2021 年 1 月 10 日

・説教 詩篇144篇「わが岩なる主」

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2021.01.10

鴨下 直樹

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*1:ライブ録画から抽出した音声を掲載しています。聞きづらい点はご容赦ください。

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今年も、しばらく詩篇のみ言葉を聴き続けていきたいと願っています。

 今日の詩篇は、「王の詩篇」と呼ばれる詩篇の最後のものです。この詩篇の祈り手は、王さまの立場で記されているのです。またこの詩篇は詩篇の18篇がもとになって書かれました。今どきの言葉で言えば、詩篇18篇をリメイクしたのです。詩篇18篇の王の詩篇に影響を受けて、詩人が自分でも作ってみた。そんな内容です。

 表題には「ダビデによる」と書かれていますが、ダビデ作というのではなくて、「ダビデによせて」というような意味だと思っていただけるとよいと思います。

 ただ、とても興味深いのは、ギリシャ語の七十人訳の方では「ゴリヤテに対して」とか「ゴリヤテと戦う」という意味の言葉が表題に付加されています。この詩篇を作った人は、ダビデがゴリヤテと戦う時のことを思い返しながら、この詩篇を作ったと考えられたようです。

 そんなことを少し心に覚えながらこの詩篇の言葉に耳を傾けてみたいと思います。

 この詩篇は「わが岩なる主」という呼びかけの言葉ではじまります。

 みなさんは、お祈りをするときに、「わが岩なる主よ」と呼びかけて祈ったことがあるでしょうか? 祈りは、私たちが主をどのように呼びかけるかということが、とても大切です。どういうお方に祈ろうとしているのか、この呼びかけに、私たちの信仰の姿勢や、その後の祈りの内容がすべてかかってきます。この詩篇にならって、私たちもお祈りをするときには、すぐに祈りはじめるのを少し待って、はじめに主をどのように呼びかけたらよいのかを少し考えて祈ってみるとよいかもしれません。

 「岩」というのは、どんなイメージでしょうか。

 私たちの生活の身近に、「岩」はあまりないかもしれませんので、私たちがお祈りするときに、神さまのことを「岩」にたとえるというイメージはなかなか湧いてこないのではないでしょうか。

 「岩」は人が簡単には動かすことができないものです。昔からそこにあり、それを自分たちの都合で取り除くというよりは、その岩があることを前提に考えていかなければなりませんでした。ずっとそこにありつづけるもの。変わらなく存在するもの。それが、岩のイメージです。

 年末に下仁田教会に奉仕に行ったとき、川沿いの道を走っていると、「夫婦岩」という看板がありました。見てみると、それほど大きくはないのですが、二つの岩がそれぞれ寄りかかって支え合っている岩が、川の真ん中にありました。川があふれることがあっても、ずっとそこに有り続けるから、看板まで出してあるのだと思うのです。岩というのは、そのように、いつも変わらず、そこにあるのです。そんな岩のイメージと主なる神のイメージがそこで重なっているのです。

 何があっても変わることなく、周りに惑わされることもなく、いつも変わることのないお方が、私たちの主なのだと祈っているのです。そういうお方に、この祈り手はこれから祈ろうとしているのです。

わが岩なるが ほめたたえられますように。

という言葉の後にはこういう言葉が続きます。

戦いのために私の手を
戦のために私の指を鍛えられる方が。

 岩である主が、私の手と指に戦いを教えてくださるというのです。

 岩と格闘するというのは、普通はあまりイメージできません。ただ、最近はそうでもないのかもしれません。今世間を騒がせている「鬼滅の刃」というアニメがあります。その主人公の竈門炭治郎は、最初の修行で、岩を刀で断ち斬るというところから始めるのですが、もちろんそれは、この聖書がベースになっているわけではないと思います。この漫画の主人公の炭治郎は、その修行で岩を斬ってしまうのですが、普通は斬れません。だから漫画になるわけです。ただ、絶対的に不可能だと思えるものに挑み続けることが、自分を強くしてくれるという表現があそこには込められているのでしょう。

 そう考えれば、岩なる主が私の手や指に戦いを教えてくださるというイメージも理解しやすくなるかもしれません。

 ダビデがあの身長が3メートルほどもあったといわれる巨人ゴリヤテに勝利するというのも、不可能に思えるような出来事だったに違いありません。しかし、ダビデはそのゴリヤテとの戦いに勝利します。なぜ勝利することができたのかというと、ダビデは岩である主に、その腕も、指も鍛えられていたのだという想像がここで膨らんでくるのです。

