2009 年 8 月 16 日

・説教 「神の前に」 第一サムエル記14章36-42節 

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 22:05

本日は、芥見キリスト教会員 森岡泰子姉が礼拝説教をして下さいました。

 

第一サムエル記13章では、ヨナタンがペリシテ人の守備隊長を打った事によって戦端が開き、ペリシテ人が多くの戦力を動員して上ってきた。一方のイスラエルには3千人が集まったがペリシテ側の光景を見て怖じ気づいてしまい、隊から外れて逃げ出す様子などが記されている。そして、サウル王はその状況に不安と焦りを募らせ、神への信頼を失う。祭司サムエルからギルガルで7日間待つようにと言われたその約束の日、あと少しの時間を待つ事ができず、本来祭司がささげるべき全焼のいけにえをささげてしまった。その直後にサムエルが到着し、「あなたは、なんという事をしたのか」と叱責されたが、その意味もわからず、ただ苦しい言い訳をするサウル王だった。

 

「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。 今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。」(13章13節~14節)

 

と、神の御心と、この後のご自身の計画を祭司サムエルの口を通して宣告されたのである。

イスラエル軍は,その人数の面でも武器の面でも甚だしく劣っていた。3千人いた民もついには6百人に減ってしまい、今はヨナタンもサウルと合流してイスラエルの民はギルガルからミクマスの近くのゲバに留まった。そして一方のペリシテ人はミクマスに陣を敷いた。

ある日、らちの明かない戦況下、再びヨナタンが動き出した。ここから14章が始まっていく。

 

ヨナタンは、父サウルにも、祭司アヒヤにも、そして民にも知らせず、ただ道具持ちの従者と二人きりで、ペリシテ人の先陣の中へ切り込んでいく計画をひそかに立てた。

ヨナタンは自暴自棄になったのだろうか?あるいは、自分の手柄を立てようとしたのか?しかし、ここの地形は両側が切り立った断崖に面しており、手柄どころか明らかに無謀と思えるものだ。

絶望的な戦いの中で、逃れる策をあれこれと考えても打開策はない。ヨナタンの心は上に向けられた。「見上げるような切り立った岩も、乗り越えられないはずはない」と考えたのだろう。

 

たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」(14章6節)

 

と。これは、青年の純真な信仰として、大人からは一笑に付されるものだろうか。あるいは、自分の行動の全てが神の心にかなっているというような狂信的な自信なのか。どうも、そうではないようだ。勿論、「たぶん」とは、不確かさや不安を言っているようではない。今は、何もしないでいる時ではない、むしろ自分が行動を起こし得る、また起こすべき時と考えた。

「主がわれわれに味方してくださるであろう。」 

大胆なことばである。つまり、「主が我々(のため)に(何事かを)して下さるだろう」と。たとえ自分が討ち死にする事になったとしても、神はイスラエルに最も良い事をなして下さる、という神への信頼であった。

ヨナタンは与えられた現場で信仰にかかわる戦いをしようと決心した。

討ち死に覚悟のヨナタンもさることながら、道具持ちの従者の答も見事だ。彼は、主人のヨナタンと一心同体であり、その命令通りに応じ、20人を打ち殺した。その結果、恐怖が敵陣に臨み、次第に広がって民全体に及んだ。その上、地震までが加わって非常な恐れとなっていった。

 

そのペリシテ側がうろたえている様子を見張りの者がサウルに告げる。サウルは、陣営から攻撃を仕掛けた者がいると判断したのだろう、それが誰かを調べさせ、ヨナタンと道具持ちであると確かめた。さあ、自分たちはどうするべきか、次にどういう行動に移すべきか。それを問うために、祭司アヒヤに神の箱を持って来させた。ところが、サウルは、敵陣の騒動がますますひどくなってくるのを見ると、途中で神のみ心を問うのを中止して即刻戦場へと乗り込んだ。そこでは「同士打ち」が行われ、「大恐慌」が起こっていた。これは、神ご自身がペリシテ人に臨まれた神からの「恐れ」だった。

ここで誰もが、「これは、ついている」と思うだろう。母国を裏切ってペリシテ側についていたヘブル人が再び寝返って帰ってくる。逃げ隠れていたイスラエル人も、このニュースに励まされて復帰し戦った。

このように、ヨナタンによって始められた戦いは、イスラエルの大勝利となった。

 

こうしてその日、【主】はイスラエルを救い、戦いはベテ・アベンに移った。(14章23節)

 

イスラエルを救ったのは、主ご自身であった。

 

ほぼ14章の中間に位置する次の24節は、後半のイスラエルの別な暗さを暗示しているかのようだ。

 

その日、イスラエル人はひどく苦しんだ。サウルが民に誓わせて、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれる」と言い、民はだれも食物を味見もしなかったからである。(14章24節)

 

サウルは、この戦いを始めるにあたり、日没までの断食を民に敷いていた。

断食の誓い…これにはサウルの一種の宗教的な熱心さを表したようにも見える。しかし、民はサウルの誓いを恐れて食べなかったので、空腹でふらつきながら戦わなければならない。だが、この地はどこに行っても豊富な野蜜があったのだ。これは愚かの極みだった。

