2019 年 8 月 4 日

・説教 使徒の働き17章1-10節「パウロのテサロニケ伝道」

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2019.08.04

鴨下 直樹

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 今日から、ともにパウロがテサロニケに書いた手紙からみ言葉を聴いていこうとしています。そのために、今日は、パウロのテサロニケ伝道がどのように行われたのかが書かれている使徒の働きの17章の1節から10節までのところに目を向けてみようと思っています。もっとも、本来は9節で区切られています。けれども、この10節に大事なことが書かれていますので、読んだ印象としては中途半端ですけれども10節までを選びました。今日は、このところからみ言葉を聴いていきたいと思っています。

 パウロがテサロニケで伝道したのは第二次伝道旅行の時です。その前にはピリピで伝道しています。ところが、ピリピでの伝道の半ばで投獄されてしまい、そのあと釈放されます。そしてテサロニケにやってきたわけです。ところが、今お読みしましたように、テサロニケでもあまり長い間伝道できませんでした。ここには三回の安息日にわたって、ユダヤ人の会堂、つまりシナゴグと呼ばれるところで、伝道したと書かれています。そうするとわずか20日程度の伝道であったということになります。もっとも、この時のパウロの伝道でテサロニケに教会が生まれます。その時生まれた教会にパウロは手紙を書いているわけですから、実際に20日程度だけしかテサロニケにいなかったどうかは分かりません。会堂で伝道した期間が3週にわたってということであって、もう少し長く留まったのではないかということも考えられます。パウロがこのテサロニケの町でどれくらいの期間伝道できたのか明確なことは分かりません。

 パウロはピリピ人への手紙の中でテサロニケでの伝道のことを書いていますが、その4章の16節で、「テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。」と書いています。この箇所をそのまま素直に読むと、二度にわたってピリピの教会から支援を受けているわけですから、3週間の間に二度支援が送られてくることもあり得るとは思いますけれども、もう少し長くとどまっていたのではないかと考えられています。パウロのテサロニケの伝道期間についてはいろいろな意見がありますが、半年くらいはテサロニケにいたのではないかという考え方もあります。もちろん、はっきりしたことはこれ以上書かれていないので、分かりませんけれども、ひと月から数か月という短い期間に、パウロはテサロニケで伝道をし、そこで教会が生まれたということは間違いなさそうです。

 さて、このテサロニケへの手紙ですが、書かれたのは紀元50年頃ということがすでに分かっています。そして、パウロがこの地域を訪ねたのはその前の年の49年頃ということまで分かっています。そして、実は、このテサロニケの手紙第一は、新約聖書の中ではじめに書かれた手紙ということになるわけです。パウロはその後も何度も何度も手紙を書いていますから、この最初の手紙ということになると、この手紙がどれほど大切な意味を持っているのかが、よく分かってきます。というのは、パウロは短い期間しか伝道できずに、この地を去らなければならなくなってしまったこの教会のために、できるだけ早く、手紙を書き記して、パウロの心にあることを知ってもらいたいと考えたということです。どんなことをこの手紙でパウロが伝えたいと思ったのか。それは、これから少しづつ聞き取っていきたいと思います。

 今日のところは、使徒の働きの中で、パウロがどのようにこのテサロニケの伝道をしたと記されているのか。そのところを少し丁寧に見てみたいと思います。先ほども言いましたように、パウロのこの第二伝道旅行というのは大変な伝道になりました。投獄されたり、暴動がおこったりの繰り返しです。けれども、なぜそんなことになったのかということを見てみると、パウロの伝道の仕方に注目する必要があります。

 このテサロニケという町は、マケドニア州の州都です。ですから、この地域でもっとも大きな町であったわけです。テサロニケは州都ということもあって、ユダヤ人たちがたくさん集まってきていました。それで、会堂、シナゴグを持つことができたわけです。このシナゴグというのは、成人したユダヤ人が15人いれば作ることができました。15人いない場合は祈りの場と言われるところを作っていたわけです。そして、このシナゴグにはユダヤ人たちだけではなく、ギリシャ人たちもこの集まりに加わっていました。それが、「神を敬う人」と4節で言われているような人々で、シナゴグには何人も集まって来ていたようです。またここには、「かなりの数の有力な夫人たち」も集っていたとも書かれています。パウロは、テサロニケの町を訪ねて、こういう人々がすでに集まっていたユダヤ人たちの会堂で3回の安息日にわたって伝道をしたのです。

