2019 年 7 月 21 日

・説教 マルコの福音書16章1-8節「空虚な墓」

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2019.07.21

鴨下 直樹

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 ここにとても美しい物語があります。安息日が終わりました。当時は日が沈むと一日が終わりと考えられていました。ですから、夜から新しい日と考えたのです。主イエスが亡くなって墓に葬られてから、ここに名前の記されている3人の女の弟子たちは気が気ではありませんでした。何とか早く主イエスの埋葬された遺体に油を塗って死の備えをしたいと思っていたのです。それで、油を安息日が終わったその晩のうちに準備したのでしょう。そうして夜が明けるのを待って、墓に急いだのです。けれども、一つ大きな問題がありました。それは、主イエスの墓に転がされている大きな石のふたを動かさなければならないという問題です。

 ところが墓に行ってみると、自分たちの問題としていた墓の石が転がしてあるのです。ほっとしたかもしれません。普通なら、これで問題解決です。目の前に差し迫った問題はこれでクリアーされたわけです。ところが、墓の中に入ってみると、真っ白な衣をまとった青年が右側に見えます。そして、彼はこう告げたのです。
6節です。

「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを探しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」

 その知らせは衝撃的な内容でした。確かに墓のふたの石を転がすという差し迫った問題はあったのですが、それが解決したと思ったら、もっと大きな、そしてとてつもない問題がそこで突き付けられたのです。肝心の墓の中にあるべき主イエスの体がないというのです。

 この出来事を読んだ人はここで一気にいろんなことを考えはじめるわけです。なぜ、男の弟子たちの名前が出てこないのだろう。弟子たちは一体何をしていたのだろうということがまず気になります。その次に、この墓にいた青年ですが、天使ではなかったのかと、復活の出来事を知っている人であればそこが気になるかもしれません。そして、最後の8節まで読んでいくと、さらに気が付くのは、よみがえったはずの主イエスの姿がどこにも描かれていないということが気になるのです。そして、さらには、ここを最後まで読むと、8節にこうあります。

彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そして誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 マルコはこの大切な復活の場面を描くところで、誰がどのように変えられたかというような信仰の言葉を書かないのです。誰がどう信じたのか、どう受け止めたのかということは、最後の一文章だけを書くのにとどめています。そして、その文章というのは、「恐ろしかったからである」という言葉が書かれているだけなのです。もう少し、気の利いた言葉でまとめてくれてもよさそうなものですが、マルコは起こった出来事だけを淡々と記録しているのです。

 ですから、この福音書を読む人は、その後どうなったのか気になって仕方がありません。おそらくそういうこともあって、後になって、このマルコの福音書には、実に多くの人々がこの後の出来事を書き加えました。それが、9節以降です。けれども、聖書にはそのところはみなカッコ書きになっています。これは、明らかに後の時代に書き足されたことがわかっているので、このようになっているわけです。ですから、この9節以降についてはここで取り扱いません。8節のこの言葉で本来のマルコの福音書は終わっているのです。

 このマルコの福音書の書き方は他の福音書の書き方とはまったく異なっています。復活の主イエスと出会った時にどうであったのか、弟子たちが何を思ったのか、どう行動したのかということは、まるっきり書かれていません。ここには、その日の朝の出来事はこうでしたということが淡々と記録されているだけなのです。そして、だからこそ、このマルコの記録には真実味があるわけです。
 復活というのは、こういうことなのだということを、ここを読むと改めて考えさせられます。当たり前の出来事ではないのです。信じられない出来事です。そして、マルコはここで、3人の女の弟子たちが、逃げて、気が動転していて、誰にも何も言わなかったのだ。その理由は、彼女たちが恐ろしかったからだと書いたのです。それで、終わりです。

 しかも、原文には最後にガルという言葉で終わっています。「なぜなら」という言葉です。「なぜなら」と書きながら、そのまま終わってしまっているのです。

 これは、こうも読めるわけです。マルコはこの復活の出来事をどう受け止めるのかは、読むあなたにかかっているのだという事です。マルコのこの書き方は、すべての人がするであろう反応です。何も特別なことではありません。信仰があるとか、ないとか関係なく、こんな出来事を目の前にしたら誰もが驚く。怖いと思う。それだけのことしか書いていないのです。

 マルコの福音書は最初に書かれた福音書です。マルコは他の福音書と違って、弟子たちがこの出来事の中でどのよう受け止め、どのように信じるようになっていったのかということを全部省略してしまっているのです。それは、全部、あなたがたに任せたと言わんばかりです。

