2014 年 11 月 30 日

・説教 ヨハネの福音書7章37ー39節 「生ける水の川の流れ」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 14:52

2014.11.30

鴨下 直樹

私たちの教会はこの二週間ほど目まぐるしく動いてまいりました。コンサートをいたしました。先週は礼拝後にこの教会を会場にして教団の総会を行いました。また、翌日には婚約式です。とても豊かな時間を過ごしまして、まるでお祭りのような二週間でした。お祭りの最後のクライマックスには、人々の期待が高まる瞬間があるものですが、まさに、先週の月曜日の婚約式には大勢の方が共に祝ってくださいまして、まるで結婚式のようだったとみなさん口々に言っておられました。 そのように、祭りの最後の時というのは、もっとも重要な時です。私たちも今週からいよいよアドヴェントを迎えます。教会の暦では一年の最初ということになりますけれども、いよいよ12月に入りまして、みなさんお一人おひとりの生活においても、この季節にはとても重要な意味を持っているのではないかと思います。一年を振り返る時を持つ方もあるでしょう。仕事でも、新しい年に迎えて備えなければなりません。学生は新しい学校に入るための試験であったり、準備などをいたします。新しく社会人になる方もこの中にありますけれども、そういう備えの時期でもあります。また、結婚の備えをしなければならない方もあります。そういう大切な時に、私たちはこのみ言葉が与えられています。 ヨハネの福音書7章37節です。

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

仮庵の祭りというのはユダヤ人たちにとっての大きな三つの祭りの一つ、しかも一年の最後の大きな祭りの最後です。人々の期待が高まる瞬間です。この聖書には書かれておりませんけれども、どうも、この祭りの時に、シロアムの池というのがエルサレムの都にありますが、ここから水を汲んで来まして、祭壇に注ぐという儀式を行っていたようです。おそらく、そのまさに、祭りが最高潮に達しようという時に、主イエスは大きな声で言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

「だれでも渇いているなら」と、主イエスは問いかけられました。しかし、私たちの日常生活の中で、「渇いているか」という問いかけをすることがほとんどありません。私がドイツに行っておりました時に、とても驚いたのは、この「あなたは渇いているか」という質問が頻繁に投げかけられました。「hast du durst」(ハス・ドゥ・ドュルスト)という文章は少なくても一週間、ほぼ毎日問いかけられます。「喉が渇いていないか」という意味の質問で、「何か飲むか」という意味ですが、誰かと一緒にいたり友達の家に遊びに行きますと、最初に聞かれるのがこの質問です。初めて聞かれた時に、「あなたは渇いているか」というのがこの質問の直訳ですが、とても違和感を覚えました。日本では真夏であれば使うかもしれませんけれども、普段ほとんどこういう質問をすることはあまりありません。そこから来ているのかもしれませんけれども、いのちの乾きというようなものにも、私たちは案外疎いのかもしれません。 自分が生きるための潤い、自分がどうしたら生き生きと生きることができるのか、自分はどうしたら満たされて生きることができるのか。この大切な問いを、問わないまま、あるいは意識しないまま、なんとなく日常を生きてしまっているのだとしたら、私たちはもう毎日の生活をどこかで諦めてしまっているということと同じ意味であるのかもしれないのです。 何か楽しいことがないか。自分を喜ばせてくれるものはないか。そう思いながら、どこかで、祭りのような楽しみを求めるような気持ちは誰にだってあるのだと思うのです。若い人からお年寄りに至るまで旅行に行くことが人生の息抜きになっている方は少なくありません。非日常的な場所を訪ねて、美味しいものを食べ、きれいな景色を見て、自分の人生にもう一度潤いを求める。そうでなければ、心が持たないと思う。そんな思いは誰にでもあるのに、自分の心は渇いているという気持ちを意識していない。だから、本当の人生の喜びの泉を見出すこともできなくなっているのかもしれないのです。  主イエスは、祭りの最高潮の時に、人々がそのような特別な雰囲気を味わおうとしている時に、「だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい」と言われました。わたしのところに来ること、そして、そこから水を汲んで飲むこと、そこに、あなたの人生を豊かにするいのちの泉があると、主イエスは高らかに宣言なさったのです。 そして、それこそが、聖書が書いているとおりの希望なのだと言われたのでした。

