2010 年 10 月 24 日

・説教 「神のゴールデンルール」 マタイの福音書7章7-12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:22

鴨下直樹

「求めなさい。そうすれば与えられます。」とあります。大変有名な言葉です。文語訳聖書の「求めよ、さらば与えられん。」という言葉の方が良く知られていますが、この言葉は、もはや聖書の言葉であるということを知らない人までいるほどに、様々なところで使われるようになりました。普通の会話でも使われるでしょうし、テレビのコマーシャルなどでも使われます。
一般にこの言葉が使われるのは、考えてみれば、「努力すれば何でも手に入れられる」というような意味で理解されることが多いのではないかと思います。そう聞くと、この主イエスの言葉がそのような意味の言葉ではないということは簡単に想像できると思います。けれども、それとそれほど違わない意味で教会でもしばしば用いられます。何事も神に熱心に祈れば、神はかならずその祈りに応えてくださるという意味に理解するということがあるからです。
たとえば、信仰の雑誌の中に、さまざまな信仰の証しが出てきます。そういうものを読んでいてもそうですし、あるいは、キリスト者の救いの証しというのを聞くときにもそのように語られることが多いのではないかと思うのです。聖書に、「求めなさい、そうすれば与えられる」と記されているので、信じて病気が治るように祈ったとか、自分の悩みの解決を求めて祈った。すると、神がその祈りに応えてくださったと本当に喜びながら、主の御業を喜んで証しするということがあります。それは、本当に幸いな経験だと思います。
けれども、同時に、同じ病におかれている人が、同じように信じて祈っても病が治らないということだって起こります。すると、どうしても考えざるを得ないのは、ある祈りは聞かれて、ある祈りは聞かれないという事実です。祈りが聞かれる場合は、主は御言葉のとおりにしてくださったと感謝することができるかもしれませんけれども、そうでない場合は、その原因がどこにあるのかということが気になります。そして、自分の祈りが不信仰だったからではないかとか、祈り方が十分ではなかったという結論になるとすれば、それは本当に残念なことです。まして、自分は神から愛されていないから自分の祈りは聞かれなかったのだと考えなければならない悲しみはどれほどのことだろうかと思うのです。

果たして、ここで主イエスは何でも祈ればそれは手に入れられるというような意味でこのことを語っておられるのでしょうか。主イエスはここで「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」と語っておられるのです。どの言葉も、かならず得られるという約束の言葉として語られているのです。
この山上の説教から御言葉を聴き始めてかれこれ半年以上たっていると思います。教会では、こうして少しずつ丁寧に御言葉を語っていますけれども、主イエスがこの説教をそのまま山の上でなさっていたとしたら、それはもちろん、半年もかけて話されたのではなかったでしょう。まして、ここを読むときにも一気に読んでしまうはずです。そうすると、どうしても気づくのは、主の祈りを教えられる前のところで、主イエスは「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」とすでに語っておられるということです。自分の願いをただ、繰り返せばいいということではない。しかも、ここですでに私たちの祈りを聞いてくださるお方は「あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」と語っておられるのです。
そうすると、ここで「求める」と言われているのは、何を求めるのかということをどうしても考えざるを得ないのです。主は、私たちに必要なものを知っていてくださるお方です。私たちの日常の歩みを共に歩んでいてくださるお方です。そのお方が、「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい」と強く求めるように願っておられるのは、私たちの日ごとの生活の必要とどういう関わりをもっているのでしょうか。

山上の説教というのは、弟子の主イエスに従う者の生き方が書かれている、あるいは、神の国に生きるということがどういうことなのかが書かれているということができます。主イエスが与える救いに生きるというのはどのような生き方であるのかが記されているのです。そして、この部分からは、山上の説教の結びの部分であると言われています。主イエスはこれまで、主の話を聞いてきた人々に、わたしが語ってきたような生き方をあなたはしたくないかと尋ねておられるのです。そのような生き方を、ライフスタイルをあなたも生きてみないかということです。
けれども、先週のところにもありましたけれども、私たちは、自分の目に梁が入っていることに気づかないままに、人の目の中にあるちりにばかり目が向いてしまう者です。あるいは、聖なるもの、真珠を豚や犬にやるなと言われながらも、自分はその犬や豚とどう違うのかと問われれば何も言い返すことのできないような者です。そうであるとすると、やはり、自分のようなものに主イエスが与えようとしてくださる幸いを、生き方など、身につくはずもないではないかと途方にくれたくなる私たちです。そのような者であることを主イエスは十分知っておられながら、ここで、そのような私たちに向かって「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい」と言われます。これは、あなたが何としても手に入れなければならないものだから、あきらめていいようなものではないのだから、とそれこそ話しておられる主イエスの方が必死になって招いていてくださる言葉なのです。
ですから、新改訳聖書にはこの「求めなさい」、「捜しなさい」、「たたきなさい」という言葉のところに注がついております。そこには「求め続けなさい」、「捜し続けなさい」、「たたき続けなさい」とも訳せると書かれています。一度や二度、教会に来て求めてみたということで終わらないのです。求め続けるように、これは、自分の生涯を通して求めていくものなのだということを語っていてくださるのです。
ですから、もうお分かりのことと思いますけれども、ここで「求めなさい」と言われているのは、自分が欲しいもののこと、自分の願い事を願い続けなさい、あきらめないで必死になってやれば手に入れられるということが語られているのではないのです。
むしろ、ここで求めるように言われているのは、私たちの必要を超えたところにある、本当に私たちが日毎の生活の中で必要としなければならない生き方、神が与えてくださる私たちの本当の生き方を、あなたは求めなければならないのだということを、語っておられるのです。