 読む方からすれば、もう少し何とか書きようがあるだろうという気がしてしまいます。けれども、マルコはその反応のすべてを読み手に託したのです。何とか信じさせようと工夫して書いて見せるのではなくて、ただ、その時に起こった出来事を淡々と記録して、あとはあなたに任せます。「なぜなら」の後は、「自分で考えて」と言っているのです。

 そこで、どうしても考えるのはこの最後の言葉「恐ろしかったからである」という言葉です。一体、この三人の女性たちは何を恐れたのだろうか、と考えてみるわけです。

この時、女の弟子たちは何を恐れたというのでしょう。彼女たちが目の当たりにしたのは、からっぽの墓と、「あの方はよみがえられました。ここにはおられません」というメッセージだけなのです。

 この出来事から考えられることは二つです。本当に主イエスはよみがえられたのか、それとも誰かが遺体をどこかに移したかです。ほかの選択肢はないのです。結局のところ、この「よみがえられた」という言葉を耳にして信じるか、疑うかという二つの選択の前に立たされるのです。これが、この時に起こった出来事でした。信じたとか、信じていないとかということは、ここでは直接には書かれてはいないのです。つまり、この福音書を読む人はみなここで同じところに立たされるわけです。主イエスの復活という出来事の前に、みな同じように立たされるのです。

 そして、この出来事をどのように受け止めるのかということで、まるで違う結論に導かれるわけです。多くの日本人にとって、主イエスの復活という出来事はそもそも関心がないのかもしれません。だから、99パーセントの人にとってはこの出来事は何の意味も持たない出来事として通り過ぎてしまうのです。

 けれども、この時に起こったことは、そのまま通り過ぎていいことなのか。無関心でいられることなのかということを真剣に考えなければならないのです。確かに、この世界に命が与えられている人の100パーセントの人がやがて死を迎えます。死なないとう人はいないし、不老不死を手に入れた人もいまだかつてありません。けれども、死んだ人がよみがえったとなると、話は変わります。人のいのちは死で終わりではないということになるからです。

 病に侵されて、もう余命何日という中で、延命治療を選択する人は少なくありません。少しだけでも長く生きてほしいと家族が願う気持ちもよく分かります。先週末に脳梗塞で入院されたOさんが、回復していると聞いて喜ばない人はいないのです。

 死は、誰もが恐れます。そして、誰もが不可避であるということをよく理解しています。そして、いまここで、墓に葬られた主イエスの体がないという事実を目の前に、この三人の女の弟子たちは立たされているのです。そして、その空っぽの墓を指さしながら、真っ白な衣をまとった青年が「あの方はよみがえられました」というメッセージを語っているのです。

 はたして、これはどういうことなのか。頭の中でぐるぐる考えたに違いないのです。そして、もしこれが事実だとしたらどういうことになるのだろうかと考えると、そこで恐れの思いが浮かび上がってきたのは、想像するに難しくはないのです。

 主イエスはいま生きておられる。墓の中にはいない。ではどこにおられるのかと考えるのは当然のことでしょう。すると、「あなたがたより先にガリラヤに行かれます」というメッセージが語られるのです。

 その意味は、ガリラヤに行けばはっきりとします。そこで主とお会いできるのです。しかし、果たしてそんなことが現実としてあり得るのか、きっとこの知らせを聞いた時、女の弟子たちは自問自答したはずです。これを人に話してもいいことなのか。そんな思いも浮かんできたのかも知れまのせん。それよりも、そもそも主イエスのお体そのものがないのです。あるはずの体がないのです。それは理解できないことです。そのうえに、いろいろなことをまくしたてられても混乱するばかりということであったのかもしれません。ここで、この女性たちは唯々、自分の理解も思いも、予想をもはるかに超えた出来事を目の前に突き付けられているのです。それは、とてつもなく恐ろしいこと、怖いことであったのです。

 それが、主イエスの復活です。そこには常識というものが存在しないのです。当たり前のことではないことがここで起こっているのです。

 この出来事から、人はいったい何を感じ取ることができるのでしょう。ある人は、この出来事を耳にしても、「ふーん」と思うだけの人がいるのです。関心がないのです。自分のこととして読まなければ、そういう反応になるのは理解できます。

 けれども、ある人はこれはどういうことかと、そこで考え始める。そして、それは恐ろしいことだと考える。それも、恐怖ということではなくて、ここで何かが起こっているということを感じ取る感覚です。

