2021 年 7 月 4 日

・説教 ローマ人への手紙1章26-32節「神を知る価値」

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2021.07.04

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 前回、私は説教の中で一つのたとえ話をしました。素敵なディナーに招かれた話です。

 神は、私たちを素敵なディナーの席に招待してくださいました。それは、とても素敵な雰囲気の中で、おいしい食事を頂く、まさに完璧なディナーの席です。ところが、その席に招かれながら、心ここにあらず、テレビのスイッチをつけ、食べているものにもあまり目を留めないで、また目の前に座っている相手のことも無視していたら、招待してくれた人はとても悲しみますよねという話をしました。

 それは、このローマ人への手紙の1章の18節から32節までに記されているテーマです。招いてくれた人のことを無視して、自分の見たいものを見る、テレビをつける。それを、聖書の別の言葉で言い換えるなら、「偶像礼拝」ということになります。

 そして、今日の26節から最後の節までで記されているのは、そうやって、招いてくださったお方を無視し続ける姿というのは、どういうものなのかということが、一つのリストのようにまとめられて記されています。

 この29節から31節に記されているリストのことを、「悪徳表」と言います。

 私たちをこの世界においてくださり、私たちが喜んで生きていくことができるように招いてくださった神ご自身を無視して、自分勝手に生きる、それはどういう形になって表れるのかが、ここでひたすらあげられています。

 私たちが今日与えられている聖書を読む時に、こういう箇所を私たちはどう読むのでしょうか。こういう悪徳のリストを見ると、ああこういうことは良くないことなんだな、今度から気を付けようと思って読む。そんな読み方をするのかもしれません。

 今日のところには、何が神を悲しませるのか、罪とは何かということが、ひたすら書かれています。ただ、私たちはこういう箇所を読む時に、この手紙を書いたパウロはこの文章で何を伝えようとしているのかということを、知らなければなりません。

 パウロがここで私たちに語っているのは、こういうことをしてはいけませんよということなのでしょうか。そうではないのです。むしろ、このリストに含まれていることをしていない人なんて、どこにも存在しないのかもしれません。

あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。

 さすがに、ここまで列挙されると、こんなにひどくはありませんと言いたくなるかもしれません。あるいは、みんなだってやっているじゃないですかと言いたくなるのかもしれません。

 パウロはここで告げようとしているのは、神を知ることを認めないとこうなると言っているのです。

この中で、3回同じ言葉が繰り返されている言葉があります。それが「引き渡されました」という言葉です。24節と、26節、そして、28節に出てきます。

 この「引き渡す」という言葉は、ギリシャ語で「パラディドミー」という言葉です。イスカリオテのユダが、主イエスを裏切った時にも使われた言葉です。任せてしまうということです。

 任せてしまうというのは、自由にすればいいということです。

24節「そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました」
26節「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。」
28節「また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました」

 神は、その判断を完全にその人に任せてしまわれたというのです。そして、これほど恐ろしいこともまた無いのです。人はのびのびと自由に罪を犯すのです。そして、誰もそれを止めてくれる者もいないというのです。神さえも、もう手を引いてしまわれている。罪のおもむくままに引き渡しておられるというのです。

 そのことをある人は「自由とは氷の上に立つようなものであります」と言いました。つるつる滑って転びやすい氷の上に、支えなしで立たされているようなものだというのです。転びやすい氷の上に、支えもなしに放置され、そこでひっくり返ってしまう、転倒してしまうままにされているようなものだというのです。そして、それこそが、神の裁きの業なのだというのです。

 現代社会が何と言おうが、聖書が語っているのは、性的な罪、対人関係の罪、対社会との関係、無分別な生き方、それらはすべてしてはならないことだとここで語っています。

 20節で語られているように、「彼らに弁解の余地はありません」

 ここに記されているのは、神から離れているということが、どれだけこの世界を暗くするのかということです。ここに記されている一つ一つの事を、ここで丁寧に取り上げるつもりはありません。字を見れば、分かることです。そして、ここに書かれている悪徳表の数々は、誰が見ても、正しくないということは明らかです。

