熱心さから善意で何かを口にしたのでしょう。そして、これは、私たちの誰もが例外なくしてしまうことでもあります。

問題は、善意で注意をする、忠告をするのです。「こうすればいい」、「こうすることはあなたのためになると、私は思って言うんだけれども」、少しでも良くしたいという思いからの発言は、本人にしてみれば相手への配慮です。あるいは、そういうことで教会全体を良くしたいと思っている。けれども、言われたほうからしてみれば、自分を否定されているとしか考えることができません。これは、言われる側に自分がなったことを考えてみればすぐに分かることです。誰にも言わず、心の中に納めるためにクローゼットに一つ玉子を入れてそれで終わりにできるなら、よほどそのほうが建設的です。しかし、それも気づかれるまでの間のことなのかもしれないですけれども。今日の話は長過ぎた。説明が多すぎた。趣旨がつかめなかった。あの人に対して配慮がなかった。もっと面白い話を入れて欲しい。子どもでも分かる話にしてほしい。声のトーンが眠くなる。前に話した話をまた言ったなど、あげれば切りがありません。 もちろん、今あげているのは別に私のことというのではなくて、おそらく全国の牧師たちに向けられる声を集めると、そういったものが集まるのではないかと想像できます。そしてひとつ言えるのは、牧師は躓いて教会から来なくなることはないから、牧師になら言っても大丈夫だろうというのがその背景にはあるのかもしれません。

こういう話はできるだけ、誰かを連想させる話でないほうがいいと思いますので、少し自罰的な話をしましたけれども、ようするに、人のことを悪く言うことは簡単なのです。しかも、言っている本人は批評家気どりになりやすいのです。これは、いつも気をつけなければならないことです。自分の言いたいことに集中してしまうと、配慮を欠いてしまうのです。もちろん、教会の中だけの話ではありません。もし、私たちが気づかない間に、こういう会話をし続けているとしたら、結果はどうなるのかということにまで思いを働かせる必要があります。

先日の柏木先生の講演の後で、質疑の時間を持ちました。私がとても興味をもったのはJさんの質問でした。Jさんも外科医をしておられます。そして、癌の患者と向き合う仕事をしています。そういう中で、一緒に治るために治療してきたのに、ある時から、もう治らないという時が来る。その時に、どうやって患者さんと接する接し方を変えていくことができるのか、秘訣があったら教えて欲しいというのが、その質問でした。多くの看取りをしてこられた先輩の医師に聞くというのも、とても誠実なことだと思います。

そこで、先生がこう答えられました。医師のほうから直接語りかけることはできないかもしれないけれども、普段の会話の中から、この人になら話してもいいという関係を造っておくことが大事だと言われました。その人との普段のいのちの言葉の投げかけ合いが、言いにくい言葉をしっかり伝える時の土台となるというのです。

これは、私たちの普段する善意のつもりの会話にも同じことが言えるだろうと思います。人の心を傷付けることは実に簡単です。相手の気持ちを思いやることなしに、自分の気持ちを押し付ければ、それが善意であろうと間違ったことでなかろうと、相手は傷つきます。いや、それが正しい事であればあるほど、相手は傷つくのです。けれども、普段から相手を思いやって、そういういのちの会話をしていれば、相手の心に寄り添うように、大切なことばを語ることができるようになるのです。

パウロはこのことを書いてから、いよいよ語ります。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

と。まさに、ここでしかないタイミングです。私たちの喜びは何に根差すのでしょうか。それは、「主にあって」なのです。何度も言いますが、この「主にあって」は、パウロが何度も、何度も使う、パウロ独特の言葉です。ギリシャ語で「エン・クリストー」と書かれています。英語でいうと「イン・クライスト」、「キリストの中に」と訳すことができる言葉です。あなたはキリストの中にすっぽりと包まれているんだから、どれほど悪意に満ちた世界に生きていようとも、どれほど悲しんでいようとも、どれほど死を恐れていようとも、どれほど人に傷つけられていたとしても、どれほどこれから先の事が不安でいっぱいだったとしても、キリストはあなたを包みこんでくださるのだから、喜びなさい。あなたは喜ぶことができるのだから。パウロはここでそう語ろうとしているのです。主によって、キリストの中に入れられることによって、あなたは喜んで生きることができる者となれるのだから。そうパウロは語りかけているのです。

喜びに生きる者は、敵対関係をつくりません。配慮なく、人に自分の気持ちをおしつけたりはしません。だからパウロは言います。

あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせない。

と。キリストに包み込まれている者は、人のしていることに心を注いだりしないんです。もっとこうしてほしい、ああして欲しいという、自分の願いから自由になることができるのです。

