2020 年 3 月 22 日

・説教 創世記21章8-21節「エル・ロイ」

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2020.03.22

鴨下 直樹

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 今、世界中で蔓延している新型コロナウィルスのために、世界中で大きな混乱を引き起こしています。フランスなどでは100人以上集まる集会は禁止されました。そういうこともあって欧米では実際にかなりの数の教会が教会堂で礼拝をすることが困難な状況を迎えています。外出禁止令が出された地域も多くあり、アメリカやイタリア、スペイン、フランス、ドイツなどでも非常に多くの人々がこの病に感染し、多くの死者が出始めています。このかつてないほどの危機的な状況のために非常事態宣言が出されているのです。

 そのために、世界中の経済活動が停滞し、収入がなくなってしまう人たちがたくさん出ています。それでも、病気を広げないために自宅に留まるということは、どれほど厳しい苦渋の決断を迫られるかわかりません。

 苦渋の決断。それは、一つの決断をしたとしても、そこに苦しみや苦さが残ることを指している言葉です。そして、私たちはこの朝、ここに集まって聖書のみ言葉を聴こうとしています。今日、私たちに与えられているみ言葉は、アブラハムが苦渋の決断を迫られているところです。

 アブラハムはここで苦渋の決断を迫られています。なぜなのでしょうか。アブラハムとサラに与えられた約束の子、イサクはここで乳離れの祝いを迎えています。3歳から4歳くらいではないかと思われています。その乳離れの祝いの時に、その出来事は起こりました。もう一人の息子、この時には少年に育ったイシュマエルが、まだ乳離れしたばかりの幼子イサクをからかっていたのです。子どものしたことだから、気にしないということもできたと思いますが、妻のサラは気にしないでおくことはできませんでした。実際、この「からかっているのを見た」という翻訳のところに注が付いていまして、「あるいは、笑っている」と書かれています。協会共同訳では「遊び戯れているのを見て」と訳しています。ほほえましい光景にみることもできるわけですが、見方によっては「からかっているようにも見える」ということが、翻訳からもうかがえます。実際に、サラはその光景をほほえましくは見られなかったようです。それで、サラはアブラハムに言ったのです。「この女奴隷とその子を追い出してください。」と。

 常識的に判断すれば、そんなことはできないことです。サラに我慢するように話をするのが大人としての判断なのだということを、私たちは知っています。しかし、妻サラがそう言うのです。世の男性と同じように、と言っていいかわかりませんが、アブラハムとしては、その声を無視することはできませんでした。

 このことはいろんな考え方ができると思います。「そもそも、ハガルから子どもをもうけるように勧めたのはサラではないか。自分の言葉の責任を果たすべきだ」と言うこともアブラハムにはできたはずなのです。

 アブラハムはどうしたのでしょうか。続く11節にこう書かれています。

そのことで、アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。


 イシュマエルはサラの子ではありません。けれども、アブラハムの子なのです。その自分の子どもを追放するなどということを、簡単に決断することなどできないのです。それで、恐らくアブラハムは主に祈り求めたのです。

 すると、主は何と答えられたのか。それが12節に記されています。

神はアブラハムに仰せられた。「その少年とあなたの女奴隷のことで苦しんではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。というのは、イサクにあって、あなたの子孫が起こされるからだ。」

 父としての思いをアブラハムはここで神に受け止めてもらうことはできませんでした。アブラハムの企てはここで失敗に終わるのです。サラの思いと、主なる神の思いは同じだというのです。ここでアブラハムはそれまで先延ばしにしてきたつけを払わなければなりませんでした。神の計画ではない自分たちの思いでしたことのつけを払わなければならない時が来てしまったのです。アブラハムにとってそれはまさに苦渋の決断であったはずです。自分の思いとしてはイシュマエルを何とかしてやりたいのです。しかし妻は追い出せと言う。そして、主もまた妻と同じことをアブラハムに要求するのです。その時のアブラハムの悲しみがどれほどのことだったでしょう。しかし、アブラハムはここで苦渋の決断をするのです。アブラハムは主の言葉に従うという選択を選び取るのです。