 問題は、誰ひとりとして、ここにあげられているリストと無関係な者はいないということです。この世界の闇の深さを、私たちは誰もが知っています。そして、自分はこれとは完全に無関係だと言える人は残念ながらいないのです。

 最後の32節でパウロはこうも言っています。

彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。

 これを行っている者も問題だけれども、それに目をつぶっている者も、それに同意しているとの同じだと。もうぐうの音も出ないほどに、その闇の濃さを、深さをパウロはここで語っているのです。

 しかし、私たちは知らなければなりません。福音には神の義が啓示されているのです。この福音というのは、この世界を創造された神が、その神の支配される世界にあって、そこに私たちを生かしてくださるということです。それが、神の義です。義なる神の御業です。

 私たちが見なければならないのは、この世界の罪の薄暗さではないのです。私たちが見るべきは、義なる神の真実な世界です。神を知ることの価値の大きさです。光の明るさです。

 一方で、この世界は闇に支配されようとしているのです。そして、神は、その闇に支配されていくままにしておられる。そこに生きている人を、そこで放置し、そこで倒れてしまうことを黙認しておられる。それは、人々が与えられたその自由を行使して喜んでそう選び取ったからです。

 神はそこまで、完全に人に自由を与えておられるのです。何を選び取っても自由です。神はそれを、ひとつずつ挙げて注意されるということはありません。ただ、その責任はすべて私たちが取らなくてはならないのです。

 人は悪を受け入れる自由も与えられており、断る自由も与えられているのです。そして、この断る自由があるということが、実に大事なのです。なぜなら、そこにこそ、自由があるからです。

 神は、私たちをむりやりディナーの食卓に着かせたいわけではないのです。気が乗らなかったら、その席に着かないことも認めておられる。

 しぶしぶその席について、不貞腐れたままで座って、いつまでここで我慢していなければならないのかと、文句を言うような“お子様”を招きたいわけではないのです。しばりつけてでも、そのテーブルに着かせたいわけではないのです。しぶしぶ、親に連れられてきて、我慢させられるような状態を望んでいるわけではないのです。

 もちろん、子どもに対して、そのすばらしさを教えるために、一緒にいさせるということは大切なことです。そのことを否定したいのではありません。

 私たちの主は、私たちを招いたその食卓で、テーブルに並んでいる食事のおいしさを自分で味わってほしいと思っておられるのです。何なら自分の好きなものを、そのテーブルに運んでくることのできる自由さえ与えられているのです。ステーキだろうが、おすしだろうが、ウナギのかば焼きだろうが、かつ丼だろうが、そこにはすべてのものが揃っているのです。

 大切なのは、神が私たちのために何を取り揃えて下さっているのかを知っていることです。どんなメニューがあるのか、どんなデザートが準備されているのか、飲み物には何が用意されているのか。そうして、その席に招いてくださっているお方の心を知ること、そのお方の私たちへの愛を知ること、その優しさを知ることなのです。それも自分で知ることが大事なのです。

 神は、私たち、一人一人が、まさに、その神の福音を喜んで欲しいと望んでおられるからです。

 なぜ、私たちは、いつまでも言い訳じみたことをしたがるのでしょう。神の心を無視して、自分勝手なことをして、だって、これはゆるされているはずだ、自分にはその権利があるはずだ、これにはこういう事情があって、こういう理由があって・・・自分だけじゃない、あの人もやっている、この人もやっている。そんなことを神は聞きたいのではないのです。

 大切なことは、たった一つです。

 それは、その言い訳は神の御前に通用するのですかということです。偶像礼拝をしながら、まことの神に、できる言い訳などあるのか。

 心にとめなければならないのは、ただ一つです。 

 それは、神の御前にあること、それだけです。神の御心を知ること、それだけです。

 私たちの主は、どれほど愛の深いお方なのか。どれほど細やかな配慮をしてくださるお方なのか。どれほど、私たちを喜ばせたいと願っておられるのか。

 このお方のことを知ることに勝るものは何もないのです。神を知る価値に勝るものなど、何一つ存在しないのです。

 お祈りいたします。

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