2022 年 7 月 3 日

・説教 ローマ人への手紙15章1-6節「心を一つに」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 00:19

2022.07.03

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 先週の祈祷会で、今朝の聖書箇所の学びをした時にF長老がこんな質問をされました。

 「このローマ人への手紙は、ローマに住んでいる人と、その土地に住んでいるユダヤ人のキリスト者の両方に宛てて書かれたものなんですね?」

 私は、はじめこの質問の意図がよく分かりませんでしたが、お話ししているうちに、だんだんその質問の意味が分かるようになってきました。

 私たちは、このパウロの手紙のことを、ローマ人への手紙と言っています。そうすると、私たちは無意識的に、ローマに住んでいるローマ人に向けて当てられた手紙だと思い込んでしまいます。けれども、当時のローマにはすでに大勢のユダヤ人たちが住んでおりました。ある聖書学者は、さまざまな当時の文献を読むと、当時のローマには少なくとも4万人のユダヤ人がいただろうということが分かると説明しています。そのユダヤ人たちは、当然ローマにあるシナゴーグと呼ばれるユダヤ人の会堂に集まります。そして、ローマで生まれたばかりの教会も、ユダヤ人の会堂を足掛かりにして生み出されていきました。

 ですからローマにある教会には、多くのユダヤ人たちの信者がいて、そこにはローマ人の信者もいたことになるわけです。

 ところが、聖書はローマ人に宛てて書いたというので、どうしても私たちはローマの教会にいたであろうユダヤ人キリスト者たちの存在のことをつい忘れてしまうのです。

 それで、新共同訳聖書や、それに代わって訳された協会共同訳聖書では「ローマの信徒への手紙」としました。こちらの方が、誤解を招かなくなります。ローマの教会の信徒は、はじめから二種類の人たちが集まっていたのです。

 この二種類の人々が集まる教会には、当然のこととして、それぞれ異なる習慣や風習があります。ローマに住んでいた人々は、キリスト者になる前から、そのローマの習慣で生きてきましたので、ローマの習慣についてそれほど疑問には感じません。

 けれども、ユダヤ人はそうではありませんでした。旧約聖書を読むと、ユダヤ人がカナンの土地に住むようになる時に、神様は徹底して、異教の習慣を取り入れないようにと、律法で戒められたのです。それこそ、もともと住んでいたカナン人の食べ物の習慣は受け入れませんでした。豚やラクダを食べるということも禁止しましたから、その理屈でいけばローマに引っ越ししたユダヤ人たちもローマの食文化を簡単に受け入れられなかったのは当たり前のことでした。

 ところが、パウロの伝道していた時代になりますと、神様は、食べ物のことは問題にしないと方針を転換します。これが、そもそもの混乱の原因になっていったわけです。

 新しい時代。新しい契約の時代に教会は突入しました。ですから、古い考え方から抜け出せない、ユダヤ人と、新しいパウロの福音を聞いてキリスト者になる人たちと、二種類のキリスト者たちが当時の教会では、どちらの言い分が正しいのかということで争っていたのです。

 それが、このローマ書の14章から続いているテーマです。これからは、二つの考え方の人がお互いに理解し合って、受け入れ合って、愛し合っていきましょうとパウロは言っているのです。

 みなさんも、これまでの人生経験の中で、何度となく、違うものの考え方をする人とトラブルになるということがあったのはないでしょうか?

