2020 年 12 月 20 日

・説教 ヨハネの手紙第一3章1-3節「御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい」

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2020.12.20

鴨下 直樹

⇒ 説教音声の再生*1はこちら

*1:先週に引き続き、機材の不調により説教音声の録音ができませんでした。ライブ録画から抽出した音声を掲載しています。聞きづらい点はご容赦ください。

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今日の説教題は、たぶん、私がこれまでつけた説教題の中で一番長い説教題だと思います。この手紙の一節の言葉をそのまま、タイトルにしました。

 今日、私たちが共に聞き取りたいと思っているのは、まさにこの言葉に尽きるのです。かつて、宗教改革者ルターは祈りについて「祈りは短ければ短いほど良い、言葉を補えば補うほど、意味が薄まるからだ」と言う内容の言葉を語りました。そういう意味では説教題も短い方がいいのかもしれませんし、この説教も、長くなればなるほど、意味が薄くなってしまうのかもしれません。

御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

 今日、私たちが心に留めたいのは、この一言に尽きるのです。このことを考えて、私たちが、御父のくださった素晴らしい愛を心に留めることができるなら、それこそが福音そのものです。

 アドヴェントの第四週を迎え、今週クリスマスを迎えます。今年は、恐らく世界中の教会で、自粛ムードの中で祝うクリスマスになるのだと思います。大勢の人が集まることが難しい時ですから、どこの教会も今年はクリスマスのお祝いをする機会が大きく減っているはずです。私たちの教会でもそうです。例年行っているクリスマスの集まりをいくつも取りやめました。イブの燭火礼拝も、今年は外部には案内をしませんでした。また、教会の人もみなが集まってくることが難しい状況です。

 ただ、そんな中ですが、私たちはもう一度クリスマスの意味を思い起こしたいのです。最初のクリスマスは、そもそも大勢の人が祝ったわけではなかったのです。クリスマスは歴史の片隅で起こった小さなできごとでしかなかったのです。

 宿にも泊まることのできない若い夫婦が、子どもの出産だというのに、安全に産む場所も見つけられず、生まれた赤ちゃんは飼い葉桶に寝かされたのです。誰の心にも留まらないような、本当に小さなできごとでした。けれども、ここに父なる神の私たちへの愛が満ち溢れているのです。

 「飼い葉桶に寝ておられるみどりご」

 これが、クリスマスのシンボルです。神が、全力で私たちを愛してくださった愛の形がここに示されているのです。

御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

 毎年、私たちはクリスマスを祝います。けれども、このことに私たちはどれほど思いを向けているのでしょうか。

 エペソ人への手紙では、この神の愛を「人知をはるかに超えたキリストの愛」(3:19)と表現しました。人の知恵では想像なしえない仕方で、神はこの愛を示してくださったのです。

 先週の火曜日の夜、一本の電話がかかってきました。いつも手話通訳をしていてくださるKさんが、倒れて救急にかかったという電話です。いつもそうですが、すぐにみなさんにお祈りをお願いしました。命の危険はないのですが、しばらく入院されることになりました。

 こういう時、みんなで祈ります。今までもそうでしたし、これからもそうです。そういう時に、私たちが神様に祈ることができるのは、私たちの神は、私たちに愛を示してくださるお方だと知っているので、私たちは望みを持って祈ります。祈ることができます。

 神の愛を信じることができるから、そのことを頼りに私たちは祈ることができるのです。ただ、やみくもに祈るのではないのです。神はこれまでに、この教会の方だけでも何度も何度も、多くの人の病を支えて来てくださったのです。

 私たちの神は、御子を私たちのために与えても良いと思うほどに、私たちを愛してくださいました。それは、私たちを神の子どもとするためです。
 「事実、私たちは神の子どもです。」と、この言葉につづく1節には記されています。

 今、私たちは神の子とされているのです。神様は、私たちを神様の子どもとするために、私たちを神の御子であるイエス・キリストと取り換えるという方法を示してくださいました。それが、父なる神が示した愛だったのです。

 神の御子と、私たちを取り換える。どうやってそんなことが可能となったのでしょうか。

 これが父なる神が私たちに示して下さった愛なのだということが、私たちの側に分かる必要があります。「いいえ、結構です。その申し出はありがたいのですが、ご辞退させていただきます。」ということだとすれば、この神の壮大な、取り換えっ子計画は成功しないのです。

 それで、まず神は、神の御子である主イエスを、この世界に、クリスマスに贈り物として、送り届けてくださったのです。それが、この神の愛・大計画の第一弾でした。それが、神の御子をクリスマスプレゼントにする計画です。