 ここ数日だけでも、私自身のことを思い返してもどれほどたくさんの決断をしなければならなかったか、ということを考えさせられます。神学校の新年度説明会が火曜日に行われました。次年度からの神学校の行事について、また、いつから講義をはじめるか、この地域全域の教会に案内してしまった教会学校教師研修会は行うのか、中止にするのか。神学塾の教師の研修会はどうするか、卒業式はどうするか。入塾式はどうするのか。今回のコロナウィルスに関して神学塾のことだけでいろいろあります。それ以外にも教会の集会はどうするか、礼拝はどうするか、いろいろあります。どう決断してもどこかに心が残ります。

 そして、この時のアブラハムのように「神は仰せられた」というようなセリフはどこからも聞こえてきません。けれども、多くの場合私たちは、責任の所在がどこにあるということには心が向きますが、その背後にどんなことがあるのかということについては、あまり想像力が及ばないのです。

 アブラハムに対して、主はここで続いてこう言われました。13節です。

「しかし、あの女奴隷の子も、わたしは一つの国民とする。彼も、あなたの子孫なのだから。」

 この13節の言葉の背後には大きな神の慈しみの思いがあふれています。主なる神は、御自身の計画にないイレギュラーなものは受け入れないと言っておられるのではないのです。神の御計画にはないものであっても、それでも主は配慮してくださるということがここには書かれているのです。私たちの神は、私たちが想像するよりもずっと慈しみ深いお方なのです。そして、神は、私たちの手の届かないところでもそのご自身の御手を伸ばしておられるのです。

 アブラハムはさっそく行動に移します。それは、非常にあっさりとしたものでした。14節。

翌朝早く、アブラハムは、パンと、水の皮袋を取ってハガルに与え、彼女の肩に担がせ、その子とともに彼女を送り出した。そこで彼女は行って、ベエル・シェバの荒野をさまよった。

 その朝の出来事はとても簡単なものでした。アブラハムはパンと水の皮袋を渡して、それでおしまいです。涙を誘うセリフもなければ、感傷を誘うバックミュージックもありません。別れを惜しむアブラハムの言葉もここには描き出されてもいません。聖書はその時の事実を淡々と伝えているだけです。

 私はせめて、アブラハムがこの時に神から聞いた言葉、この13節の言葉を伝えてあげさえすれば、ハガルとイシュマエルはこの後に書かれているような、死を覚悟しなければならないほどの事態にはならなかったのに、とさえ思うのです。「神は、この子も一つの国民としてくださると、私に言ってくださった。だから、安心して行きなさい。」これだけの言葉を聞くことができたら、どれほどの平安があったかわからないのです。

 先週、テレビのニュースの中で、「100日後に死ぬワニ」の話が出ていました。私はその日まで全然知らなかったのですが、ワニの何気ない生活の毎日が四コマ漫画で描かれていて、最後に「死まであと何日」と書かれている、そんな漫画なのだそうです。それがツイッターに投稿されると瞬く間に人気になったのだそうです。先週の金曜日、その最終回だったとかで、今世の中の注目を集めています。

 いつ死ぬか気づかないまま毎日の生活を送っているワニの生活ぶりに、この先何が起こるかわからないという、誰もが抱えている漠然とした不安感が刺激されるのでしょう。自分のこれから先の死を知らないで生きている。それは、誰もが抱えている不安でもあるのです。

 ここで、ハガルとイシュマエルにも人生の最終回が突然訪れたのです。二人はアブラハムに与えられた皮袋の水が無くなった時、死を覚悟するしかありませんでした。それは、もはやいつ死ぬか分からないという漠然としたものではなく、目の前に差し迫る危機でした。

皮袋の水が尽きると、彼女はその子を一本の灌木の下に放り出し、自分は、弓で届くぐらい離れた向こうに行って座った。「あの子が死ぬのを見たくない」と思ったからである。彼女は向こうに座り、声をあげて泣いた。

