2020 年 11 月 22 日

・説教 詩篇126篇「収穫の喜びを期待して」

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2020.11.22

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今、オンラインで水曜日に「ざっくり学ぶ聖書入門」を配信しております。水曜日の聖書の学び会に集えない方のために、自宅からでも見てもらえるようにということで10月から始めています。できるだけ、一回1時間で各書簡をざっくりと紹介したいと思っています。

 先週は、民数記の学びをしました。民数記というのは、レビ記と並んで、聖書を読み始めると、途中で止まってしまう難所の一つです。特に前半には、何々部族、何万何千何百人というカタカナと数字の羅列が続くので、もう読みたくなくなってしまうようです。ご経験のある方も少なくないと思います。

 この民数記というのは、モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出してからの40年の荒野の旅のことが、まるまる記されています。読み進めれば面白い箇所がいくつもあるところです。私は、旧約聖書はあまり得意ではありませんので、この配信のために、一週間のかなりの時間をかけて準備をします。特に民数記は大きな出来事がいくつも記されておりますので、できるだけ短くまとめながら、分かりやすく説明したいと思うので時間がかかってしまうのです。

 ただ、そうやって時間をかけて民数記を読んでいますと、際立っているのは、イスラエルの民の身勝手さだということにどうしても目が留まるのです。わがままなのです。エジプトの奴隷の状態から救い出されたにもかかわらず、何か困ったことがあると、エジプトの方が良かったと、すぐに不平をこぼすのです。

 一度や二度ではありません。十回や二十回というような頻度です。いや、もうほとんどずっと文句ばかり言っているわけです。そして、その都度、神はそのイスラエルの民のわがままな要求に応え続け、救いの道を示し続けておられることが記されています。

 民数記を読んでいて考えさせられるのは、神の忍耐強さです。もちろん、そこには、何度も民を裁き、懲らしめる姿が記されているのですが、けれども、いつもそこに神は救いを備えてくださっているのです。

 そういう箇所を読んでいますと、私たちの歩みも全く同じだということに気づかされてきます。事あるごとに私たちは不安に感じ、不信仰に陥りそうになります。そして、何度も何度も悔い改めながら、神の救いの大きさと忍耐深さに救われて、今日まで支えられているというのがよく分かるのです。

 今日、私たちに与えられているのは詩篇126篇です。とても短い箇所です。読んでいますと、その背景もなんとなく想像できます。

 イスラエルの民が捕囚から帰って来た時の喜びがまずは歌われています。遠い国、バビロンに連れていかれ、祖国を追われていたのに、ようやくイスラエルに戻って来ることが出来た。それは、まるでエジプトの地で奴隷であったところから救い出された時とも重なります。そして、私たちが罪の奴隷から救い出されたこととも重なるのです。

主がシオンを復興してくださったとき
私たちは夢を見ている者のようであった。

 長い間、待ち焦がれていたそこに帰ることができた。それはその当時の人たちからすればどれほどの喜びであったか知れません。

 昨日のことです。娘がクリスマスプレゼントの話をしだしました。あれが欲しい、これが欲しいというのです。今、世の中は『鬼滅の刃』というアニメが大流行しているようですが、その影響は我が家にも及んでしまっています。それに出てくるものが欲しいというのです。ネットで検索してみますと、まだクリスマスまでひと月あるのに、商品の到着はちょうどクリスマス頃になると書かれていましたので、仕方がなく慌てて注文しました。すると翌朝、娘は「ねえ、いつ届くの?」と言うのです。「だからひと月後」と答えるのですが、もう待ちきれないのです。

 待ちきれずにわくわくしているものが、今自分の中にある。その喜びはどれほどのことなのだろうかと思うのです。ただ、残念なことに、大人になればなるほど、そういう期待感がなくなっているのかもしれません。

 娘の姿を見ながら、自分の中にそこまで楽しみにしているものがあるだろうかと、冷静になって考えてもあまり浮かんでこないのです。そして、それと同時に、自分の中にある喜びという感情が失われてしまっているのだという事に気づかされるのです。

 期待をすれば、裏切られる。期待したように事は進まない。そんなことを繰り返しているうちに、私たちの心は頑なになっているのかもしれません。

主が私たちのために大いなることをなさったので
私たちは喜んだ。

 3節にこう記されています。

 私たちはこの詩篇にあるように、主のしてくだったことを喜ぶことができているのでしょうか? ひょっとすると、現実の厳しさを目の前にして、不安の言葉や不満ばかり言っている、民数記に記されたイスラエルの民のようにはなっていないでしょうか。

 主が私たちのためにしてくださった大いなること、私たちが罪の奴隷から救い出されたということは、長い間捕囚となって、バビロンに連れていかれていたところから、自分の故郷に帰ってくることができたような喜びがそこにはあるのです。

 イスラエルの民も捕囚から戻った時は大きな救いの喜びに包まれていました。誰もが喜んだのです。ところがです。

 そこから日常が始まるときに、すぐに大きな問題と直面します。エルサレムの都も神殿も廃墟のままなのです。そして、自分たちの種まく畑も荒れ果ててしまっていたのでしょう。

 彼らは、涙ながらに種を撒かなければなりませんでした。この涙は、現状が厳しいということだけではなかったでしょう。それこそ、撒くための種を取っておけば、そのぶん食べ物が減るのです。しかし、食べてしまえば種を撒くこともできない。そんな葛藤を抱えていたに違いないのです。また、何年も荒れ果てたままの畑を耕しても、最初から豊かな収穫を期待することはできなかったはずです。