 ところが、この「神の御子をクリスマスプレゼントに」計画は、神の壮大な計画としては、まだはじまったばかりです。クリスマスにこの世界に私たちのために送り届けられた神の御子である主イエス・キリストは、この世界で、どう生きるかを示す手本としてこの世界で歩まれたのでした。

 そして、そこで主イエスがこの世界に示されたのは、救いを求める人には分け隔てすることなく、全力で親切にするということでした。このことによって、愛するということの中身を知ることができるようになったのです。ところが、この主イエスが示された親切は、いろいろな受け取り方をする人が出てきました。何でもしてもらえるらしいと、どんどん図々しくなる人、他の親切にされた人を妬んで、悪口を言い出す人も出てきました。

 それは、私たちの生活の中でも、どこにでもありふれていることですから、想像することは難しくないと思います。多くの人は、自分の損得勘定で判断することが多いのです。なかなか、なぜ、主イエスはそうなさるのか? ということまで思いを馳せることが出来た人はいませんでした。

 一時は、何千人、何万人という人たちが、主イエスの行くところ行くところ、付いてくるようになるほどの人気になったのです。けれども、この時の人々は「何かいいことがあるらしい」という期待感がほとんどでした。

 というのは、まさか、主イエスが示された親切、愛というものは、主イエスが他の人にしたように、自分も他の人にしてあげなさいと言われるとは思ってもみなかったのです。そして、主イエスの話を聞いているうちに、人々は、自分も主イエスのしたようにしなければならないとしたら、とんだ大損をしてしまうということが、少しずつ分かるようになってきました。

 人に親切にする、自分が嫌われてもいいから人に親切にするという、主イエスが示された生き方には、あまりメリットが見つけられなかったのです。というのは、その背後にどんないいことがあるか、分からなかったからです。

 そして、この愛することを世界に示された主イエスは十字架につけられて、殺されてしまいました。自分たちにメリットがあると思っていた時は、沢山の人たちが主イエスの周りにひしめき合っていたのに、律法学者やパリサイ人によって、捕らえられ、当時この世界を支配していたローマの裁判にかけられることになった時、ほとんどの人は興味を無くしてしまったのです。

 しかし、まさにこの十字架こそが、神の計画の最終段階でした。何か犯罪をしたわけでもなく、神の子と自称したという罪で死刑になるなどという、裁判はありません。人の身勝手さや、妬み、神の御業への無関心、そういったもので、主イエスは十字架につけられて殺されることになったのでした。

 そして、父なる神は、この主イエスを死の世界、神の手の及ばないよみの世界にまで落とされるのです。神の御子である主イエスを、完全に神の御手の及ばないところまで、まさに死の支配、絶望の支配する中に委ねるということを神はなさいました。こうして、まさに、神の交換という犠牲の業が完成されます。つまり、私たちの身替わりとして、主イエスが完全に神から見捨てられるという神の裁きが、ここで完成するのです。

 私たちを神の子どもとするために、ここまで神がなさるのかという、考えられないような神の愛が、主イエスの十字架の死で成し遂げられるのです。

 ところが、神の愛の計画はこれで終わりではありませんでした。死の支配に飲み込まれたはずの、主イエスは、三日後に復活するのです。こうして、神の救いの計画の全貌が明らかになります。

 人は死んでも、死に支配されたままではない。神は人をその死の支配から打ち破ることができるのだということを、示されたのです。私たちもやがて、死を迎えます。この主イエスの復活を通して、神の子どもとされていても、死んだら同じではないかと不安になる私たちに、死で終わりではなく、主イエスがその後、天に引き上げられたことを通して、神の国に入れられるという希望があることを、この世界にお示しになられたのでした。

 これが、神の壮大な愛の計画の全貌です。私たちを神の子どもとするための、壮大な神の計画なのです。これが、神の御子と私たちを取り換える壮大な神の計画の概略です。

 神はこのようにして、まさに主イエスの全生涯を通して示された神の愛を通して、御子である主イエスと交換してでも、私たちを手に入れたいとお考えになられたことを示されたのでした。
 

御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

 今日、私たちはこのように問いかけられています。これは、私たち自身が考えなければならないことです。そして、考えるのなら、答えを出さなければならないのです。どうしたら、この神の愛をちゃんと受け取ったことになるのかということを。

 今日の聖書はその後で、こう記しています。

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者となることは知っています。キリストをありのままに見るからです。キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。

 ここには、神の子どもとされている私たちが、やがてどうなるのかということが記されています。神の子どもとされた私たちの将来はまだ明らかになっていないけれども、はっきりしていることがある。それは、私たちはキリストのようになるということだと言っているのです。