 この3節に書かれていることが、テサロニケで語ったパウロの説教の中身です。つまり、

「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです」

と、宣べ伝えたのです。この「宣べ伝えた」とここに書かれている言葉は、やがて教会で「説教」と訳される言葉になりました。この説教の中身は何かというと、キリストの受難と復活です。これこそが、パウロの伝道の中心的の内容でした。

 「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえる」これが、旧約聖書が語ってきた約束の預言であり、この予言は主イエス・キリストによって成就したのだとパウロは説教したのです。

 その説教を聞いてどうなったのか。4節にこう書かれています。

彼らのうちのある者たちは納得して、パウロとシラスに従った。

と。「納得する」-以前の翻訳では「よくわかって」と書かれています。新共同訳聖書では「信じて」と訳しました。もともとの言葉は「説得する」という意味の言葉の受け身の言葉です。パウロの説教に説得させられたわけです。納得したのです。聖書の約束されたキリストが、約束の言葉が、主イエスの受難と復活の出来事によって成就したのだということを納得したのです。それは、もちろん聖霊の働きによるものですけれども、納得できるようになるということが、主イエスを信じるということと一つなのです。

 今、私は来週のお盆休みの時に長老教会の学生キャンプに呼ばれていまして、そこで4回の説教をすることになっていまして、その準備をしています。中高生とスタッフを合わせて80名を超える参加者があるのだそうです。そういう若い学生たちに説教をする。そこで、私がすることは何かというと、はやり、パウロがしたように、主イエスの受難とよみがえりを語る以外にないのです。そして、その言葉が学生たちを説得できるか、納得させられるかということにかかっているということを覚えさせられているわけです。

 先週、私は前から気になっていました一冊の本を買いました。ちくま新書の『キリスト教と日本人』という石川明人という方の書いた本です。私はこの石川明人という方のことを知らなかったのですけれども、いろんな本を書かれている方で、戦争と宗教ということを主に取り上げておられる方のようです。この本の帯にこんな言葉が書かれています。「世界最大の宗教をなぜ日本人の99%は信じないのか?」 興味深い問いかけです。しかも、本の内容はというと、これまでの宣教師たちが日本でどんな福音を語って来たのかというものです。

 いろいろな宣教師、それこそザビエルとかフロイスとかという宣教師をはじめとしてさまざまな宣教師たちの伝道を分析し、いろいろな本を引用しながら、さまざまな角度からの分析をしています。遠藤周作が語った、「日本は沼地で、ここに苗を植えても根が腐ってしまう」という言葉や、宣教師たちが福音と同時に自分たちの文化を中心にした伝道してきたのではないかという批判も上げています。あるいは、日本人はすぐに役に立つ神を求めるという性質があるのではないかという分析を紹介したり、罪を自覚させて悔い改めさせることを一生懸命行うためにあたまでっかちな宗教になってしまったのではないかという言葉も紹介しています。

 そして、こういったことの中に、信仰というのは、「教えを信じること」という理解がまずあって、疑うことは悪であるというような刷り込みがあって、それが足を引っ張っているのではないかというようなことを書いています。そして、この本の最後の方には、いろんな信じ方があるのではないかということを、ここで記しています。

 話が長くなってしまいましたが、パウロの説教を聞いた時に、納得したということが書かれています。それは、主イエスの受難と復活ということを受け入れたということですけれども、その中身についてそれほど細かくいわれているわけではないわけです。それは、私たちの信仰でもそうだと思います。みなさんの救いの証を聞いていると、本当に十人十色です。時々、そういう証を聞いていると、自分の信じ方はまだ不十分なのではないかと自信を無くしてしまう人が中にはあるようですけれども、納得するというのは、その人それぞれなのであって、一律にこうでなければならないということではないわけです。

