2017 年 6 月 4 日

・説教 詩篇90篇「主は私たちの永遠の住まい」

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2017.06.04

鴨下 直樹

 
 私事からはじめて恐縮ですけれども、この同盟福音キリスト教会の代表役員に就任して二ヵ月がたちました。これまでは知らなかったのですけれども、これまでやったことのないいろいろな仕事が新しく加わりました。先週、可児教会で午後から行われた役員研修会で説教をするというのもその一つです。あるいは、四教団の理事会に出席することもそうです。けれども、私にとって一番厳しい思いになるのは、人事の話をしなければならないことです。しかも、これまで同盟福音の教会で長く奉仕してくださってこられた先生方と、今後の奉仕について話すことは、とても緊張します。

 先日もこれまで長い間奉仕してくださった先生が、教団規則の年齢に達したために次年度新しい牧師を迎える準備のことで電話をいたしました。実は、とてもドキドキしながら電話をしました。私の中では何か最後通告をしなければならないような気持になっていたからです。電話をする前に、何度も祈りました。失礼なことを言わないように、話す会話の段取りを頭の中で何度もシミュレーションしてから電話をしたのです。辞めるつもりはないと言われたらどうしようか。どうして、自分の時にこんな大任が回って来たのか、いろいろなことを考えながら電話をしました。会話は思い描いていたよりもはるかにスムーズで、肝心の話しを切り出したときも、「分かっていますよ、次の牧師についてもう教会で話し合いを始めているので、一度役員会に来て、一緒に話してほしい」と言われ、私は拍子抜けしてしまいました。40年、50年と牧会をしてこられた牧師が、その職から退くということはすごいことだと思うのです。

 以前も一度お話したことがあるかもしれませんが、私が神学校に入る前に、半年ほど根尾の麓の村で仕事をしながら、神学校に行くまでの間を過ごしたことがあります。その時に、この芥見教会を開拓伝道からつくりあげたストルツ先生ご夫妻が、日本での宣教の働きを終えてドイツに帰国するために、最後の一週間を、根尾山荘で過ごされたのです。そして、ドイツに帰国するという朝、車に荷物を積んでいるストルツ先生に、私は一つの質問をしたことがあります。

「ストルツ先生。どうして、神さまに召されて、宣教師となったのに、人間が作った定年という制度に従って、宣教師を辞めてしまうのですか」と。私がまだ22歳か、23歳の時のことです。今であればもう少し上手に尋ねることもできたかもしれませんが、当時の私は何の配慮もないままに、日本をこれから離れて寂しいであろう宣教師に、残酷な質問をしてしまったと思うのです。けれども、ストルツ先生は、もうその答えを用意しておられたかのように、私にこう答えてくださいました。

「私は今日、ドイツに帰国します。けれども、私は主に仕えることを辞めるつもりはない。日本での、宣教師という働きは確かに今日で終わるけれども、私はドイツでこれからも主に仕え続けるのですよ。」

 今日はペンテコステの主の日です。教会が誕生したことを記念する日です。今日、私たちは詩篇90篇を与えられています。12節に記されているように「私たちに、自分の日を正しく数えることを教えてください」とあります。私は、この芥見キリスト教会が、このみ言葉にあるように、自分の日を正しく知ることの出来た宣教師によってつくられて来たことをうれしく思います。また、そういう牧師たちによって、私たちの同盟福音キリスト教会が築き上げられてきたのだということを覚えて本当に嬉しく思うのです。

 そして、来週で、この芥見で礼拝が始められて1900回目の主の日の礼拝になるのだそうです。主がこの芥見での礼拝をそこまで支えてきてくださったことを、本当に嬉しく思うのです。

 この詩篇90篇は新年の礼拝や、葬儀の時に読まれることの多い詩篇です。私が調べたかぎりですが、ペンテコステでこの詩篇から説教をしている人はありませんでした。しかし、この詩篇の冒頭にこのように記されています。

主よ。あなたは代々にわたって、私たちの住まいです。

1節です。
 主は永遠に私たちの住まいであるというこの詩篇の宣言は、まさに新年のはじめや、葬儀の時に聞くのに相応しい箇所です。けれども、そのことが私たちにもたらされたのはまさに、聖霊が与えられているがゆえにです。私たちが、主イエスを信じ、主の霊を頂くことによって、神の子どもとされ、天国の国民としていただけます。ですから、この詩篇はペンテコステの今朝、私たちが聞くべき言葉としてとても重要な意味をもっているのです。
 主イエスを信じて、聖霊を与えられて、私たちは天の御国に住まいを持つ。そこが、私たちのいるべきところというのです。そして、さらに2節で続いてこう記されています。

山々の生まれる前から、あなたが地と世界を生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまで、あなたは神です。

 私たちの住まいを、天に備えてくださる私たちの主は、この世界が創造される前から神であったと記されています。この神、主が、世界のすべてをお造りになられたのだということです。私たちの主なる神は、行為される神です。働かれるお方。この神のお働きによって、私たちは、天の御国に生きる者となったのです。

 今日はペンテコステで、今日は芥見教会の1899回目の礼拝です。私たちの主はこの1900週の間、働き続けてくださっていて、最初の時から、今に至るまで、私たちを神の御国に招き続けてくださっているのです。