 この詩篇は「岩なる主」という呼びかけではじまるのですが、こんな言葉が続きます。

主は私の恵み 私の砦
私のやぐら 私の救い主
私の盾 私の避け所
私の民を私に服させる方。

 私たちがお祈りするとき、こんなにも次々に神様のイメージが出てくるでしょうか。主は岩のようなお方と言ったあとで、その言葉では十分に主を言い表すことはできないとばかりに、祈り手は、次々にイメージのある言葉を続けていきます。どれも、戦いに結びつくイメージ、あるいは王の働きに結びつくイメージのある言葉が続いていることに気づかされます。

 この次々繰り返される戦いを守り支える主の表現の最初に語られているのが「恵み」という言葉です。

 ヘブル語で「ヘセド」という言葉です。「慈しみ」と訳されることの多い言葉なのですが、新改訳は、ずっと一貫して、この「ヘセド」という言葉を「恵み」と訳してきました。実は、旧約聖書の「ヘーン」という言葉がありますが、その言葉が従来「恵み」と訳される言葉です。新約聖書の「恵み」という言葉は「カリス」という言葉ですが、ギリシャ語訳では、このヘブル語の「ヘーン」という言葉が「カリス」と訳されます。

 この「ヘセド」という言葉の意味は、「慈しみ」とか「憐れみ」とか「愛」という意味で、イスラエルの民に対する神の変わらない愛を意味しています。「永遠の愛」と言ってもいい言葉です。新改訳聖書はこの言葉を恐らく特別な言葉と理解して、「恵み」という翻訳をすることにしたのだと思います。

 ダビデ王を支える岩なる神は、慈しみ深いお方、永遠の愛を、恵みを示されるお方です。神の恵みは、具体的な形として、砦とか、やぐらとか、盾というように私のいのちを支えてくださるのだというのです。祈り手は、自分の生活の中で、自分のいのちを守ってくれるさまざまなものを例にあげながら、神は自分に直接的に働きかけてくださるお方なのだと信じているのです。

 特に、2節の最後にある「私の民を私に服させる方」という言葉は、祈り手の心情をとてもよく表した面白い表現です。自分のような人間に、民が平伏するのは、神が自分を支えてくださる方だということを、ダビデは知っていたということを、ここで表しているのです。この言葉には、自分が経験している不思議さを、実感を込めて語っています。

 なぜ、こんなことを言っているのかというと、続く3節と4節にこうあります。

よ 人とは何者なのでしょう。
あなたがこれを知っておられるとは。
人の子とはいったい何ものなのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
人は息にすぎず
その日々は影のように過ぎ去ります。

 祈り手は自分のいのちの小ささ、はかなさを知っているのです。自分はこんなにも弱く、小さな者でしかないのに、神はその者に目を留め、まさに岩のような存在として、守り支えてくださる。その不思議をかみしめているのです。

 自分は小さい人間だと、拗ねているわけではないのです。人のはかなさを知りながら、神のまさに「ヘセド」に、恵みとか慈しみという言葉に込められた、神の思いの不思議さに思いを寄せているのです。

 この王ダビデは、自らが手にした権力で、自分を誇り、さらに自分を大きく見せようなどということは考えていないのです。自分のような人間の小ささを知りながら、その者に目を留めてくださる神の慈しみ、神の恵みの不思議さに思いを寄せているのです。

 きっとそれは、私たちがことあるごとに思い起こされることであるに違いないのです。なぜ、自分のような者が、キリスト者になったのだろうか。なぜ、自分にこんな仕事が任されているのだろうか。こういう家族が与えられているのだろうか。主は私に、私たちに、それぞれの置かれたところで期待していてくださるのだということに目が向くときに、私たちは謙虚な思いになるのだと思うのです。

 そこで私たちが感じるのはただただ、神の恵み、神の慈しみ深さ、神の憐れみの大きさなのです。

 こうして、この祈りは後半部分に移っていきます。詩篇に記されているいつもの祈りのように、ここから具体的な求めが始まります。5節から11節に記されている神への要求はとてつもない内容になっています。
5節と6節にはこう記されています。


あなたの天を押し曲げて降りて来てください。
山々に触れて 噴煙を上げさせてください。
稲妻を放って 彼らを散らし
あなたの矢を放って 彼らをかき乱してください。

 今のようなSFものの映像など見たこともない時代の人々の祈りの方が、よほど想像的で、刺激的な内容の祈りをしているということが、よく分かります。

 私たちの祈りはひょっとすると行儀が良すぎるのかもしれません。この祈り手の、祈り求めの内容はとても大胆です。
「あなたの天を押し曲げて降りて来てください。」
「山々に触れて 噴煙を上げさせてください。」