 その一番顕著な例が、結婚生活です。結婚するまでは、この人と一緒になりたいと思って、ある意味では結婚生活に憧れさえ抱いて、結婚したはずなのですが、結婚してみるとたちどころに、あれ? 思ったほど楽しくないぞということになるのです。それは、お互いに思い描いた新しい生活が、蓋を開けてみると全然違うものになっているという現実を見ることになるからです。

 これは、結婚生活だけではありません。会社に勤めに出る時も同じです。どんな会社なんだろうと期待しながら、その会社に勤めたはずなんですが、すぐにあれ? こんなはずじゃないということになるのも、同じです。

 そういう経験をしたことのある人は、その背景にみな同じ問題があります。それは、「自己実現」というものです。自分の思い描いて来たものを、実現するときに、その自分の期待感と、実際の新しい生活とのズレが生じるわけです。

 これは、教会の中でも同じことが起こっていたようで、ユダヤ人のキリスト者たちからすれば、ユダヤ人たちのこれまでの信仰の延長線上に、新しい教会があると思っていましたし、ローマ人のキリスト者たちは、まさか、自分たちのこれまでの生活が全否定されるなんてことは思ってもみなかったのです。

 それで、パウロはこう言いました。1節です。

私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。

 自己実現がうまくいかなかった時に、相手を批判することで、その心の合理化を図らないようにと、パウロはここで「自分を喜ばせるべきではないのだ」と言ったのです。

 このことが分からないと、この問題の解決に至ることはないのだと言うのです。

 問題は、自分を喜ばせることにある。自己実現ということを考えていると、そこにあるのは徹底して自己です。自分の思いです。

 2節ではもっとはっきりとこう言っています。

隣人を喜ばせるべきです。

 自分が嬉しくなるために、私たちは存在しているのではなくて、隣人を喜ばせるために生きているのだと言うのです。

 これは、まさに目からうろこのパウロの指摘です。

 ただ、これはなかなか、「はいそうですか!」とはいかないテーマでもあります。私たちが、救われたいと思って教会に来ることも、ひょっとするとこの自己実現を求めてきている場合もあるからです。

 たとえば、教会にいったら悩みが解決するのではないかとか、病気が治るようになるのではないかとか、あの親切そうな〇〇さんとお知り合いになれて、幸せそうな生活を送れそうだとか、人によって求めかたは違うでしょうけれども、さまざまな自己実現の要求があると思うのです。

 そう思って教会に来てみたら、自分のことは横に置いておいてください。他の人が幸せになることを考えて、ぜひあなたは周りの人に親切にしてあげてくださいと言われてしまうと、それは頭になかった……という衝撃を受けることにもなりかねないのです。

 さらに、パウロは追い打ちをかけるように3節でこう言います。

キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。

 最近流行の言葉で言うと「はい、論破!」ということなのかもしれません。「そもそも、イエス様もそんなことやってないからね」というのです。私たちの目標である主イエスも、自分を喜ばせるために生きてはおられませんでした。自己実現のむしろその逆です。愛するというのは、自分を殺すこと、自分を十字架の犠牲にするような、そういう愛の心で周りの人を大切にすること、周りの人を喜ばせるためだったと言うのです。

 パウロの言葉はまだ続きます。4節です。

かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。

 パウロはここでダメ押しと言わんばかりですが、「旧約聖書を読んでも、それは同じだ」と言おうとしています。聖書が語っているのは「忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるため」だと言います。

 聖書の神は忍耐の神だと言うのです。

 何よりも、神ご自身も、罪ばかり犯し続けて神を失望させる神の民であるイスラエル人に対して、忍耐し続けて来られたのだと言うのです。その神は、ご自分で忍耐しながらも、神の民を励まし続け、希望を示し続けてこられたではないかと言います。

 ここに来て私たちは、ついしてしまいがちな聖書の読み方について、改めて気づかされることになります。

 パウロはここで、私たちは力あるものだと1節で言いました。前の14章では強い人と弱い人という言葉を使いました。裁かれる側に立つ人のことを強い人と言いました。これは、ユダヤ人に裁かれていたローマ人たちのことを指していました。そして、今日の箇所でも、力あるものは、力のない弱い人を受け入れるべきだと語られています。ローマ人は、ユダヤ人のキリスト者を受け入れてやる必要があると言ったのです。

