2020 年 3 月 15 日

・説教 創世記21章1-7節「イサクによる笑い」

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2020.03.15

鴨下 直樹

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 今、私たちはレント(受難節)を迎えています。主イエスがエルサレムに入られてから十字架にかけられて殺されるまでの一週間の出来事を覚え、教会は40日間という期間、主イエスの苦しみに思いを寄せながらこの期間を過ごそうというのです。その期間は好きな肉を断つということで、その前に謝肉祭(カーニバル)をして、たらふく肉を食べておこうというお祭りまで行われるようになりました。レントは自分を喜ばせることはしないという期間でもあるわけです。ですから、どこかで今日のテーマである「笑い」は、あまりそぐわないような気もします。

 「レント」が連想させるものが、「苦しみ」や「試練」であるとすれば、「笑い」を連想させるのは「喜び」や「幸福」です。それは本来相反するものです。けれども、苦しみや試練の先にあるものが「笑い」であり、「喜び」であるはずです。

 実際にアブラハムとサラは、40日間どころではない、25年もの間、神から子どもが与えられる約束をいただきながら、子どもがいない悲しみを味わっていました。けれども、今ここに、アブラハムは試練を乗り越えた先にある喜び、即ち、神から与えられた笑いを心から味わう時が与えられているのです。

 1節にこうあります。

主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。

 「主は約束したとおりに」「主は告げたとおりに」と書かれています。ここには「言う」「告げる」という言葉が使われています。そして、それを受けて「顧みられた」「行われた」という動詞が続いています。神が語られた言葉と、それを受けて起こった出来事が、ここで一つに結びついているのです。特に、この「顧みる」という言葉は、ヘブル語で「パーカード」と言いますが、神の救いの御業を表す言葉です。例えば、イスラエルがエジプトの奴隷から解放された時に、この「顧みる」という言葉が使われています。主なる神が心を向けてくださって、事を行ってくださるということです。

 そして、この言葉にはもう一つの意味もあります。というのは、この言葉は「訪問する」という意味の言葉でもあるのです。神が言葉を語られるときは、ただ口に出して相手に言葉を投げかけるということではなくて、その言葉がそのとおりになるように訪問してくださる、訪れてくださるという意味があるのです。このように、神が語られた言葉は、必ず実現するのです。
 
そして、その言葉のとおりの出来事が起こります。

サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ

と続く2節に記されています。

 神が語られた言葉は、そのまま出来事となるのです。この箇所は、まるでクリスマスの出来事と似ています。フランスのヴェルダンにある教会には、片方に降誕の出来事が描かれていて、もう片方には、サラがイサクを産んだ場面が描かれている祭壇画があるのだそうです。

 ちょっと珍しい祭壇画ですが、このイサクの誕生の出来事を正しく理解していると言えます。というのは、この時、サラから生まれたイサクは、アブラハムの子孫の第一子です。先に生まれたイシュマエルはアブラハムの子孫として数えられていません。このイサクは、直接の神からの約束の担い手であり、アブラハムに約束された神の救いの計画は、イサクから始まるのです。それは、新約聖書で語られているマリアから生まれた「主イエスのひな型」であったと言えるのです。

 私たちの多くは、この時に生まれたイサクのことをあまりよく知りません。先日、T兄が神学塾に入塾するための試験を受けました。その試験の中に、聖書の中に出てくる人物について二行で短く説明するという問題が出されることがあります。先日のテストにイサクという問題が出たかどうか、私は覚えていませんが、イサクについて書きなさいと言われたらみなさんはどんなことが書けるでしょうか。アブラハムとサラの子ども、イサクの子どもはエサウとヤコブ。そのくらいのことは書けるかもしれません。けれども、それは両親のことと子どものことを答えただけで、イサクの人となりについてはまるで答えていないのと同じです。

 この後の6節で、サラは

「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことを笑うでしょう。」

とあります。イサクという名前と「笑う」という言葉が関係していることは想像ができます。「人は笑う」というのが、「イサク」という名前の持つ意味です。そのことを知っている人は、イサクというのは「人は笑う」という意味だということを書けるかもしれません。このあとアブラハムがイサクを犠牲にささげようとしますが、それもイサクの出来事というよりはアブラハムの出来事です。

