2018 年 4 月 8 日

・説教 ローマ人への手紙10章9-11節「主を信じる信仰」

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2018.04.08

鴨下 直樹

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なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることはない。」(新改訳2017訳)

 さきほどYさんの洗礼入会式を行いました。洗礼式の時に、五つの誓約をいたします。
「あなたは天地の造り主、生けるまことの神のみを信じますか。」「あなたは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われていることを確信しますか。」そのように尋ねていきます。そうしますと、「信じます」「確信します」と答えるわけです。すでに洗礼を受けておられる方はみなそのようになさったと思います。

 それは、先ほど読みました聖書の言葉を土台にしていると言っていいと思います。「人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあるように、心に信じて、告白することが大事なのです。

 では、心に何を信じるのかというと、「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じる」ということです。先週私たちは礼拝でイースターをお祝いしました。主イエスがよみがえられたことをお祝いしているわけです。ところが、先週の説教でもお話しましたが、死んだ人がよみがえるなどいうことは、ちょっと信じられないような話です。実際、ルカの福音書の最初の記述は、誰も信じられなかったと書かれているわけです。けれども、考えてみると、復活のことだけではなくて、聖書に書かれていること、特に主イエスが私たちにしてくださったことは信じられないようなことばかりです。
 
 先日も、洗礼を受ける方のための学びの時に、もう一度聖書が語っていることを簡単に説明しました。神がこの天地を造られたこと。そして、人間が神の思いに逆らって自分勝手に生きたために、楽園から追い出された事。そして、神はその後、次々に信仰の導き手を与えて、神の御心に応えて生きることが大事なのだということを示してこられました。けれども、神の民は神の心に従って生きようとはしません。それで、神は天からご自身が人の姿でこの世界に来られて、神の心に生きるというのはどういうことかを、自ら示そうとされました。それが、主イエス・キリストです。主イエスがどう生きられたのかというと、簡単に説明してしまえば、神を愛することと、人を愛して生きるということでした。それなのに、人は、主イエスを十字架につけてしまったのです。

 学びの中でも、こんな質問が出てきました。どうして、主イエスが十字架にかけられたことが、自分と関係あるのですか、という質問です。もっともな質問です。

 水曜日と、木曜日の学び会の時に、今日の聖書箇所からみなさんはどのように信仰告白に導かれたのですかという質問をしまして、みなさんの証を改めて聞く機会を持ちました。いろんな話を聞くことができてとてもよい時間となりました。よく耳にしている話もありますけれども、改めて聞くことを通して、みなさんがどのように信仰に生きるようになったのかがよく分かりました。

 そんな中で、一人の方が自分はクリスチャンホームで育ち、小さい時から親と一緒に教会に来ているので、主イエスを信じるということは何の問題もなく、洗礼を受けたけれども、十字架の意味がそのあと十年くらい分からなかったという話しをしてくださった方がありました。クリスチャンホームの方は同じような経験をしておられる方が何人もあると思います。

 その方はどうして自分の罪のための赦しということが分かったかというと、マタイの福音書の

「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には何故気がつかないのですか。」

というみ言葉を聞いた時に、人の悪い所には目が留まるけれども、自分の悪い所は見ないようにしている。自分の罪というのは、まさに人を裁くときに示されているではないかということに気づいたと、その時に話してくださいました。

 自分には悪い所があるのに、人の悪い所に目を向けて、人を非難する。そういう思いが、正しいお方として歩まれた主イエス・キリストを十字架につけることに結びついたのだということがようやく分かったということでした。

 神は、主イエスを神のみこころを行い、まさにそのことを示すためにこの世界に送って下さったのに、この世の人々は、イエスは自分のことを神の子だと言っていると難癖をつけて十字架につけました。まさに、その罪こそが私たちの罪です。けれども、神はそうして主イエスを十字架で死に引き渡されて、その後、三日目によみがえらせられたのです。このことによって、主イエスはただの人としてこの地に来られたのではなくて、神の御業を行なうためであったことが明らかとなったのでした。

 神は、主イエスを通して、神の御心に生きるとは何か、神を愛し、人を愛するということはどういうことかを明らかにしてくださいました。そして、主イエス・キリストの十字架の出来事を通して、私たちの罪を、主イエスが担うことを通して、その罪を赦してくださることを明らかにしてくださいました。そして、「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら」、そのようにここには書かれています。それは、神が主イエスを死者の中からよみがえらせることを通して、人は新しく生きる者とされることを明らかにしてくださり、また、永遠に生きる幸いの道を示してくださったのです。

 この主イエスを通してなされた神の救いの出来事を受け入れ、主イエスのよみがえりは私の救いのためのみわざですと、信じて受け止める時、神は、私たちを義としてくださる。神の御前で裁かれることなく、神が私たちのいのちを、また歩みを受けとめて、それでよいと認めてくださるのです。

 この聖書の言葉は、実は私が中学生の時に、主イエスを受け入れた時のみ言葉です。私は牧師の子どもとして、小さな時から神とともに歩んできました。いつ、自分は洗礼を受けたらよいのだろう。主イエスを信じるというのはどういうことだろうと考えていた時でした。中学二年生、一番心のバランスの悪い時などと言われることがありますが、その時、父が毎晩していた家庭礼拝の時に、この聖書の言葉を私に聞かせてくれました。私はこの聖書を読んだときに、そうか、このことを、つまり神は主イエスをよみがえらせてくださったと信じるなら、救われる。自分は信じている。ならば、そう告白して洗礼を受けようと決心したのでした。

 それから35年以上たちました。この聖書はその後、こう記しています。「この方に信頼する者は、誰も失望させられることはない」。この言葉は、本当だということを、ここにおられる多くの方々と共に、私も証しすることができます。自分に失望したことは何度もあります。自分の思い描いたように事柄が進まなくて、苦しんだことは何度もあります。しかし、よみがえりの主に失望したことはありません。もし、私が落ち込んだとしても、立ち直ることができたのは、いつもこの主が支えとなってくださったからです。聖書の言葉があったからです。

 とても、大切なことだと私は思っているのですが、ここに書かれているのは、主の十字架を信じるということではなく、主のよみがえりを信じるということです。それは、罪の赦しを信じるということだけでは足りないからです。罪が赦されても、そのあとどう生きるのか。私たちにとって、大切な、そのあと、どう生きるかということです。

 今日洗礼を受けられた方もそうです。これからが大事なのです。どうあなたは生きるのか。主はよみがえられた。それは、主は新しい命を私たちに与えてくださるということです。私たちの主は、死からよみがえられたお方です。死という絶対的な力に勝利をなさったのです。この主を信じるということが、私たちに、大きな平安をもたらすのです。
 
 聖書はこう言っています。

この方に信頼する者は、誰も失望させられることがない。

 このみ言葉を、是非味わう歩みをこれからしていくことができるようにと祈ります。

 お祈りをいたします。

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