 今度のキャンプでもぜひ話したいと思っているのは、いろんな信じ方がある。特に、学生の時というのは、ついつい人と比較しがちです。そして、自分の信じ方に自信がなくなってしまうことも少なくないのだと思うのです。けれども、疑い深いトマスのような人物もいて、ペテロのように大事な時に失敗してしまう人もいて、そして、このパウロのように、行く町行く町で迫害にあって、自信をなくしてしまいそうになっても、それでも主の働きをし続ける者がいるという姿を知ってほしいと願っているのです。そして、それは、私たちもいつも、そのことを覚えていたいと思うのです。

 というのは、今日は10節まで読んだのですが、この10節に書かれていることはこういうことです。

兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレヤに送り出した。

 この前には何が書かれているかというと、パウロの伝道の時にはいつも起こることですけれども、ユダヤ人たちがパウロの語る福音に対して邪魔をしはじめたわけです。そのために暴動が起こってしまって、テサロニケの教会のヤソンという人が捕まってしまいます。理由はパウロたちが見つからなかったためです。どうも、教会の人たちが、捕まえられないようにパウロたちを隠したのです。そして、どうなったかというと、夜のうちに、テサロニケから逃げ出したわけです。

 この暴動はなぜ起こったのかというと、7節に書かれていますけれども、「『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています」と言ったのです。これは、主イエスがユダヤ人の王として殺されたことと同じ理由づけをして、パウロが語っているキリストは、ピラトによって、ローマの王に対する反逆罪ですでに十字架刑が執行されている。そのような者のことを語っているのだとして、パウロの伝道を妨げようとしたのです。そして、パウロたちを捕らえようとしたのです。

 このユダヤ人たちのやり方にいち早く反応した人々が、パウロとシラスをこっそりどこかに隠して、夜のうちに逃がしたということだったわけです。これは、出来事だけを見ているとハラハラするスリリングな展開ですが、実際にこの教会の人々の立場で考えてみると、複雑です。もちろん、パウロ先生たちに捕まってほしくないという思いがあったと思いますけれども、パウロもシラスも夜逃げしたということなのです。

 もう、教会に行ってもパウロもシラスもいないのです。なんだか、がっかりしてしまうような気持ちはどこかにあったと思うのです。教会の牧師が町の暴動にあって、先頭に立って戦うのであれば勇ましいということにもなると思いますけれども、夜の間に逃げてしまったわけです。そして、もっというと、このあとのベレヤでも同じことが起こります。この前のピリピでもそうです。パウロはここのところ、逃げてばかりなのです。別の見方からすれば、パウロの伝道というのは、一か所に長い間腰を据えてじっくりと伝道したわけではなくて、あっちで少し伝道して、こっちでまた少し伝道してということの繰り返しであったわけです。だから、たくさんの地域で伝道ができたということも言えるわけです。

 それを成功といえるのかどうかは、もちろん後の歴史が判断することなのかもしれませんし、後の歴史では、パウロは偉大な伝道者ということになっているわけです。けれども、その中身はというと、僅か半年程度の伝道で作り上げた教会、そんな教会ばかりであったということもできるわけです。

 もちろん、神様がそのことをゆるされたわけですから、それで良いわけです。そして、私たちの信仰も、そのように、いろいろな従い方があっていいということにもなるわけです。ただ、大事なことは、ここに記されているように、私たちの主は、私たちを救うために苦しみにあわれ、そして、よみがえられたのだということです。

 パウロも苦しんだ、そして、私たちも苦しむことがある。その苦しみの内容も人それぞれです。けれども、主はその苦しみをよく理解してくださるのです。そして、その苦しみだけで終わらないことを、その歩みにおいて示してくださったのです。

 「復活」これこそが、私たちの希望です。それは苦しみを打ち破るものです。死を滅ぼすものです。困難で終わることのない希望です。このことを私たちは、私たちなりの仕方で納得するとき、この希望に生きる信仰が与えられるのです。

お祈りをいたします。

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