2019 年 8 月 11 日

・説教 テサロニケ人への手紙第一 1章1-10節「神に愛されている兄弟たち」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 13:00

2019.08.11

鴨下 直樹

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 先週、私はいつもとは少し違う一週間を過ごしました。というのは、明日から木曜日まで長老教会の主催する学生キャンプの講師を頼まれまして、そのための説教の準備のためにほとんどの時間を費やしました。おそらく、一週間の間で5つの説教を作るというのははじめての経験だったと思いますが、なんとか5つの説教を書き上げることができました。

 と言っても、礼拝の説教とは少し違っていて、このキャンプにはテーマがあります。そのテーマに基づいて説教をつくるわけで、いわゆるテーマ説教とか、主題説教と言います。

 長老教会の先生と何度か連絡をしあいながら、どんなことを狙っているのかお聞きしながら、説教の準備をするわけで、私がこれまでしてきた説教をところどころ取り入れながらの準備でしたので、礼拝説教の準備よりは少し時間が短くてすんだというところがあります。このキャンプのテーマは「Stage of the Lord」というテーマでした。「私たちの人生は主が備えてくださったもの」そんなことを願っているということでした。

 こういう英語がでてくると、分かったような分からないような気持ちになる方もあるかもしれませんが、いつもの聖書の言葉でいうと「神の国に生きる」とか「神の御支配の中で生きる」ということと同じことだと言っていいと思います。そして、このことは福音の中身ともいえるわけです。学生たちに、神の国に生きるというよりも、もう少し具体的なイメージのある言葉で伝えようということなのでしょう。神が私たちの人生のステージを備えていてくださる。そういうテーマでキャンプの中で4回のメッセージをしようと思っているわけです。

 その準備を終えて、このテサロニケ人への手紙の第一を読み始めたわけですけれども、なんだか、この4回のメッセージの続きを書いているようなそんな気持ちになっています。

 今日からパウロがテサロニケに宛てた手紙をともに耳を傾けていきたいと思っているわけですが、パウロのテサロニケでの伝道については先週少しお話しいたしました。このテサロニケという町の近くにはアテネとかコリントという有名な町があります。もっともアテネとコリントは隣のアカイア州ですが、テサロニケはマケドニア州にあります。このテサロニケは州都ですから、この地域のもっとも大きな町であったといえるわけです。パウロはこのテサロニケで一か月から半年の間だったでしょうか、その期間に伝道をしましたが、最後は半ば夜逃げのようにして、この町を離れなくてはなりませんでした。それで、このできたばかりの教会のために手紙を書きました。それが、このテサロニケ人への手紙第一です。
 1節にこう書き始めました。

パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたにありますように。

 この手紙を書いた時に、シルワノとテモテが一緒でした。シルワノというのは、使徒の働きでは「シラス」と書かれている人です。どうもこのシルワノというのはラテン語の言い方のようです。この三人はテサロニケの町で伝道して、福音を語りました。そして、そこで語られた福音を聞いて、信じた人々がいたわけです。

 それで、パウロはこの手紙でこの信じた人たちのことをこう言いました。

「神に愛されている兄弟たち、私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています」

4節です。
 たくさんいるテサロニケの中でも、福音を聞いて信じた人たちがいる。その人たちは「神に愛されている人、神に選ばれた人」なのだと言ったのです。多くの人がいるなかで、たくさんの人が福音の言葉を聞いたわけです。その中から信仰に生きるようになったというのは、神様に愛されているから、神様に特別に選ばれているからだとパウロは言ったのです。

 明日から、私が行くことにしている「長老教会」という教会は宗教改革者カルヴァンの流れにある教会ですが、このカルヴァンはこの神の選びということをとても大切に取り扱った人です。もちろん、それは長老教会だけではなくて、キリスト教会の多くの教会は幼児洗礼というのをいたします。これは、この神の選びということを大切に考えているからで、神との契約の中で、与えられた子どもに洗礼を授けて、神の子どもとして育てていくわけです。そこには、神がわたしたちを、私たち家族を愛してくださっているという信仰があるのです。

 パウロがテサロニケの人たちに向かって、このように語ったのは、やはり自分がこの町で長い間留まることができなかったことと関係していると思います。あまり、じっくりと聖書の学びをすることができなかったわけです。聖書のことがよく分からない、クリスチャンとしてどのように生きるかよく分からないとなると、当然、自分の信仰に自信がなくなってしまうのは、私たちにもよく分かると思います。
 けれども、そういう不安を抱えている人に向かってパウロはあなたがたは神から愛されているし、選ばれている人だということを私はよく知っていますと語りかけたのです。

 そして、続いてこう語りました。5節です。

私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。

 私たちの福音は、あなたがたに届いた。どのように届いたかという事、言葉だけが届いたのではなくて、力と聖霊と強い確信を伴って届いたのだと言いました。言葉が届くということの中身をパウロはこういう言葉で表現したのです。ただ「ふーん、そうなんだ」ということで終わらずに、この福音の言葉のもつ力が聖霊によって強い確信となったはずだというのです。
 そして、つづく6節ではさらにこう言い換えました。

あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。

 苦しい状況の中にあったけれども、聖霊がその心の中に喜びをともなってみ言葉を受け入れて、その結果として私たちに倣う者となり、そして主に倣う者となったというのです。

 福音を聞いて、パウロたちの真似をするようになって、そしてそればかりか、キリストの真似をするようになっていったと言ったのです。

 福音というのは、聞くとそれがその人の生き方になるということです。ただ、言葉を聞いたということで終わらないで、そう生きるようになるというのです。

 私たちの人生は神様が備えてくれたステージに生きるということだと言う。そのためにはまず、パウロたちの真似をしてやってみる。そうやって、主にならって生きていくようになるのだというのです。

 今は、夏休みということもあって、朝から晩まで子どもがいます。来週の月曜から長老教会の学生キャンプのメッセージの準備をする合間を縫って、少し日中に子どもと一か所だけ出かけました。というのは、夏休みに入る前に、学校から一枚のチラシを貰って来まして、今、岐阜市の科学館で「キラキラの昆虫展」というのをやっているというのです。私は子供のころから昆虫好きなこともあって、娘より私の方が楽しんでいたかもしれませんが、この昆虫展を子どもと一緒に見に行ってきたわけです。

 科学館の催しを伝えるために綺麗なチラシが作られていましたし、テレビでもコマーシャルをやっていましたら、なんとなく行く気になったわけです。

 この昆虫展の催しの知らせというのは、パウロが語っている福音のようなものです。

 「神様が備えてくれているステージ」、つまり「神の国」という素晴らしいところに、人々を案内するために、この良い知らせを伝えたわけです。そして、そのお知らせを聞いて、何人かの人が、科学館ならぬ、神の国にやってきたわけです。それが、福音が届くということです。さぁ、神の国に入ったのはいいんですが、何をどうしたらいいか分かりません。それで、まず、この知らせをくれたパウロ先生の真似をしてみる、そして、この知らせの中心人物でもある主イエスのことを真似してみたら、この神の国の生き方がわかるかなと思って、やってみた、それがテサロニケの教会の人たちだとパウロはここで書いているわけです。そしたら、思いのほか、うまくいったようで、このテサロニケの人たちはみんなの模範になりましたというわけです。

 そして、その模範になったというのはどういうことかというと、それが9節と10節に書かれているわけですけれども、それまで偶像を大事にしていたことをやめて、神様を大事にするようになり、この神の国に主イエスがもう一度くることをわくわくしながら待ち望むようになった。そんなことがここに書かれているわけです。

 テサロニケの人たちはパウロの手紙がくるまでの一年ほどの間、どんな気持ちでいたのでしょう。直接教えられたのはわずかな期間しかありませんでした。しかも、教会の外には教会を目の敵にする人たちがたくさんいました。パウロのことを悪くいう人たちも大勢いたはずです。

 心細く思っている人々に、パウロはこの手紙を通して、あなたがたはもう神の国に生きている。神から愛されている選ばれた人々で、あなたがたは私たちにならって生きている。そして、それがこの地域の教会の模範にさえなっていると言われたのです。

 どれほど慰められたか分からないと思います。どれほど安心したことでしょう。きっとこれまでの不安や心配、自分たちはダメなクリスチャンなのではないかというような不安は、一気に消え去ったのだと思うのです。それほど、パウロのこの手紙の冒頭の言葉で、それこそ畳みかけるように次々に言葉を選びながら、テサロニケの人々を慰めることに力を注いだのです。

 このテサロニケの教会の人々の姿は、少なからず私たちにもよく分かるのです。そして、この手紙を聞くと、自分がこれまでどういういきさつで、神の国に生きるものとなったのかが、解き明かされていくのです。

 なんとなくやっていることが、今、ここでしっかりと言葉になったとき、それはより説得力を持ちます。そして、これからすることも、これまでと変わらずに、パウロたちに倣う事、主に倣って生きるということ。そのことに尽きるのだということが明確になっていくのです。

 具体的なイメージとともに頭で理解したことが、体に身につくにはなお時間がかかります。それを習得するためには、あとは基本的なことの繰り返しが必要です。泳ぎ方を説明されて理解しても、息つぎの仕方を言葉で説明されても、それを実際に行うことができるようになるには、なお時間が必要なのです。

 それが、倣うということです。水泳を習うように、キリストに倣うことを習っていくわけです。偶像を神とはしない、御子が天から来られるのを待ち望む、そして神の御子である主イエスが私たちを罪の裁きから救い出してくださる。そのことを心にとめながら、主イエスのなさった愛の業に留まるのです。

 それは、いつも、神とともにあること、教会に集い、聖書を読み、祈りをし、交わりをする。隣人を愛し、主の福音を宣べ伝える。こういうことを丁寧に続けていくことなのです。それが「模範」になっていくのです。

 この「模範」という言葉は「テュポス」という言葉です。これから英語の「タイプ」という言葉が生まれました。つまり「形」です。この生き方がクリスチャンの「形」になったのです。

 真似をすることが、「形」になる。そうやって、キリストを身につけていくのです。舞踊の世界でも、この基本的な「形」というのをまず身に着けます。スポーツでも同じことです。そして、それは信仰も同じことです。

 まず形からはいる。なんて言います。それは悪い意味で使われることもあるかもしれませんが、それがいつも基本なのです。

 先輩を真似、そして主イエスをまねる。これが基本です。そうやって、キリストの御姿を身に着けていくのです。そのように生きることが困難をも乗り越える力の源となり、力強く生きる土台となっていくのです。このようにして、私たちは、このキリスト者として神がそなえてくださった人生を、力強く生き抜く者とされるのです。

お祈りをいたします。

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