2015 年 3 月 8 日

・説教 ヨハネの福音書 10章7-21節  「わたしは門であり、良き羊飼いであると言われる主」

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2015.3.8

鴨下 直樹

 

 

受難節ではありますが、今、私たちは大きな喜びを味わっております。と言いますのは、長い間、いままでお借りしていました教会の駐車場の取得のために祈り続けておりましたけれども、この取得のための臨時総会を今日開くことができるまでに、主が導いてくださったからです。今年の1月に教団役員会がありまして、役員の先生から芥見教会の駐車場はどうなりましたかと尋ねられました。私はそのとき、奇跡でも起こらないかぎり教団の三月総会にかけられそうにありません、とお答えました。そして、2月の役員会の時も、その状況は何も変わってはいませんでした。けれども、この二週間の間に、事態は大きく変わりました。そして、今日、この後で行われる臨時総会で承認されれば、今月末に行われる教団総会に間に合わせることができるのです。大げさに、これは奇跡だと騒ぎ立てるつもりはありませんけれども、主のみわざであることに間違いないと思っています。主が、長い私たちの祈りに耳を傾けてくださり、確かに、主は私たちを導いてくださる羊飼いであられることを、私たちは経験しているのです。

今日の聖書の箇所には二つの主イエスの自己紹介がなされています。一つは「私は門です」と言われ、もう一つは「私は良い羊飼いです」と語っておられます。これは、キリスト者にとっては、耳慣れた言葉であるかもしれませんし、このことに対して、「No!」と叫ぶ気持ちになることはあまりないのだと思います。しかし、今日の聖書箇所の最後の部分では「あれは、悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか」という反応が描かれています。「わたしは門です」「「わたしは良い羊飼いです」という言葉を耳にすることで、多くの人々はこの主イエスの言葉を不快に感じたのです。

それは、それこそ、駐車場の土地を求めている時に、誰かが、人々の前で胸を張りながら、私が仲介役になりさえすればすべてはうまくいくでしょう。私は門となって、あなたがたと地主との入口となって、すべてをまとめてみせます。「わたしは良い羊飼いです」だから、私に黙って従いすれば、かならず望んでいる土地を約束してみせますと、自分のできることを高らかに宣言する姿を思い描いてくだされば、理解しやすいのではないかと思います。自分の胸に手を当てながら、私は門です、私は羊飼いですと、自分を誇る人間のことを、私達は多くの場合、沈黙しながら無視することで相手にしないということが普通の反応なのだと思うのです。しかも、ここで語られていることは、土地を手にいれるどころの話ではありません。神への入り口に私がなっているのだと言い、あなたがたを羊と呼び、私が管理すればすべてまるくおさまると言っているかのような響きが、この主イエスの言葉にはあるからです。

主は、ここでこうおっしゃいました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったです。

7節と8節です。

もう三週間前に1節から6節までのところを説教いたしました。このところでは門については特に強調されてはいません。主は牧者なのだということに強調点が置かれていました。けれども、ここでははっきりとご自身は門なのだとお語りになられました。 主イエスはご自分のことを門と言われて、何を言おうとされたのでしょうか。門というのは入口です。しかも、これは羊の門ですから、門を通るとそこに羊たちが飼われているのです。その門が閉じられているということは、守られているということです。その門を閉じなければ、盗人や強盗が来るのです。10節では、

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

と、主イエスはおっしゃいました。

主イエスはここで、わたしはあなたがたのいのちを守りたいと思っておられるのです。羊が盗人に殺されたり、滅ぼされたりするのを、私は黙って見過ごしにすることはできない。わたしは、あなたがたを守るために、あなたがたの門となって、あなたがたのいのちを守るのだと、主イエスは言われるのです。主イエスという門から入るときに、そこにはいのちの確かさがあると主イエスは言われるのです。

 

今、祈祷会でエリヤの生涯の学びをしております。先週は第二列王記の第一章をみなさんと一緒に学びました。北イスラエルのアハズヤが新しく王となったのですが、家の屋上の欄干から落ちて病気になってしまいます。そこで、この病気が治るかどうかを、バアル・ゼブブという神に伺いを立てさせようとしたところを読みました。けれども、主はそこで、預言者エリヤを遣わされて、イスラエルに神がいないから、ほかの神々のところに行くのかと言われ、この王はその病のために死んでしまいます。私たちの周りにも実にさまざまな神がおります。そして、このアハズヤのように、自分に都合のよさそうな神を捜すことをする。もうほとんどそれがこの国では当たり前のことのようになってしまっているところがあります。