では、言いたいことも我慢しなければならずにいれば、自分の心の中に色々なフラストレーションが貯まるではないか。それはどこに吐き出したらいいのかと考えるのかもしれません。しかし、パウロはこう続けます。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

神の中に入れられる平安の中に生きるのだから、何かあったら、思い煩わないで、神に祈ったらいいと言うのです。

「でも、あの人はこうあるべきだ」とか、「あの人が変わらないと、他の人が迷惑を被る」とか、私たちは人のことで色々なことを考えるのですが、その願い事は神に知っていただいたらそれでいいでしょ。神が知ってくださること以外に、私たちの本当の慰めはないのだからということです。

そうすると、どうなるのか。主に祈るならば、パウロは続けます。

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

主が私たちに平安を与え、私たちの心と思いを主が守ってくださるのです。もうここまで来ますと、もはや、アーメンとしか言えなくなります。そのとおりなのです。これが、聖書が語る大人のキリスト者の生き方です。

先週は、私たちの教会では特別講演会でしたが、同盟福音基督教会では教団の日を祝いました。二十三日の月曜日に、教団全体の集会が持たれました。二百名ほどの方が集まったでしょうか。とても、豊かな一日でした。午前中は全体礼拝がもたれ、午後は東地区の教会が準備をしまして、さまざまなテーマの講演が行なわれました。私は、『聖書を読んだサムライたち』という本の作者でもある守部喜雅さんの講演に出ました。「新島八重とその信仰」という内容です。講演の内容は、今NHKの大河ドラマ『八重の桜』にほとんどこの話をそって話されましたので、ドラマを見ておられた方はずいぶん楽しめたのではなかったかと思います。

この『八重の桜』という大河ドラマは、同志社大学を創設した新島襄の妻八重の物語です。前半は会津藩の話でしたけれども、一月ほど前から新島襄がでてくるようになりました。やっと京都に同志社という学びやをつくることがゆるされて、生徒たちが集まって来ます。その中に熊本バンドと呼ばれた、後の日本の教会の基礎を築いた重要な人々がまとめてこの同志社に移って来ます。小崎弘道、金森通林、海老名弾正、徳富蘇峰、日本の教会の歴史で学んだそうそうたる顔ぶれです。この熊本から京都に半ば逃げるようにしてやってきた熊本バンドの人たちは非常に優秀であったようで、その前から学んでいた生徒たちの学力をはるかにしのいでいました。それで、この熊本の人々は、前から学んでいる同志社の生徒や、この学校で前から学んでいる人たちを見下すようになります。テレビでは食事のシーンで「汝の敵を愛せよ」や、「人を裁くな」という聖書からお説教を始めます。しかも、彼らは牧師になりたくて同志社に入って来たのだと嘆く場面さえあるのです。もっと英語を理解したい。もっと聖書を知りたい。もっと勉強ができるような環境でありたい。そういった向上心がこの人たちにはありました。誰もが、自分たちの発言に自信を持っているのです。 そうすることが、この国のためになると信じているのです。

ところが、新島襄は彼らの言い分を認めませんでした。「国を愛する気持ちは分かる。けれども、愛する国というのは国家のことではない。人々のことだ。自分を愛するように、目の前の他者を愛すること。歩みが遅くてもいい、気骨のある者も結構。よいものはよい。しかし、己のために、他者を排除する者を私はゆるさない。」そして、こう言うのです。「わが同志社はいかなる生徒も辞めさせません。それにはあなたたちも含まれています。この信念があるかぎり私が辞めることもありません。互いを裁くことなく、共に学んでいきましょう。」

新島襄はこの同志社で聖書を教えているのです。その聖書を学ぶところで、この学校はこうであったほうがよいという自分の理屈で人を見下すことがあってはならないのだと考えたのです。そうではなくて、人を愛する思いが、共に生きる環境をつくるのだと。

「愛することは想像力を持つことだ」とある人がかつて言いました。その人に大切な言葉を語るには、自分は横においておいて、相手をじっと見つめるまなざしをもつところから、愛する行為はうまれるのです。

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」

パウロはピリピの教会のこの問題を目の当たりにしながら、パウロの手紙はこの言葉の実が頭に残るように、二度も言葉を重ねて語りました。あなたに喜びを与えてくれるのは、状況がよりよくなること、自分が理解されること、自分が願っているようになることではなくて、主イエスがあなたを支配してくださること。主イエスがあなたを取り囲んでくださること。ここに喜びがあるのです。だから、喜ぼう。ユウオデアさんも、スントケさんも喜ぼうじゃないか。あなたもこの喜びの中に招かれているのですと、パウロは語りかけるのです。

主イエスによってもたらさせれる喜びを共有することの中に、すでに心離れてしまった人と、再び一つ心になることの道が秘められているのです。

お祈りを致します。

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