2021 年 11 月 21 日

・説教 ローマ人への手紙8章14-17節「神の子どもとしての祝福」

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2021.11.21

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今週から礼拝のプログラムの「聖書のおはなし」を再開することになりました。コロナウィルスのために短縮礼拝をしていますが、少しずつ戻していければと願っています。

 先ほどの「聖書のおはなし」いかがだったでしょうか。

 きれいな映像と共に、この世界を創造された神が、私たちのことをどれほど大切に思っていてくださるか、どれほど愛してくださっているのかが語られていました。

 私たちが当たり前に感じている今の私たちの生活の中に、どれほどの神の愛が隠されているかを気づかされる思いになります。

 最近、我が家では、朝の食事前に短い本を読んでいます。タイトルは『にゃんこバイブル』という本です。きれいな猫の挿絵が描かれていて、「猫から学ぶ聖書のことば」というサブタイトルがつけられています。

 私は猫派か犬派かというと、犬派ですが、この本は猫ならではの習性から、聖書を紐解いていきます。たとえば聖書の中に「放蕩息子」と呼ばれる物語があります。親元を離れて、財産を持って出て行った息子が、湯水のように財産を使い果たして、父のところに戻って来る話です。この本では、この放蕩息子の物語を猫にあてはめながら聖書を読んでいくのです。猫は家を出ていくと、どこで何をしているか分かりません。けがをして帰って来ることもあれば、どこかで何かご飯を貰ってきたかのような匂いをさせて戻ってくることもあります。どんなことがあっても、帰ってくることのできる家がある。そして、自分が失敗してきたことも、何も言わなくても受け入れてくれる。それが家族というものだと書かれていました。

 この聖書の物語に出てくる放蕩して帰ってきた息子と、猫とを比較することで、聖書のメッセージが更に具体的なものになる。そんな新鮮な気付きをこの本から与えられています。

 今日のテーマは「神さまの子ども」です。その、世界を創造された神様は、私たちをご自分の大事な子どものように、愛していてくださいます。猫のような、ちょっと何を考えているのかわからないようなところと、私たちの姿というのは少し結びつくのかもしれません。

 我が家には犬がいます。犬は比較的分かりやすい生き物です。犬の気持ちは、尻尾を見ているとわかります。尻尾を振っている時は大抵うれしい時です。これが、特にうれしい気持ちになると、尻尾の振りが速くなって、それも高い位置で振り始めます。反対に、本当に嫌な時というのは、尻尾が足の間に隠れてしまいます。「尻尾を巻いて逃げる」という言葉がありますが、まさにそんな風になります。

 私たちと神様との関係はどこで分かるかというと、祈りの姿に現れます。「天のお父さま」と神に向かって呼びかける時、それは神様との関係が良い時です。けれども、全然祈らない時というのは、神様と私たちとの関係が悪くなってしまっているのです。

 今日の聖書の箇所には、私たちがこの世界を創造された造り主であられる神に向かって「父よ!」と祈りたい思いを持つというのは、私たちの心に神様の霊である聖霊が働いていてくださるからなのだということが書かれているのです。

 しかも、15節の後半にこう書かれています。

私たちは「アバ、父」と叫びます。

 ただ、「お父さん」と神様に声をかけるというだけではなくて「叫ぶ」と書かれているのです。

 子どもが、父親に叫ぶ時というのはどういう時でしょうか。考えてみると、たとえば、公園かどこかに遊びに行っている時に、まわりに人がたくさんいて、声が届かない時です。「自分はここにいるよ!」「私を見て!」という叫びです。そして、その時には何か訴えがあるはずなのです。聞いてほしいメッセージがその時の子どもにはあるのです。

 神様に向かって、どうしても聞いてほしいメッセージがある、どうしても自分の方を向いてほしい。そういう思いをもって神に祈る。「お父さん」「パパ!」。それが、この「アバ、父」という言葉です。

 神様にむかって、何かを叫ぶように語り掛ける。そんな祈りをすることができるのが、神さまの子どもの特権なのだというのです。

 今日の聖書の箇所の中心的な言葉は、今日の冒頭の14節です。

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

 神の子どもとしての特権は、私たちが祈る時に分かるのだということです。お祈りをすることができるというのは、神の子どもの特権なのです。

 今日は、子ども祝福式をお祝いする主の日です。親は子どもの祝福を願います。神の眼差しが子どもに向けられている。このことが祝福なのです。神が見ていてくださる。わが子のように、子どもが道を見失ってしまうことがあったとしても、子どもが自信を失ってしまうようなことがあったとしても、神はその子どもを見ていてくださる。そして、この神は、ご自身の子どもが神に向かって「父よ」と祈ることができるようにしてくださっているのです。

