2020 年 9 月 6 日

・説教 創世記28章10-22節「石の枕」

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2020.09.06

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 先週の日曜日の夜、私の大好きなテレビ番組がありまして、先日その録画を見ました。「逃走中」という番組です。見たことのある方があるでしょうか。簡単に言うと、子どもの頃にした「鬼ごっこ」なんですが、最近は幼稚園の子どもも鬼ごっこと言わないで、「逃走中、やろ!」と言うのだそうです。鬼は、真っ黒のスーツを着た人が、黒いサングラスをしてプレイヤーを追いかけるのです。子どもの頃は、そういう遊びで追いかけられる中を必死になって逃げるというスリルを味わったものですが、大人になるとまずそういうことは起こりません。

 先日の祈祷会で来られた方に聞いてみたのですが、夢でならあるけれど、現実にはないと、皆が口をそろえて話してくださいました。何か犯罪とか、そういうまずいことをしてしまえば、走って逃げるということはあるかもしれません。普段の生活で、そんなに必死になって逃げなければならないようなことが起こるとすれば、それはもう事件です。

 今日のヤコブは、逃げています。どうも、かなり急いで逃げています。ベエル・シェバという、家族と長年住み慣れた土地を出て、叔父のラバンのいるハランを目指して、逃げているのです。そして、あるところで、野宿するのですが、あとで「ベテル」と名づけたその地まで約100キロあります。一日で逃げた距離にしてはかなり長い距離ですが、もちろん一日であったとか書かれていませんが、読んでみるとそんな雰囲気で書かれていることが分かります。

 そこまで急ぐのには理由があります。エサウから逃げるためです。エサウは狩人ですから、健脚だったでしょう。マラソン選手のよう長い距離を走ることができたかもしれません。だから、そんな近くで休んでいてはすぐに見つかって、殺されてしまうと考えたのでしょう。だから、ヤコブはかなり急いで走って逃げたのです。兄エサウはアウトドア派の体育会系の人物だとすると、弟のヤコブはどちらかといえばインドア派で、いつも天幕の中にいて母親とお話をするのが大好きというような青年です。そんなヤコブが珍しく頑張って逃げる、まさに逃走中だったわけです。

 無事に叔父の住むハランまでたどり着けるか、そんなことばかりを考えていたかもしれませんし、まだ見ぬハランの地で、どんな生活をすることになるのか色々を考えて心配したかもしれません。念願の神の祝福をいただき、100キロ走る体力があっても、この先の不安感があるならば幸せを感じることはできないでしょう。

 ちょっと余談ですが、先日ユニセフが先進国の子どもの幸福度調査の結果を発表しました。「レポートカード16」と言われるものです。ユニセフというのは、児童国際基金という組織です。その結果をテレビでご覧になった方も多いと思います。衝撃的な結果でした。

 その中で「身体的健康」という項目では日本は先進国38国中1位という結果でした。健康面では、日本の子どもは世界で一番恵まれているということです。ところが、「精神的健康」という項目では37位、下から2番目だったというのです。

 生きている環境は病気の不安から守られていて、とてつもなく恵まれている環境なのに、子どもたちは精神的に追い詰められているということが、ここから分かるということなのです。これは、この国が子どもの心に大切なものを与えていないということの現れです。ちょっと考えさせられる結果でした。

 このレポートには他にも「スキル」という項目もあります。日本の子どもはどんなに追い詰められて勉強しているのかと思ったら、スキルは27位です。下から数えた方が早いのです。この「スキル」というのは「読解力や数学分野の学力、社会的スキル」というものを見ているということなのですが、日本の子どもたちは先進国の中でスキルは大して高くない。となると、一体何で子どもたちはそんなに追い詰められているのかという大きな疑問が浮かんできます。家族の中での子どもの姿や、学校でのいじめの問題などもその背景にはあるのかもしれません。医療など健康を支える環境は世界で一番といえるようなところにいながら、心は荒んでいるのが、日本の子どもたちを取り巻く状況なのだというのです。多くの親たちが、何とかスキルを身につけさせたいと思って一所懸命なのに、それほど結果は出ていなくて、反対に子どもたちはどんどん傷ついて耐えながら生きているというのです。

 それは、ここで逃走中のヤコブの状況と似ているのかもしれません。何かに追われるように生きているのに、先を見据えることができない、そんな不安を抱えて生きているのです。一体、何が足りないというのでしょうか。どうしたら、このような状況から抜け出すことができるのでしょうか。

11節

彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。

 人は永遠に走り続けることはできません。どこかで限界を迎えます。ヤコブは足を止めて、眠ることにしました。しかし、その時のヤコブはかなり大胆です。そこら辺にあった石を持ってきて、石を枕にして眠ったというのです。ということは、野宿です。追われる身でありながら、そこら辺の石を持ってきて、それを枕にして眠るというのは、とても大胆な決断です。追っ手から見つからないのか。動物に襲われないのか。様々なリスクがあったはずです。

 でも、私は思うのです。いつまでも走り続けることはできないのです。限界は必ず来るのです。それならば、あとは自分を全部神様に預けて、身をゆだねて寝るという決断ができるということは、そこに信仰が表れるのではないのかと。

 聖書はその時のことをこのように記しています。12節です。

すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。

 何とも不思議な光景です。そして、これは夢だというのです。夢の中で天からはしごが降りて来て、天使たちがそのはしごを上り下りしているのです。ヤコブの見た夢はそれで終わりません。13節です。

そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。」

 ヤコブは父イサクや、その父アブラハムと主との出会いの物語を子どものころから何度も聞き続けていたに違いありません。そして、その主と出会うことに憧れを抱いてきたはずです。だからこそ長子の権利を欲しがり、イサクをだまし、エサウを出し抜くことまでして、祝福をつかみ取ったのです。ところが、今、その結果ヤコブは家族から遠く離れた地まで逃げ延びて、荒野の中で、石を枕に夢を見ているのです。すると、父祖アブラハムと父イサクが主から与えられてきたあの約束の言葉が、今度は自分に向かって語り掛けられるのを聞いたのです。ここで語られた主からの言葉が、子孫の約束と、土地の約束、そしてあなたを守り、捨てないという力強い約束の言葉なのです。

 あの憧れの祝福の言葉を、ヤコブは主ご自身からこの荒野の真っただ中で聞くことになるのです。それは、ヤコブにとってどれほどのことだったでしょう。

 ヤコブは眠りから覚めてこう言うのです。16節。

「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」

 ヤコブは、この場所に主がおられるという事を知らなかったと言ったのです。これが、どういう意味か、次の言葉でもっと明らかになります。

「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家に他ならない。ここは天の門だ。」

と言ったのです。

 ヤコブはここで気づいたのです。この場所が天の門だったのかと。神のおられる天の入り口は、このところで、ここからはしごがかかって、このはしごを上って天に行けるのかと思ったのです。

 そうすると、この世界に天への入り口があるのだとすると、何か目印をつけておかないと、みつけられなくなってしまいます。それで、ヤコブは自分が寝ていた石を立てて、柱にして、油を注いで、その場所のことを「ベテル」つまり「神の家」という名前をつけたのです。

 今の私たちは、神のご性質のことを「遍在」と言いますけれども、神はどこにでもおられるお方ということを信じています。だから、天国の入り口はベテルにあって、ベテルの目印のところから、天からエスカレーターが降りて来て、そこから天に入れるらしいなんていうことは考えもしません。けれども、ヤコブはこの夢を見た時に、そのように理解したと聖書は報告しているわけです。

 けれども、そのくらい、ヤコブはこの出来事をとても印象的な出来事として心に刻んだと思います。まさに、この出来事が神とヤコブの出会いの出来事となったのです。

 それまで、ヤコブは父イサクの信仰、父祖アブラハムの信仰に憧れて生きてきました。けれども、このヤコブの独り立ちの日、それは残念ながら悲しい、逃走の果てに、将来が見渡せず、思い悩んでいた中での出来事でした。けれども、この夢の出来事は、ヤコブの生涯に決定的な意味を与えることになったのでした。

 ヤコブはここで誓願を立てます。20節から22節です。

「神が、私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」

 そういう誓いをいたします。神が私に下さるものの十分の一を献げると誓ったのです。そして、この後、イスラエルの民はこのヤコブの誓いに自らも預かるために、同じように十分の一を献げることを通して、その人もまた、神の民とされていることを表明してきたのです。それは、今日に生きる私たちにまで受け継がれている信仰者の習慣となりました。

 ただ、ここで注意深く見なければならないのは、ヤコブはこの誓願を立てるのに、3つの条件を付けているという事です。

 まず、第一が、神が、私とともにおられて、旅路を守ってくださること。第二は、食べる物と着る衣が与えられること。そして、第三が無事に父の家に帰ってくることができることと言ったのです。

 これは、新改訳の第二版の時には違う翻訳になっていました。その時は、「主がそうしてくださるので」と訳していたのですが、今度の新改訳2017では「くださるなら」と条件文で訳しました。これは、新共同訳聖書や協会共同訳でも「主がわたしの神となられるなら」と訳しています。つまり、ヤコブはここで「無事にこの三つのことが果たされるなら、十分の一の献げものをさせてもらいます」と言っているわけです。

 実にヤコブらしいというか、けち臭いというか、このヤコブの性格がこの言葉にはよく表れていると思います。

 もちろん、ヤコブとしても数年で戻って来られると思ってのことだったのかもしれません。ところが、この後、ヤコブは何年も戻ってくることができなくなってしまうことを、私たちは知っています。そういう意味では、ヤコブの石橋をたたいて渡る性格が幸いしたということなのかもしれません。

 いずれにしても、ヤコブはこの一夜の夢を通して、まるで別人のように考え方が変えられるという経験をするのです。ヤコブはそれまで、後ろを気にして、いつ追いかけてくるかわからないエサウを恐れて逃げ続けていたのに、あるいは、これから先がどうなるか見えない先に不安を抱いていたであろうと考えられるのに、このヤコブが石の枕を立てて、記念の場所としたこの礼拝を通して、ヤコブは無事に戻って来た後のことまで考えることができるようになっているのです。

 つまり、このヤコブの心の中に大転換が起こったのです。それは、逃げ続けるのを止めて、神にすべてをゆだねて眠ったことを通して与えられました。ヤコブはそこで神と出会ったのです。

 自分を確かに守ってくださる方を知り、出会う。それは、ヤコブの人生に決定的に大きな平安を与えることになりました。そして、この主と出会うことは、子どもたちのみならず、全ての人にとって必要不可欠なことだと思うのです。

 「精神的健康」というのは、ユニセフのレポートでは「生活満足度」を表すそうです。生活満足度が低い。これが、子どもたちだけではなく、すべての年代である私たちが抱えている現実です。健康が支えられても、スキルが少なからずあったとしても、生きる満足につながらないのだとすれば、それは、自分を支えてくれる本当に大切なものを知らないということに尽きるのだと思います。

 ヤコブはそのような経験の中で主に出会ったのです。そして、この主との出会いがヤコブの人生を一転させるのです。そのように、人の人生を変えてしまう。生きていてよかった。希望がある。安心して生活できる。そのように考えることができるようになるために、主ご自身の方から私たちと出会いたいと願っておられるのです。この主と出会うこと、これが信仰なのです。

 お祈りをいたします。

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