受験の季節になると、この神さまがいいとか、商売を成功させたいならこの神さまと言った具合に、自分で神を選ぶのです。そして、どの神さまだって結局のところ、最後は一つにつながっているのだから、大切なことは信仰心を持つことが大事なのだと考える人たちが沢山おります。神さまの入り口は沢山あってもいい、頂上に行き着けばみんなおなじなのだからと。こういう考え方は、どうも、この国ではとてもよく理解されるのです。

それは、自分で好きな神を選べばよい、そしてどれもはずれはないのだと言うことによって、選ぶ側に安心感を与えます。けれども、そこには、神ご自身に意思がおありになるなどということは、少しも考えていません。それを神がどう思われるのかなどと考え始めると、たちどころに不安になってしまうからです。そもそも不安になりたくないので、神を信じるための門をたくさん作って、みんな結局同じなのだからと言い聞かせることによって、みんなで安心したいということでしかないのです。

しかし、主イエスはここで、わたしは、羊であるあなた方を守りたい、あなたがたが滅びないように、殺されてしまわないように、そのために私が門となるのだという主イエスのほうが抱いていてくださる覚悟を、私たちはこのところで知らされるのです。

 

だから、主イエスはここで続けて言われます。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

11節です。

多くの人々は自分で神様を選んでおいて、でも結局はどれを選んでも大丈夫なのです。神様にはずれはありません。と言い聞かせながら、一生懸命まわりを見渡して、本当にそうか実は安心できないでいるという宗教心を、信仰と呼んでいます。しかし、その人々は、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と言われるお方をまだ、知らないでいるのです。それは、とても残念なことです。わたしの門をくぐり、わたしの守りのなかに生きる羊は、わたしは、その羊のためにいのちを捨てる覚悟がある。そのお方を知らないで、本当にどの神さまでも大丈夫なんだよね、ほんとにはずれはないんだよね、あなたはどんな神様なの、とドギマギしているのとはまるで違う平安が、この主イエスにはあることをまだ知らないでいるのです。

今、私たちは受難節を過ごしています。この六週間の間、主イエスは私たちのために、いのちを捨てるため何をしてくださったのかを、私たちは心に刻む時を過ごしています。主イエスは、いのちを脅かすものが襲ってきたときに、逃げ出してしまうような雇われ羊飼いのようにではなく、私たちを、その囲いの中にいる羊を守るために、そのいのちを神の囲いへと導くために、自らを犠牲にして、私たちを神の御国に入れてくださるため、十字架でそのいのちを犠牲にしてくださった事実を、私たちは忘れることはできません。

それは、口先だけの言葉なのではなくて、まさに語られたように生きられた、主イエスの全存在が、この主イエスの語られた自己紹介の言葉の中にこめられているのです。

 

主イエスが「わたしは羊の門です」と言われる時、私たちは、このお方が、私たちのいのちを、神の御手の中に招き入れるための入り口となってくださって、私たちを神の御支配の中に招き入れてくださるのです。

そして、主イエスが「わたしは良い羊飼いです、良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます」と言われる時、まさに、主が私たちのいのちの支えそのものになってくださる方であることを知るように招かれているのです。

それは、わたしこそが、あなたのいのちを神の御前に招きいれる門そのもの。わたしこそが、あなたのいのちの支え手、わたしこそが、あなたの神、主であると、主自らが、私たちに向って宣言していてくださる言葉を、わたしたちに向けて語りかけてくださっておられるのです。

その主は言われます。14節。

わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。

わたしたちのいのちの支え手でおられる主は、私たちのことを深くご存じです。私たちが、どこで道を踏み外しやすいのか。どのような弱さを持っているのか。どこで、神から離れてしまいやすいのか。私たちに何が必要で、私たちがどうあることが、わたしたちにとって最善なのか。

私たちの主は、私たちに無関心ではおられるのではありません。私たちの心の深みまで、私たちを知り抜いておられます。そして、その私たちの心の奥底で、それこそ、自分でも気が付かないほどに心の奥底にしまいこまれたものさえも、ご存じで、その心の奥底にしまい込んだはずの扉さえも開いて、神のいのちの豊かさを味わうことのできる牧場へと私たちを導くことがおできになられるお方なのです。

 

私たちが祈り求めてきたこの土地も、主が最善と思われる仕方で導いてくださいます。私達はこの羊飼いであられる主により頼みつつ、主の与えてくださる牧場で、豊かな恵みを味わうように招かれているのです。

 

お祈りをいたします。

 

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