 私はそれを、「聖なるものにふれる経験」という言葉で表現したいと思うのです。そして、それがないと、復活という出来事は私たちに何ももたらさないのです。

 主イエスは死からよみがえった。確かに十字架で殺され、墓に葬られたのです。何人もの人がそれを見ていたのです。ところが、三日の後、その墓はからっぽなのです。あるのは、もはや何の意味も持たなくなった空虚な墓があるだけです。これは、どういうことなのか。この空虚な墓はいったい自分になにをもたらすのか。もたらさないのか。

 この4月から私は教会員のみなさんの家をすべて家庭訪問しようと決めまして、週に一人か二人ずつですからなかなか進まないのですが、これまでに半分近い方々の家を訪問させていただきました。話のテーマは葬儀の備えです。ご夫妻で一緒に教会に来られている方もあれば、家族の中で自分だけが信仰を持っているという方も少なくありません。そういう場合は、クリスチャンではない家族の方も一緒にお話しできるようにお願いしていまして、まだクリスチャンではない何人かのご主人とも一緒に話をさせていただいています。そして、本当にいい時間が持てていることをとても感謝しています。もう、何度も祈祷会などでは話しているのですが、そのご主人たちのほとんどが教会のお墓に一緒に入るということを検討しておられ、とても驚いているのと同時に、とてもうれしく思っています。

 最近、本屋さんでも「お墓ぐらいは別々がいい」というような本も出ているような時代です。けれども、夫婦で一緒に教会の墓に葬られることを望んでいる方が多いというのは、そこにはいろんなメッセージが詰まっているように思うのです。死んでも一緒にいたいということもあるでしょう。子どもたちに夫婦が一つとされている姿を見せたいということもあるかもしれません。あるいは、子どもたちに迷惑をかけたくないけれども、教会では毎年墓地礼拝をしているので、子どもたちに墓参りの苦労を掛けなくても、教会では毎年記念礼拝をしているということに平安を覚えているということなのだとも思うのです。そして、私は思うのです。もうそこまでいったら、あと一歩というところまで来ているのではないかと。つまり、人は死んで終わりではなくて、神の支配の中で生き続けるという福音に心を開き始めておられるのではないかと感じるのです。

 聖なるものにふれる経験。そこには恐れが生まれます。それは怖いということだけではない、おそれを引き起こす体験です。認めざるを得なくなる体験。それぞれの家庭で、一緒に教会に行こうと声をかけても、今更こっぱずかしくて一緒に教会なんて行けやしないという気持ちがあるのかもしれません。けれども、その信仰をみながら、聖なるものにふれる経験というのを家族はしているのではないか。そう思うのです。

 三人の女の弟子たちはここで聖なるものに触れているのです。死を打ち破るいのちの主に触れているのです。そして、この空虚な墓を目の前にして、何事かがここで起こったのだということを認めざるを得ないのです。まだ理解できているわけではない。はっきりと言語化できるわけでもない。「何も言わなかった。恐ろしかったからである」。この反応は誰もができる反応であるのと同時に、聖なるものに触れたものだけができる反応なのだということも、また言えるのだと思うのです。

 残念ながらここにペテロはまだいないのです。この場に居合わせたのは女の弟子たちばかりでした。これが、現実なのでしょう。けれども、確かにここでみ使いは告げるのです。「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい」と。「イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。」この知らせがペテロの耳にもたらされるのには少し時間がかかったようです。けれども、この知らせは届いたはずです。なぜ、こんなことをみ使いが告げたのか。その理由は一つです。

 「あなたを待っている」という主からのメッセージです。トレンディードラマなら、最終回で、恋人を追いかけて空港まで走るような場面です。感動的なバックミュージックとともに、空港まで必死に走るような、そういうハイライトをマルコはここで準備しているのです。

「なぜなら」、そう最後に書いて筆をおいたのです。「なぜなら」、この知らせを聞いたペテロなら、ガリラヤまで走るだろう。このみ使いが語った言葉の持つ意味が分かるだろう。どんなに主イエスがペテロを愛していたか。いや、ペテロだけではない、私たちを愛しておられるか、主はよみがえって、この知らせを信じて、自分のところに走ってきてくれることを待っておられるのです。なぜなら、主はあなたを愛して、あなたのためによみがえられたのだから。あなたを離ればなれになんかしない。あなたを見捨てやしない。墓の中ではなくて、永遠の神の国であなたとともに過ごしたいと思っておられるのだから。それこそが、ここで語られている主イエスから私たちへのメッセージなのです。

 それこそが、神の子、イエス・キリストの福音なのです。

 お祈りをいたします。

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