 そうすると、私たちは自然に、「私たちは我慢してやっている者」としての立場で聖書を読むようになります。そうだ、私たちが赦してあげないとと考えるのです。イエス様もそうだし、神様だって、ずっと忍耐して来られたんだから、私たちも忍耐しないといけないですねという読み方をしてしまうのです。

 ところが、神ご自身が忍耐しておられ、「神は励まして、希望を与えようとしておられる神なのだ」というところまで来ると、改めて、「神さまは私たちのために神ご自身が忍耐しておられるのだ」ということに気づかされます。

 実は、そのことに気づくとここから福音が分かってくるようになるのです。

 その、神に忍耐させてしまっている私たちが、まるでわたしたち自身が被害者でもあるかのように、私たちも忍耐しないとねとは簡単には言えません。神は、まず私たちを愛して、赦して、受け入れてくださっているのです。そのことに気づくことが求められます。

 私たちは、神に受け入れられている。神が、まず私を忍耐して励ましてくださろうとしておられる。そういう自分の姿をまず見つめなおす必要があるのです。

 5節でパウロはこう言います。

どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。

 ここで、言われているのは本来は教会の中でのことですが、例えば家庭の中でも、職場でも同じことですけれども、誰かに対して私たちが忍耐しているのは、相手も自分たちに対して忍耐しているということに気づくようにと、パウロはここで誘導しているのです。神様が私たちのことを忍耐しておられるように、私たちの周りの人たちも、私たちのことで忍耐しているのです。

 そのことに気づいて、私たちがお互いに、それぞれが忍耐と励ましの神によって支えられている者だということが分かりますようにと言っているのです。そうしたら、自分を悩ませているあの隣人を愛することができるようになる。イエス・キリストの愛が分かるようになるとパウロは言いたいのです。

 そこまで来ると、自己実現などということはどこかに飛んで行ってしまいます。あの人も、私も、神を困らせている。けれども、その神が私たちを励ましてくださって、お互いに愛し合おう、赦し合おう、受け入れ合おう、そうすれば主イエス・キリストと同じ思いを抱くことができるようになるでしょうと、パウロは祈っているのです。

 ここで突然、祈りの言葉になっていることに気づかれたでしょうか。

 このパウロの祈りは、この5節から突然始まります。そして、その祈りは6節でこう結ばれています。

そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。

 心を一つにして、声を合わせるというのは、教会でする賛美の姿のことです。あなた方は、教会で一緒に賛美をしているでしょ。その賛美は主イエス・キリストの父なる神を一緒に褒めたたえているんです。それこそが大切なことなのだとパウロは言うのです。そこには難しい議論はありません。一緒に違う考えをもっている人たちが互いに心を一つにして、主を褒めたたえているのです。その教会の姿のようになりますようにとパウロは祈っているのです。

 肝心なことを伝えて、分かって貰ったら後は祈る。これがパウロの姿勢でした。

 あとは、その一人ひとりの決断が正しいものとなるようにパウロ自身も祈っているのです。教会で歌っている賛美の姿を示しながら言うのです。

 もう、一緒に賛美してきたでしょ。大事なのは自己実現ではなくて、父なる神があがめられることです。この神は、私たちに対して忍耐して、励まして、私たちを何とか支えようとしてくださっている愛の神なのです。この神のお姿が見えたら、あとはそのようにしていきましょう。

 私たちは主にあってその心を一つにすること。そのことこそ神が望んでおられることです。パウロはそう語るのです。

 私たちもこれから賛美歌を歌います。ともに、主を褒めたたえます。教会は、この芥見教会だけではありません。この地域にも多くの教会があります。それらの教会もすべてこの主をあがめる教会です。そして、私たちの周りにいる人たちもまた、本来主によって愛されて、主がその人を救いたいと願っておられるお方です。

 そういう方たちとも、ともに主を見上げて、心を一つにして賛美することができるようになるようお互いのために祈っていきたいのです。

 お祈りをいたします。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード

現在、コメントフォームは閉鎖中です。

HTML convert time: 0.159 sec. Powered by WordPress ME