 私たちの主なる神は、この天地を創造し、今も働きつづけておられる主です。この主を見上げ、この主に信頼していく時に、私たちは主の与えてくださる平安の中にとどまることができます。けれども、そのことは分かっていたとしても、私たちには現実の生活があります。ふと現実に立ち返るときに、自分の前に山積みされたままの問題が目に留まってしまうのです。

あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ」

3節です。
「人をちりに帰す」。この「人」という言葉は「アダム」と言う言葉です。神の天地創造が記されている創世記の3章19節で、罪を犯したアダムに主が告げる言葉の中にこう記されています。

あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。

 人は罪の結果、儚い存在となったことをすでに聖書は記しています。神の天地創造が語られた直後に、創世記が記しているように、この詩篇もまた、神は天地を造られたお方と語り、そのすぐあとで、人は儚い存在であると語っています。なぜなら、死が最後に待っているからです。神は永遠の存在です。けれども、人は時間を超越することができません。誰のところにも等しく死が訪れるのです。そして、人はちりに帰って行く。永遠の主を見上げていられるときは、私たちの心は晴れやかな気持ちになり、喜びが私たちを取り囲むのです。けれども、家に帰った時から、さまざまな現実的な問題が私たちの心を神から引き離してしまいます。それが、私たちの毎日の歩みだと思うのです。私たちの主は永遠の神、主です。しかし、私たちは儚い存在にすぎません。私たちはちりに帰る。死を向かえたらすべてが無意味、ということが、私たちを取り巻いているのです。この詩篇は、この神と、私たちとの隔たりを描き出しているのです。

 どれほどたくさんの仕事をやり遂げたとしても、とれほど多くのものを手にいれることができたとしても、死はその人の業績をみな呑み込んでいってしまうのです。それは、朝咲いていて美しいと思っていた花が夕方には枯れて散っていくようなものです。

 神の永遠性を覚えながら、人間の儚さを覚える。死についてを考えさせます。そして、この詩篇はそこからさらに、なぜ、死は恐ろしいのかということに目を向けさせます。7節から語られている一つの主題は神の怒りです。神を怒らせることを行っていないか。この世界を創造された神の御前に、私たちのしたことはすべて神の光の前に照らされると言っているのです。私たちは、今、永遠の世界に生きてはいません。死が支配する世界に生きています。そして、死は、私たちのこの世での行いを、不安にさせるのに十分すぎるほどの力を持っているのです。自分のこの世でしてきたことが神の前に覚えられている、神に見られているとしたら、自分はどうなのかということを突き付けるのです。
そして、あの有名な言葉が飛び込んできます。

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかもその誇りとするところは、労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

10節です。
 人生、いくら長生きできたとしても、そのすべての時間は神の前で見られているのだとしたらそれはただ労苦と、災いでしかない。それほどに、私たちの人生で行う事というのは、神の前にはあまりにも虚しい振舞いでしかないのです。
 だから、この詩篇は結論としてこう語るのです。

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。

と。12節です。
「自分の日を正しく数える」というのは、どういうことなのでしょうか。自分の生きた日を、この日はちゃんと生きたと、神の前に数えることができるというのは、どう生きることなのでしょうか。

 私がまだ、献身する前のことです。私の父は牧師をしていました。子どもの私から見ても、なかなか厳しい牧会生活であったと思います。私が小学生の時に、教会が火事になって、会堂が全焼してしまいました。私が高校2年生の時に、火事の後応急的に直して使っていた会堂を取り壊して、新会堂を建てました。その時までに教会の役員だった主だった人たちの多くが教会を去って行ってしまいました。新しい会堂が建設されても、教会はなかなか安定しませんでした。私は、父に聞きました。「父さん。牧師になって一番良かった時というのは、いつだったの?」と。私の質問の意味は、牧師をしていて、いい時なんてあったのかという意味が含まれていたと思います。すると、父は、しばらく考えて私にこう言いました。「今が、一番いいなぁ」と。私は、その答えに衝撃を受けました。その時、教会の何人かのことで、父は毎日頭を抱え、困り果てていたのを知っていたからです。けれども、その父の主に対する信仰の姿勢を見て、私もこうありたいと思いました。その時の父の言葉は今も忘れることがありません。

それゆえ、私たちに、自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。

 主を信頼して生きることは、毎日「今が一番いい」と胸を張って生きることができるということです。

 13節で「帰って来て下さい。主よ。いつまでこのようなのですか」と言っています。この詩人は、正しく生きることを知りたいと願っているのです。主が近くにいてくださるのであれば、毎日、喜んで生きられるようになるのですと祈っているのです。

どうか、朝には、あなたの恵みで、私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。

と祈っているのです。
この13節以下に記されているのは、祈りです。特に最後の17節にこう記されています。

私たちの神、主のご慈愛が、私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを、確かなものにしてください。

 この祈りは、まさにこの詩篇90篇を結ぶ祈りです。わたしたちがこの世で生きる、その歩みが、手のわざが祝福となる。主に結びついて、主の前に生きるということは、私たちの手のわざが確かとなる。私たちの生活が確かなものとなるということです。その手のわざの確かさはどこから来るのか。それは、私たちが自分の日を知り、神の前に生きることです。それは、まさに、聖霊が私に働いていてくださって、もうすでに、私を天の御国の民とされていることを確信することです。目の前の現実がどれほど厳しくても、自分はすでに聖霊によって神の民とされているのだから、この神によって、私の手のわざが、私の生活が祝福されると信じて祈るのです。ここに、わたしたちの祝福があるのです。

おいのりをいたします。

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