 主イエスと交換された私たちは、神の子どもとしていただくことができます。父なる神のこの犠牲によって私たちは神の子となったのです。その私たちはやがて主イエスのようになる。これが、神が私たちに願われた私たちの目標です。ゴールです。何のために神は私たちを、主イエス・キリストと交換したのかというと、それは、神の子どもとされた私たちがキリストのように生きるようになるためだと言うのです。

 神のこの壮大な計画は、ここまでになって完成です。つまり、キリストのように神を愛する者となって、また人をもそのように愛するようになる。しかも、それは、私たちがいやいやそうするのではなくて、私たちが心からそれを望んですることができるようになることを神は期待しておられるのです。

 ですから、神の子とされた私たちは主イエスを目標として、愛に生きる者となることを求められているので、キリストが清い方であるように、私たちも清く生きるのだと言っているわけです。

 この壮大な神の愛を届けようという大作戦は、クリスマスに実行に移された神の壮大な計画です。私たちは、クリスマスに、このような贈り物を神から頂いたのです。

 それは、愛の神は、私たちに愛するということが、どんなに素晴らしいことなのか知って欲しいと願っておられるからです。

御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

 私たちの周りには意地悪な思いが沢山支配しています。どうして、人が意地悪になるかというと、損をしたくないという思いがあるからです。人に大事なものを奪われたくないのです。なぜそうなるかというと、みな欲しい、欲しいと、自分の手元に集めようとばかりして、与えることが何か損をするかのように思い込んでしまうからです。そして、そのために私たちはほとんど毎日のように、そういうこの世界の人の思いに向かい合って生きなければならないのです。自分が、自分がと、自分にだけ思いが向く人の中でいきなければならないのは、何と疲れることでしょう。何と沢山の人が傷つかなくてはならないのでしょう。

 もし、私たちが人との関係を本当に性善説で考えることができるなら、どれだけ救いがあることでしょう。けれども、人の思いは、自分を犠牲にしてもいいから、他の人を大事にしたいとは残念ながらならないのです。

 ですが、もし、これが私たちの周りででもはじまるならば、小さな世界でもいいから、人を思いやることのできる愛の世界がはじまるならば、そこにはどれほどの救いがあることでしょう。人はどれほど優しくなれることでしょう。そんな愛の世界を、神はこの世界に期待しておられるのです。

 そして、そのために神はまず、ご自身が一番大事なものである神の御子を、私たちにプレゼントしてくださいました。まず、神から手本を示さなければ、私たちにはこの思いが伝わらないからです。そこから始まって、神は、与えて、与えて、与えつくされるのです。

 私たちが、愛に生きるということを知って欲しいと願われるからです。主イエスの時、この愛を多くの人が頂きました。それなのに、多くの人は主イエスを十字架につけてしまいました。神は、その時、人類に絶望されたでしょうか。そうではなかったのです。その道を貫かれたのです。そこまで神がしてくださったから、この神の愛に気づく人たちが出て来たのです。

 私たちの父なる神は、とてつもなく大きな愛をお持ちのお方です。私たちに愛が届くために、考えられる精一杯のことをしてくださるのです。何とかして、この神の愛を感じて欲しいのです。

 この神の愛の思いが支配するようになることを、聖書は神の国と呼んでいます。天の御国とも呼んでいます。

 そして、「私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になる」とあります。

 「このキリストが現れたとき」というのは、二つの意味があります。それは、キリストが再臨された時、そして、もう一つは私たちが死を迎えた時です。そして、これまで約2000年の間、クリスチャンたちはキリストの再臨を待ち望んできましたけれども、みな先に死を迎えています。けれども、その時、私たちはキリストとお会いすることができ、その時に、私たちは、私たちの人生の目標である主イエスを直接知ることができるようになるので、その時には、完全な愛に生きることができるようになるのだと、ここで書かれているのです。

 つまり、まさに、私たちは死の先にある天の御国においては、完全な愛の支配する世界を知ることができるようになるということが、ここで約束されているのです。ですから、私たちはたとえ死ぬことがあったとしても、希望を持つことが出来るのです。

 コロナウィルスが蔓延し、今世界中で多くの人々が不安の中にあります。クリスマスも自粛の雰囲気が漂っています。しかし、クリスマスは神の愛が、この世界に示された時です。私たちに、神の愛の贈り物が届けられた時です。人と、人との距離を取らなければならないこの時に、私たちは、私たちのところまで神の愛が届けられていることに思いを向けたいと思うのです。そして、神の愛が、今、確かに私たちのところに届けられていることを、心から喜びたいのです。

 この神の愛は、私たちが悲しみの時も、不安の時も、そして、生きている時も、死ぬときも、死の先さえも、私たちを支配している大きな慰めであることを、心に刻みたいのです。

お祈りをいたします。

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