 そんな状況を、この詩篇はとても美しい言葉で祈りました。

主よ ネゲブの流れのように
私たちを元どおりにしてください。
涙とともに種を撒く者は
喜び叫びながら刈り取る。
種入れを抱え 泣きながら出て行く者は
束を抱え 喜び叫びながら帰って来る。

 私が子どもの頃、教会でよく映画の上映会をしました。まだビデオができる前の頃です。牧師をしておりました父は映画が好きだったこともあって、教会の映写機に映画のフィルムをつけまして、教会の窓と言う窓に暗幕をはりまして、部屋を真っ暗にして映画を上映したのです。

 そこで良く上映されたのが「ムーディー科学映画」でした。子どものころみたものなので、それほど鮮明に覚えているわけではありませんが、その映画でイスラエル近郊の荒野の映像が映し出されました。その土地に雨が降ると、瞬く間にその荒野が川になっていくのです。そして、その雨の後しばらくするとその川は、また水がなくなってしまうのですが、その後から辺り一帯が芽吹き、あっという間に緑の大地になる。そんな映像でした。

 「主よ ネゲブの流れのように/私たちを元どおりにしてください。」というのは、まさにあの時に見た映像のことを言うのだと思うのです。

 枯れた大地に雨が降り、瞬く間に川になります。そして、そこが緑豊かな大地に変わっていくのです。そのような景色を目の当たりにしていた、この土地の人々は、長い間捕囚を経験し、荒廃したこのイスラエルの土地であったとしても、主はあのネゲブの流れのように、緑茂る大地につくり変えることがおできになる。そう信じたのです。

 今は、涙ながらに種を植えることしかできなくても、私たちの主は、豊かな収穫を備えることがお出来になるお方だと信じることができたのです。

 そこで、問われているのは「忍耐」です。現状を受け入れる勇気です。

 種を撒けば、収穫を得るまで、待たなければならないのです。これは、必然です。そして、信仰の歩みの中で、神は、その民に忍耐することを常に要求されるのです。

 現状を受け入れる勇気。これが、忍耐を支えます。今、目の前に広がっている現実。バビロンから帰ってくることはできた。けれども、国はまだ荒廃したままである。その事実を受け入れなければなりません。エジプトから出ることはできた。けれども、荒野の旅の中で、食べ物がない、飲み物がない、その現状を受け止めなければなりません。今、病におかされてしまっている。家族に大きな困難がある。この先どうなるか分からない。そういう自分の現実を一度受け入れなければなりません。そこで不満を言うことは簡単です。人は安易な方に流されて行く者です。けれども、その時、私たちが目を向けなければならないのは、もう一つの現実です。

 それは、ここに神がおられるという事実です。私には神がおられる。このもう一つの現実が、私たちの忍耐を支える力となるのです。

 その時にないものに目を向けて、不平不満を言う者を、神はお喜びにはなられません。そして、その時、神もまた不信仰な者のために忍耐を味わっておられるのだということが、聖書を読んでいますとよく分かって来ます。

 たとえ神であっても忍耐を強いられるのであるとすれば、私たちが忍耐を求められるのは当然のことです。

 種が実を実らせるのに時がいり、おなかの赤ちゃんが生まれてくるのに時が必要です。そして、信仰もまた同じように、豊かな刈り取りをすることができるように育つためには、時が必要です。その背後に神がおられるのです。神が支えてくださるから、私たちは耐えることができるのです。そして、この時間、忍耐の時間こそが、豊かさの秘密でもあるのです。

 この忍耐の時、試練の時、そこで私たちの信仰は問われます。そして、そこで私たちは成長し、私たちの信仰は豊かにされていくのです。

 今、コロナウィルスの第三波が脅威となっています。この連休にあまり出かけないようにという事が言われるようになってきています。不安や、不満がどんどん膨らんできます。まさに、忍耐が求められる時を、私たちはすごさなくてはらならないのです。

 今、私たちは、この詩篇を通して、主はネゲブの流れのように、元通りにしてくださるお方であることを教えられています。私たちを支えてくださる主は、荒野を緑に変えることがおできになるのです。だから、涙と共に種を撒く者は、喜び叫びながら刈り取りをするのだという御言葉が、私たちの心を打つのです。

 私たちには豊かな収穫が約束されています。私たちの神は、すべてのものを支配しておられるお方です。確かに忍耐は求められるのです。それは、私たちがあまり好きなことではありません。けれども、その先にあるのは「喜び」なのです。

 種を撒いたものを収穫できる喜びを、主は私たちに約束してくださっているのです。

 今年の年間聖句を皆さんは覚えておられるでしょうか。マルコの福音書9章24節の御言葉です。

「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」

 この御言葉を私たちはこの一年心に刻もうとしています。まさに、この一年は私たちの信仰が問われる一年となっています。私たちは何度となく不信仰に陥りそうになるのです。

 けれども、私たちの主は忍耐深いお方です。主ご自身が私たちの信仰が育つのを忍耐して見守っていてくださいます。そして、その忍耐の期間に、主はすでに豊かな実りを備えていてくださるのです。

 かつて、私たちに夢をみているようだと思えるような救いを備えてくださった主は、私たちを、まさに夢のような神の御手の中に私たちを招きたいと考えていてくださるお方です。

 この大いなることをしてくださる主に期待し、いつも喜びを備えてくださる主に信頼して、この主の御顔を仰ぎ続けていきたいのです。

 私たちの主は、今は荒野にしか見えないネゲブの流れにある私たちに緑豊かな収穫を、すでに備えていてくださるのですから。

 お祈りをいたしましょう。

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