「聖書が言っているとおり」と38節にあります。聖書の中に「聖書」という言葉が書かれているのを面白く思われる方があるかもしれません。新約聖書が「聖書」と読んでいるのは「旧約聖書」のことです。そして、この旧約聖書には、実にたくさんの箇所で、このいのちの水の希望についてが語られています。 いつもは、ほとんど他の聖書箇所を開きませんが、今日は何か所かお読みします。聖書のいたるところに、この希望が書かれているのだということを知っていただきたいと思うからです。ですが、ご自分で確認したい方は開いてくださって構いませんが、まだ聖書を開きなれていない方もあると思いますので、そのままお聞きくださればけっこうです。 最初にでてくるのは出エジプト記の17章です。ここには、イスラエルの人々がかつてエジプトの国で奴隷であったときに、モーセという指導者を神は遣わされて、約束の地にまでイスラエルの人々を導いていったことが書かれています。ところが、この旅は非常に長い期間を必要としました。最初に問題になったのが、飲み水の問題です。1節から4節にこう記されています。

イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をそうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」

イスラエルの民はなれない荒野での生活で水を求めました。神が私たちを導くと言うからついて来たのに、水がないじゃないか。そういって、指導者であるモーセを殺そうとしたのです。この短い部分にすでに、人間の求めるものがどういうものであるのかがよく描かれています。居心地のいい生活。衣装住、何一つ欠けず、不自由を感じない生活。そういう生活を保障してくれるのであれば神を信じてもいい。神の言うことに従ってやってもいい。けれども、そうでない場合は、そんな神は必要ない。そんな人の姿がここには描きだされています。貪欲と言ってもいいかもしれません。 私たちは一方では自分の生活に欠けているものにさえ気づかないほど諦めてしまっている部分があります。しかし、他方で、自分の願うことを手にいれるためには非常にわがままな部分を見せるという部分もある。そういう両面を兼ね備えています。 このように、神はイスラエルの民が渇いて水を求めたときに、水をお与えになりました。神に言われたとおりにモーセが杖で岩を打つと、そこから水が湧き出て来たのです。それで、そのところを、マサ、神を試すという意味の言葉や、あるいはメリバ、争うという名前を付けました。そのように、聖書は人が神と争い、神を試みるほどに自分の願いに固執する存在、わがままな存在であることを記しています。 旧約聖書の中には他にも渇いて水を求めることが書かれています。イザヤ書にこういう言葉があります。 イザヤ書44章3節です。

わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。

イザヤ55章1節にもこういう言葉があります。

ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。・・・

このように、渇いている者に、かつてモーセの時、イスラエルの人々が渇いていのちの水を与えられた神は、イザヤ書ではイスラエルの地そのものの渇きに対して豊かな流れの水を注いでイスラエルを潤すと約束されました。そして、このイザヤ書では、そのいのちの水の潤い、生きる喜びは、「わたしの霊をあなたの子孫に注ぐことだ」と言われました。これは、少しずつ内容が意味づけられているのですけれども、人のいのちの源となるのは、神の霊とありますが、まさに、神の心が注がれるようになることによって、人はその心の渇きを癒すことができるようになる。そして、それこそが神の民に約束されていることなのだと言われたのです。 このように、聖書は、神が人のためにいのちの泉を備えておられるお方であることを示しになられました。こういう箇所はいたるところにあります。続いて出てくるのはゼカリヤ書です。ここにこのようなみ言葉があります。 ゼカリヤ13章1節です。

その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。

もう少しあとの14章にもこう記されています。 ゼカリヤ14章8節。

その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。

ダビデの家、エルサレムに与えられる泉は、罪と汚れをきよめる泉なのだと。そして、このような人の罪と汚れとから回復されることこそが、神が与えようとしておられるいのちの泉なのだとゼカリヤは記しました。そして、それはエルサレムにおいてと、その泉が与えられる場所までもが記されるようになったのです。人の心の渇きが潤され、いのちの喜びが得られるのは、その人の罪の問題が解決することだと言われたのです。このことはとても大切な意味を持っています。 神の約束の泉の話はまだ出てきます。エゼキエル47章1-5節です。これは、少し長い箇所ですが、お聞きください。

彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私に渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。

このエゼキエル書には、この神の泉はエルサレムの神殿から流れでて、その泉はどんどん豊かな水になって、はじめは足首ほどだったのが、次第に膝に、そして、腰に、やがては泳げるほどにまでなり、ついには渡ることのできないほどの川になったと、その泉の水がまさにあふれ流れる大洪水の水のように、豊かな水の流れになるほど、地を、世界を潤すものとなると語られています。 少し説明が長くなりましたけれども、聖書はそのように、人のいのちの渇きを癒やすために、神がやがて、大きな流れとなるほどのいのちの泉を備えておられると約束しておられたのです。そのように、神は、人の渇きを潤すために、聖霊を、神の心を与え、罪を赦し、それがその人の中からあふれ流れるほどに、周りの人にまでその生きる喜びが満ち溢れるようにしてくださると約束し続けてこられたのです。これが、今日のこの聖書の言葉の背景にあります。そして、今、ここで主イエスは、わたしこそが、この人の渇きを潤すことのできるいのちの泉なのだと宣言なさったのです。

先週のことですけれども、一通のはがきが届きました。Tさんのご主人が亡くなられたという知らせでした。もう三年ほど前からでしょうか。時々礼拝にご夫妻が集っておられ、ご主人は俳句をなさることもあって、俳句の会に出席してくださっておりました。奥様はもう60年以上前に、新潟の教会でスウェーデンの宣教師から洗礼を受けておられたのですが、岐阜に来られて、はじめは近くに教会がなかったために何十年も礼拝に集うことを諦めておられました。数年前から、ご主人が先に教会に足を運ばれまして、ご夫妻で来られるようになっていたばかりでした。ところが、今年のはじめ頃からでしょうか、急にお見えにならなくなりました。その間、何度か色々な話をされまして、このご主人は長い間、奥様が教会に行くことに対して積極的ではなかったようですけれども、少しずつご自分も神様を求めるようになられたのだろうと思います。  亡くなられて体は大学に献体を申し出られたということでしたが、その時に大学で亡くなられたら葬儀はどうなさいますかと聞かれた時に、キリスト教でお願いしますと言われたとのことでした。亡くなる少し前のことだったようですけれども、奥様は少し嬉しそうに話しておられました。 病になって、あと自分のいのちが何日かという時に、体を医療のために使ってほしいということと同時に、教会で葬儀をしてほしいと願われた。この話を聞きながら、Tさんも、いのちの置き場を主イエスに見出されたのだと思いました。何度かこれまでお話をしてきて、この人は信仰に生きているのだと気づかされる会話が何度もありました。

私たちは誰もがやがて死んでいきます。だから、好きなように生きればよいと考える方もあります。何か自分の生きた足跡を残したいと考える方もあります。生き方は、人それぞれです。その人のいのちが、本当に潤いのある豊かないのちとなるために大切なことは、いのちの主である主イエスが与えてくださる、泉から渇きを癒されながら生きることです。 命が枯れたものにしてしまうものがいくつもあります。先ほど紹介した旧約聖書に記されていたように、自分勝手な貪欲な生き方をするとき、気が付くと周りを傷つけてしまって潤いがなくなってしまいます。生き方が分からないで、罪に身をゆだねて生きることも同じです。生きる意味を見いだせないままいのちを終えてしまうこともまた渇いたままの人生であったということになるでしょう。

ドイツで日常的に尋ねられているように、「あなたは渇いているか」と、そう何度も何度も自分自身に問いかけてみなければなりません。そして、そのいのちの渇きを覚える時、私たちの主イエス・キリストが、私たちの渇きを潤すために、喜びを与え、生きる意味を与え、罪を赦して喜んで生きることができるようにしてくださるのです。そして、そればかりか、38節に記されているように、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」のです。 あなたが、あなたの周りの人々の乾きを潤す存在にされるのです。それが、主イエスを信じるということなのです。

お祈りをいたします。

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