 このイサクは、神の祝福の担い手として誕生しました。イサクを通して、神の祝福がどのように実現していくのかを、私たちは知ることができるのです。ですから、このイサクのことをぜひ、よく知っていただきたいのです。神の約束の出来事として生まれたイサクが、どのように生きたのか。また、神の約束の言葉は、どのようにして、この世界に実現していったのかを、ぜひこれから続く創世記のみ言葉から知っていただきたいのです。

 さて、サラはこの時に「神は私に笑いをくださいました。」と言いました。一年前に、子どもが与えられるという約束の言葉を聞いた時、サラは神様の約束の言葉を信じることができませんでした。その時、サラは笑ったのですが、その笑いは90歳の者に子が生まれるはずがないという「自嘲」の笑い、あるいは、その知らせに対する「あざけり」という笑いでした。しかし、そのような、悲しみに染まった笑いを、神はここで心からの喜びの笑いにつくり変えてくださったのでした。

 「それを聞く人もみな、私のことを笑うでしょう。」との言葉の中には、人がみなこの知らせを聞いて笑顔になってくれるというニュアンスもあるかとは思いますが、同時に意地の悪い人の、あざける笑いもあるかもしれません。

 私たちの周りには確かに、この二種類の笑いが存在しているのです。明るい笑いと、根暗な笑いとが確かにあるのです。サラは、ここでその二つの笑いがあることも知っています。自分もかつてそういう笑いを経験したのです。サラの中にも、確かに根暗なものが、悲しみの笑いが支配したこともあったのです。けれども、サラはここでイサクが生まれたことを通して、たとえ人が自分をあざけったとしても、90歳の者が子どもを産んだとあざけられることがあったとしても、そのあざけりを笑い飛ばせるような確かな喜びに包まれているのです。それは、サラにとってどれほど大きな慰めであったことでしょう。夫は100歳、自分は90歳。そんな時に、神が私たちを顧みてくださって、神の祝福の喜びを経験させられているのです。アブラハムとサラはイサクの誕生を通してどれほど確かな喜びに支配されたことでしょう。

 この前の箇所で、アブラハムがサラのことを妹だと言ったということが再び取り上げられていました。考えてみれば、夫のアブラハムが妻サラのことを妹と言うことができたのは、子どもがないからです。子どもがいたら、そんな言い訳は通用しないのです。アブラハムは子どもが生まれる直前まで、そのことを理由に身を守っていたのです。それは、妻のサラにしてみれば深い悲しみであったに違いありません。しかし、子どもが生まれた時に、その言い訳はもはや使うことができなくなったのです。

 自分のことをお話して恐縮なのですが、私たちがドイツにいた時に、最後の半年、神学校から教会実習に派遣されることになりました。その時に、それまで暮らしていた町から、引っ越しをすることになりました。引っ越しをするときは、外国人局というところに出向いて、住居の移転手続きをしなければなりません。パスポートを見せて、手続きをしていると、係員の方が、「あなたがたは夫婦か」と尋ねられました。「夫婦です」と私たちが答えると、「それを証明できるか」と聞かれました。予想外の質問に驚きまして、パスポートに同じ苗字が書いてあるはずだと説明をしたのですが、するとその係員がこんなことを言ってきました。「妹かもしれないだろう。」

 私たち夫婦には長い間子どもがありませんでしたし、今から10年ほど前のことで、妻が若々しく見えたということもあるかもしれませんが、思わず「アブラハムでもあるまいし」と心の中で思ったことを思い出します。

 日本にはそういう書類はないのですが、ヨーロッパには「結婚証明書」というものがあるのだそうです。その書類を作るために、私たちは結局日本から戸籍謄本を取り寄せて、大使館に持って行って翻訳してもらい、そこで結婚証明書を作ってもらって、ようやく住所変更の手続きができたという経験があります。なぜ、そういった手続きが必要だったのか今でもよく分からないのですが、もしこの時の私たちに子どもがいたらそういう問題はなかったのかもしれません。