 最初に紹介した『にゃんこバイブル』の中に、自分の飼っていた猫がガンになってしまった時のエピソードが記されていました。舌のガンです。そのことを知ってショックを受けます。動物病院を出る時に、奥さんが病院に連れられてくる犬や猫を見ながら、こんな話をしたそうです。やがて看取らなければならない、つらい時が来るのに、どうして人はペットを飼うんだろうと。そこには悲しむことが分かっているはずなのにという意味が込められていると感じたと、この著者は書いていますが、その奥さんの問いかけに、「悲しいかどうかは人によるかもね」と答えたのだそうです。そして、聖書に出てくるヨブのことを書いています。

 ヨブはたくさんの財産と子どもたちに恵まれていた人だったのですが、ある時突然、すべての財産を失い、子どもたちを失った人でした。その時に、ヨブがこんなことを言ったのです。

「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」ヨブ記2章10節

 人生には良いことだけではなく、悪いことも起こるのです。けれども、神は、私たちが災いを受けるような時にも、私たち神の子どもに「父よ!」と叫ぶことのできる祈りを与えてくださっているのです。

 祈って、病気が治るわけではないかもしれません。猫の死を止めることはできないのかもしれません。子どもの病気を、私たち自らの災いを取り除くことはできないのかもしれません。それでも、神は私たちの叫びを聞いてくださる。聞く用意がある。そのために、私たちにご自身の霊である神の霊を注いでくださるのです。

 良いこともつらいことも、起こるのが人生です。そして、その自分に与えられた人生そのものを私たちがしっかりと立って、歩んでいくことができるように、神は私たちを支えてくださるのです。

 そして、そのような人生の先に何が待っているかというと、最後の17節です。

子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

 神様はキリストに与えられている相続財産を、私たちに一緒に受け継がせるのだと約束しています。「神の相続人」とあります。

 主イエスを信じるということは、神様の奴隷になる、神のしもべになることだと前に書かれていたのですが、それは、嫌々従わせられるような存在になるということではなくて、神様の子どもになるというイメージなのだということが書かれているのです。そして、神の子どもであることの特権は、奴隷と違って、神の子どもとしての相続があるということだと言うのです。

 主イエスは神の御子です。主イエスに与えられるものが、私たちにも約束されているのです。先週の礼拝は召天者記念礼拝でした。亡くなった方々のことを思い起こす時を持ちました。そして、先週の17日にはこの教会を40年前に開拓してくださったストルツ先生が天に召されたという知らせが入ってきました。

 これらの方々は今、天に在ってこの神の相続に与っている。天の御国で、いま確かな喜びの中に生かされていることを、私たちは今日の聖書の箇所から教えられるのです。そこには、私たちの将来への安心感が語られています。だから、人の死という悲しい出来事も、希望を持って平安の内に聞くことができるのです。

 神様の子どもであるということは、私たちが今の困難の時も、死の後も、確かな約束の中で守られているということであり、それが今日のみ言葉で約束されているのです。私たちは、神の子どもとして完全な安心感の中に生かされることができるのです。

 ただ、そこで一つのことが忘れられないように、ここで書き添えられています。それは、この17節の真ん中に書かれています。

キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのです。

 このことが忘れられてはならないのです。キリストと共に栄光に与る、相続財産に与るということは、キリストが受けた苦しみをも受けるということでもあるのです。

 神の子どもであるということは、神の子どもであるキリストがこの世では理解されなかったように、私たちも理解されないことがあるということです。

 愛に生きるということは、自分を犠牲にするということです。自分が傷つくことでもあります。人を愛しても、人を大切にしても、それが、自分に戻って来るとは限らないのです。キリストのように、場合によっては殺されてしまうこともあるのです。

 この11月の第一週と第二週は「迫害下にある教会のための祈祷日」として定められています。世界中の教会で、今世界で迫害されている教会の人たちのために祈ろうということが勧められています。それで、先週の祈祷会の時にも、みんなで覚えてお祈りをいたしました。レポートによると去年2020年は、一日に13人のクリスチャンが信仰のゆえに殺されたと報告されています。一年で約5000人の人々が迫害のために殉教したというのです。

 私たちの国ではそのような大きな迫害は無いのかもしれません。けれども、私たちは私たちで様々な困難や艱難があります。それは私たちについてまわるのです。けれども、私たちはそのような時も、「父よ!」と神に叫ぶことができるのです。そして、神の家にいつも招かれて、安心することができるようにされているのです。

 神の子どもである。この祝福が、子どもたちにも、そして、ここに集っている私たちにも与えられていることを、今日共に覚えたいのです。そして、神の子どもとされている祝福を共に感謝したいのです。神は、私たちのことを見ていてくださって、私たちに心を向け続けてくださる愛のお方なのです。

 お祈りをいたします。

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