 それは、まさにファンタジーの世界です。天が押し曲げられるとか、山から噴火が起こるなんていう天変地異を祈り求めるほどの大胆さを、私たちは持っていないのかもしれません。しかし、私たちの神は、この天地を創造されたお方ですから、本当であればあらゆることを期待できるはずです。

 今、再び、この地域にも緊急事態宣言が出されようとしています。そこでもまた「天を押し曲げて降りて来てください。そして、この世界のこの状況を救ってください」と私たちは真剣に祈ることがゆるされているのではないでしょうか。

 宗教改革者ルターの言葉に、「あなたは偉大な王の前で、スープを一杯くださいという祈りをしているのではないか。」という言葉があります。

 もし、偉大な王に願い事をすることがゆるされるなら、その王の偉大さにふさわしい願い事をすべきです。それが、叶うかどうかは次の問題です。

 私たちの主は、不動のお方、岩なる主、主は私の恵み、と言い得るお方なのですから、私たちも、この祈りにならって大胆に祈りたいものです。

 この祈りは11節までいくとこういう言葉が出てきます。

私を異国人の手から解き放ち
救い出してください。

とあります。

 この詩篇144篇の下敷きになっている詩篇18篇はダビデがサウルの脅威から救い出された時の祈りでした。この詩篇に刺激を受けたこの詩篇の作者は、どうも、異国人の手によって苦しめられているのだということが分かります。

 イスラエルが異邦人に苦しめられた時というのは、沢山ありますから具体的な時期は断定できませんが、異邦人に支配されてしまっているような絶体絶命の状態であっても、神の民は、詩篇の祈りに支えられながら、自分たちの言葉で新しい詩篇をつくりだしていったのだということがよく分かります。

 そして、この祈りは、12節から突然主語が「私たち」となります。私たちの息子たち、娘たちが神の祝福の中に生きることができますようにと祈っています。主をほめたたえているのは私であっても、祈り求めているのは自分のことではなく、私たちのこと、イスラエルの民、または自分の子どもたちのことを祈り求めているのです。将来の子どもたちのことを案じているのです。

 このことも、私たちはこの詩篇から改めて考えさせられます。どうしても、自分自身の生活が、祈りの中心になりがちなのです。神の歴史の中に身を置いているのだという自覚が、薄いのです。もちろん、それは、現代社会がどんどん個人主義化しているという影響があるでしょう。

 自分は自分、子どもは子ども、そんな割り切った考え方が、冷たい、冷えた家族関係を作ってしまいます。しかし、見るべきは、自分のことだけではないはずなのです。子どもたちのことを、神の民であるキリスト者たちの、この国の教会の将来のことにまで目を向けて祈っていくことが、私たちには求められているのです。

 来週、この教会は宣教を開始して40年の記念の礼拝を祝おうとしています。40年というのは、聖書では試練を表す年月です。確かに、この40年の間、この芥見教会にはたくさんの試練がありました。今も試練は続いています。けれども、40年前に、この教会をはじめたジークフリート・ストルツ宣教師は、この教会の将来を夢見て祈ったはずです。私たちは、祈って来たはずです。その祈りに支えられて私たちの今はあるのです。

 岩は、そこにあって動かないのです。そして、そこに変わらずあり続けるものです。私たちの芥見教会の礼拝堂は、地盤にくい打ち工事をして、堅い土台の上に、この会堂を建てあげました。何があっても、教会が倒れることがないようにしたのです。私たちの主は、岩のようなお方です。この岩である主が、私たちの信仰の土台となるのです。もし、誰かが、子どもたちが遠くに引っ越したとしても、私たちの神の力は変わることなく、いつも同じところにあるのです。信仰の土台が、子どもたちがどこにいたとしても、それは、私たちの人生の土台となるのです。

 私たちは、岩なる主の上に、私たちの生活を築き上げるのです。それは、息子も、娘も受け継ぐことのできる信仰の遺産です。その遺産が、今の教会を作っているように、これからの教会も築き上げていくのです。

 この詩篇はこういう祈りの言葉で結ばれています。


私たちの倉は
もろもろの産物で満ちますように。
私たちの羊の群れは 私たちの野で
幾千幾万となりますように。
私たちの牛が子牛をよくはらみ
早産も流産もなく
哀れな叫び声が 私たちの町にありませんように。

幸いなことよ このようになる民は。
幸いなことよ を自らの神とする民は。

 この詩篇の結びにあるように、主の幸いを見る民は幸せです。

 私たちは、この幸いを40年かかって岩である主から見せていただいたはずなのです。そして、変わることのない岩なる主は、私たちにこのような幸せな将来を描かせてくださる主なのです。

 主の慈しみを期待して祈り続けてまいりましょう。お祈りをいたします。

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