 と続く15節と16節に書かれています。100日後に死ぬワニは、これから先自分に死が訪れるなんていうことを知らないままに生活していました。私たちもそうです。今、レントを過ごしています。私たちはどこかで困難が訪れることを心に留めて生きているわけです。それこそ、いつ誰が明日コロナウィルスに冒されるかのさえも、私たちは知りません。先のことがわかっていたら、あんなことしなかったのにと、言えるのですが、私たちには先のことがわからないのです。

 けれども、反対のこともいえるはずなのです。私たちは、その先に神がどんな幸いを備えてくださるのかも、正しく知っていないのです。もし、分かっていたなら、違う生き方をすることができるはずなのです。この時のハガルがそうであったようにです。

 そこで、立ち止まって私たちは考える必要があるのです。私たちは、誰もが確かに死ぬことが決まっています。そして、死後に神の裁きがあることも確かであると、聖書は告げています。そして、神は私たちの不確かな将来が闇に支配されたままでいることを憐れんでくださって、その死の不安から何とか人に自由を得させるために、神は、ご自身の御子をこの地に遣わして下さったのではなかったのですか。

 そうです。100日後に死ぬワニを読みながら、ワニ君にそのことを教えてあげたいと何人もの人がコメントをしていました。神は、まさにそのことを私たちにしてくださったのではないのでしょうか。

 神は、アブラハムにすでにイシュマエルの祝福のことを告げていたように、ハガルとイシュマエルが知っていようと、知っていなかろうと、その神の業は確かに行われるのです。それと、同じように、今の私たちに死がいつ訪れ、災いがいつ訪れるか、私たちは知らないのです。けれども、神にはその不安を私たちから取り除くために、一足先に、その先のことをすでに私たちに知らせようとされているのではないのでしょうか。

 私たちの神は、私たちの歩みに無関心のお方ではないのです。救いの民ではないイシュマエルにさえも、心を向けておられる神なのです。

 かつて、ハガルがサライのもとから逃げて荒野をさまよった時、その悲しみのハガルに言葉をかけて、サライのもとに帰るように語りかけられた時、ハガルは神のことを「エル・ロイ」と呼んだのでした。「見ておられる神」という意味です。

 私たちの神は、まさに「エル・ロイ」なのです。

 イシュマエルの死の姿を見たくないと思ったハガルに、主はこのようにお語りになられます。17節と18節です。

「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ。立って、あの少年を起こし、あなたの腕でしっかり抱きなさい。わたしは、あの子を大いなる国民とする。」

 主なる神は、もはや死を見つめること、絶望しか見えていないハガルに声をかけます。すると、主は驚くべきことをハガルに告げたのです。「あそこにいる少年の声を聞かれた」と言われたのです。

 ハガルにとっては、もはや愛する息子の死ぬ姿を見ていられないと思っていたのに、その息子であるイシュマエルが、ハガルから離れた場所で神に語り掛けていたというのです。この時、イシュマエルは17歳か18歳になっていたはずです。そんなに小さな子どもではありません。母親からすれば、子どもはいつまでも、子どもということなのでしょう。しかし、子どもは子どもで、自ら神の前に祈っていたということなのでしょう。そのことにも驚かされるのですが、19節にはこうあります。

神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。

と。

 この時に、神は慌てて井戸を掘られたのではないのです。井戸はもう何年も前からそこにあったのです。

 見ておられる神の目には、私たちのことだけではなくて、私たちの周りにどんなものが私たちを生かすことになるのかをも見ておられるのです。このお方は、クリスチャンだけを見ておられるということでもないのです。私たちの神は、そのすべてを見ておられるお方なのです。

 私たちが知るべきなのは、私たちの主がどのようなお方であるのかということを正しく知ることです。この危機的な社会の中にあって、神は、この世界を、そして、私たちを無関心に放ったままになさるお方ではないのです。私たちの神、主は「エル・ロイ」という名を持つお方なのです。見ておられるお方なのです。

 私たちに見えていないことも、私たちの周りにあるもの全てを、この主は見ておられるのです。このエル・ロイであられる主を知るとき、確かな安心と平安とが私たちを取り囲むのです。このレントの時も、この世界が慌てふためいているこの時も、私たちが知るべきなのは、私たちの主は、エル・ロイの神であられるということなのです。

 お祈りをいたします。

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