 サラは90歳にして子どもが与えられました。それによって、今、自分がアブラハムの妻であるということを明らかにすることができるということは、サラにとってこの上もない喜びであったに違いないのです。主はアブラハムだけでなく、サラの心をも取り扱ってくださったお方です。長い間の悲しみを、サラは子どもが与えられるということを通して、喜びに変えてくださったのでした。
 
 そして、そのことと同時にサラは、もう一つのことを考えさせられたはずです。それは、自分は神の約束を信じられなかったということです。イサクが生まれた時に、サラはこの自分の不信仰と向き合わなければならなかったはずです。

 ある牧師の説教を読んだ時に、こんなことが書かれていました。「サラは妊娠を知ったときに、自らの不信仰を恥じたはずだ」と。とても鋭い洞察だと思いました。私は、聖書を読む楽しさはそういう発見をすることだと思うのです。この時のサラの気持ちに身を置いてみる時にだけ、見えてくるものがあるのです。そういう発見を繰り返していくことが、聖書を読む楽しさです。その牧師はこうも言うのです。「ここには不信仰に堕ちていたアブラハムとサラに対する神の裁きがあります」と。

 イサクの誕生は、アブラハムとサラに対する神の裁きだと。びっくりする言葉でした。神の裁きは、神の約束の言葉を信じられなかった二人に対して、もうそれ以上不信仰に陥ることがないように、その語られた言葉を、出来事にしてしまうのです。その時、もう認めるしかなくなるのです。自分の不信仰を恥じるほかなくなるのです。神が、顧みてくださるということは、神が訪問してくださるというのは、不信仰から脱却できる時なのです。つまり、神の裁きとは、神の救いの出来事が起こるのと同じことでもあるのです。

 人に隠していることがある。罪というのはそもそもそういうものです。隠し続けている間、その隠し事に心を痛め悩みます。けれども、ある日、自分の隠し事が見つかってしまう、ばれてしまう。もう申し開きもできないほどに、その罪が明らかにされるとき、人は腹をくくらなければなりません。みじめな自分を、醜い自分を、さらけ出さなければなりません。それが、裁きの一面です。けれども、別の視点からいえば、もう明らかになったのであれば腹をくくって自分の非を認め、ではどうするのか、そこから自分を変えていくことができるという面もあるはずなのです。

 人のものを盗んでいる。人をだましている。裏切っている。それが明らかにされてしまうということは、自分の顔をつぶすことです。謝罪が必要になるときもあります。自分の力ではどうすることもできないような負債を払わなければならないというような場合もあるでしょう。けれども、いずれにしても、それはどこかで明らかにして、改めなければならないのです。そして、そのことが明らかになったのであれば、新しいスタートをそこからやり直すこともできるはずなのです。それがどんなに大変なことであったとしても、隠したままにしておくよりはよいのです。裁きの時というのは、新しく始めることのできる時、救いの時でもあるのです。

 アブラハムとサラは、約束を与えられながら信じられないで来たこの25年間の歩みに、ここで決別し、子どもが生まれたということを通して新しい歩み、今度は信じるという歩みを、ここで新たにされているのです。

 その時に生まれ子どもの名前は「イサク」です。「人は笑う」という名前です。

 アブラハムとサラは、イサクと共に、ここから信仰の歩みを、笑いのある歩みをスタートさせることができたのです。そのための神の裁きの御業が、ここで起こったのです。

 100歳と90歳の夫婦の腕に「イサク」、「人は笑う」という名の赤ちゃんが抱かれるようになったのです。

 主なる神は、不信仰な者にも、疑い深い者にも、喜びを備えてくださるお方です。罪のある者を、隠し事がある者にも、神は新しいことをなさせてくださるお方なのです。神の言葉は、語られると必ず出来事となるのです。それは必ず実現するのです。神の言葉の前に、私たちは自分の罪を悔い改めて、新しい者へと造り変えていただけることを、私たちも信じたいのです。

 お祈りをいたします。
 

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