この誓いを知らなかったヨナタンだけがその蜜を食べ、すぐさま元気を回復した。その時ヨナタンは、初めて父サウルの誓いの事を民から知らされたのだが、父の愚かさを批判している。民が空腹のまま、疲れた体で戦いを続けていたために戦果が今一つであったことがわかったからだ。

何も食べないまま戦いを続けた。ミクマスからアヤロンまで追撃した民は、ついにその断食期間が終わるやいなや、分捕りものの家畜に飛びかかり、血も絞り出さないままに生肉をむさぼり食べた。これは、イスラエルの律法に違反することだった(レビ17:10-14、申12:23-25)。行き過ぎた禁令が、普通には起こりえない罪を犯させてしまうきっかけとなってしまった。これにはサウルも驚いたのか、早速石を持って来させて血抜きができるように配慮した。そして、彼としてはそこに最初の祭壇を築く。

サウルはその後もさらにペリシテ人を追撃し、彼らを全滅することを期待した。ところがアヒヤは提言する。

 サウルは言った。「夜、ペリシテ人を追って下り、明け方までに彼らをかすめ奪い、ひとりも残しておくまい。」すると民は言った。「あなたのお気に召すことを、何でもしてください。」しかし祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう。」(14章36節)

 それでサウルは神に伺った。「私はペリシテ人を追って下って行くべきでしょうか。あなたは彼らをイスラエルの手に渡してくださるのでしょうか。」しかしその日は何の答えもなかった。(14章37節)

 

神に伺ったが神の答がない。サウルは考えた。神が沈黙しておられるのは、民の中に罪があるのだ。では、どんな罪があったのか。物語の文脈からすると、それは、自分の出した禁令(誓い)を破った者がいる。それは誰か…、ということだろう。くじがヨナタンにあたった。だからヨナタンが罪を犯したのだ…、これがサウルの発想であった。私たちにも、納得のいく話だろう。

そして、ヨナタンは死を覚悟している。サウルも死の宣告を下す。するとその時、民の側から激しい反対が起こった。今回の勝利は、ヨナタンによってもたらされたもので、どうして彼が死ななければならないのか、彼に指一本触れてはならない(45節)。主が彼と共におられたからこの戦いに勝利したのだ。このくじは、サウルの禁を破ったのが彼であることを示したにすぎず、彼が罪を犯したことを示したのではない、と主張した。サウルは、この問題で戦いを中止して引き上げ、ペリシテ人は地中海沿岸の自分達の町々に帰り着いた。

 

サウルは息子ヨナタンの命をさえ賭けてまで王として極めて厳しく、ごまかしや妥協を許さない立派な態度を示した、と見て取れたかもしれない。しかし、彼は自分のしている事、つまり祭司を通して神に伺うことや、断食、祭壇を築くなど、信仰的だと思いこんでいるだけで、信仰の実質は非常にあいまいだった。

祭司アヒヤといかに行動すべきかを神に問うている時も、回りの騒ぎが大きくなったため神に問う事を辞めてしまう。断食の誓いをさせて、その結果民を悩まし、むしろ、民に罪を犯させてしまった。民が血のままで食べたことに対して、「裏切りだ」と決めつける。あわてて祭壇を築いたが、本当に民の罪のためなのかわからない。夜襲命令を出すが、アヒヤに神の前に出るよう提言されて神に伺うがその答が無かった。その原因を民の罪にあると断定して調査を命じ、死を持って報いることを誓わせる。民の助命嘆願が出ると、誓いを撤回する。…すべてが中途半端だ。それゆえに、主は、沈黙をされた。これまでのサウルの身勝手な行動に対して、主は沈黙されたのだ。

サウルが断罪しようとした罪(38節)と主が罪として不快に思われていたこととは違っていた。神の心は、くじに明らかにされたのではなく、民の言葉にあらわされていたと思われる。

罪の所在、責任の所在を明らかにし、それを確かめる事は必要不可欠なこと。しかし、それ以上に、自分にこそ罪があることをイスラエスの王であるサウル自身が知らなければならなかった。彼は、神の名を語った自己保身にすぎなかった。この事の為に、イスラエル人はひどく苦しんだのだった。

 

くじでサウルとヨナタンの二人が取り分けられた時、もしここでサウルが自分の罪を認めることができたなら、後半の話は変わっていっただろう。私達も、とかくサウルのように、「どうしてこうなったのか、誰のせいか、それはお前のせいだ」と言う。「お前は死ぬべきだ」とは言わないまでも、「お前が責任を取って当たりまえ」との発想になる。ひょっとしてそこには、サウル王と同様な自己保身が隠れていることもあるのではないか。自分の罪が真実を見えなくしている。自分を吟味することを避け、神の前から逃げているだけではないか。

 信仰者には、使命がある。信仰は、この世をどのように生きるか、という具体的な生き方を造り上げるもの。勿論、それは主ご自信がなして下さることであるが、生き方まで結晶化しない信仰であれば、それは単なる知的観念に過ぎない。

「神の前に出ましょう」。危ういサウルに対する言葉は、同様に危うい私たちにも語られている。神の前に進み、近づき、尋ね、相談する。「むしろ私の内に罪があるのではないか」と問いつつ、私たちはこの神に聞き、そして従う以外、私たちが義の道を歩む手立てはない。

          

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