私たちは、どうしても聖書を読むときに、この言葉が自分にとってどういう意味かということに心を向けて読んでしまいます。けれども、私たちが知らなければならないのは、主イエスはどのような思いでこれを語っていてくださるか、神はどのような思いでこの言葉を語っていてくださるのかということです。
「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者は開かれます。」と8節に記されていますけれども、主イエスはここで二度も強調して語ってくださっているのは「誰でも求める者は受ける、捜す者は見つけ出す、たたく者は開かれる」ということです。必ずそれは手に入れられるのだからと語っていてくださるのです。なぜ、主イエスがそう言い切ることができるかというと、神は、どうしても私たちに神の救いを必要だから与えたいのだということを明らかにしてくださっているのです。神は出し惜しみをするような方ではないのです。
ある人は病気が治り、ある人は治らないとか、ある人だけを神は特別に豊かにしてくださり、ある人は貧しいままであるというようなことを考える前に、神がすべての人に救いを与えたいと願っていてくださるということ、主イエスは私たちに神が願っている幸いに生きてほしいということは動かしがたい事実なのだということを私たちは知らなければなりません。そして、この方の救いを受けたものは、そこで、幸いに生きることができるのです。喜んで生きることができるのです。たとえ病気が願っているように癒されることがなかったとしても、私たちが望むものが、望んだ通りにそのまま与えられなかったとしても、神は私たちに良いものを、つまり救いを与えてくださるのです。

ですから、9節から11節にもう一度そのことが語りなおされています。

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におれらるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(9〜11節)

連日、私たちは新聞やテレビのニュースの中で、親が子に行う虐待のことが出てまいります。親が小さな子供を殺してしまうという事件が後を絶ちません。私はそのような報道を聞くたびに、すぐに思い出すのがこの御言葉です。今はこの言葉はそのまま語ることはできないのかという気持ちになるのです。親が子供に良い物を与えることを知っていると本当に言うことができるのだろうか、と考えざるを得ません。悲しい時代です。小さな子供すらも愛することができないで、自分が愛して欲しいという叫びがその中にはあります。愛されるということを知らないがゆえに、愛することができないで苦しんでいるのです。
ここに、「あなたがたは、悪い者ではあっても」と記されています。これは、誰に語っている言葉かというと、主イエスの話を喜んで聞いている人々に向けられた言葉です。自分は虐待などしない、自分は悪い人間ではない、自分は犬や豚と要られるような人間ではないというような言葉はどこかにいってしまうほど、はっきりと、主イエスは「あなたがたは悪い者だ」と言われる。
私は、こう語られる主イエスの、私たちへの深い愛情を感じないではいられません。こういう言葉は、簡単に使える者ではありません。相手への信頼がなければ使うことはできない言葉です。そして、主イエスはここで、もうこれだけ話してきたのだから、この言葉を使っても、ヘソを曲げられないでちゃんと聞いてくれるはずだという確信を持ってこの言葉を語っておられると思います。あなた方は、人を正しく愛することができないかもしれない。自分の方が愛されたいというような思いばかりが強く働くかもしれない。確かに悪い者としか言えないけれども、あなたがたも分かるだろうと語りかけてくださるのです。愛するという思いの中には、その人に対して良い物を与えたいという気持ちがあること、そしてそのように振る舞うことができるからいいとか、できないから悪いなどという評価をここで主イエスはしておられるのはないのです。愛するということから生まれる技が、あなたにも分かるはずだ。そして、その愛を誰よりも深く持っていてくださるのは天の父であることは当たり前のことではないか、と主イエスは深く愛に心を揺れ動かされながらこの言葉を語りかけてくださっているのです。

今日の説教の箇所は12節まで選びました。多くの場合、ここから説教するときは7節から11節までと、この12節とは分けてするのが一般的です。というのは、この12節は黄金律として知られる言葉です。ゴールデンルールというわけです。そこには何が書かれているかというと、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」という言葉です。最後には、「これが律法であり、預言者です。」とありますから、旧約聖書を一言で言い表すとすれば、この言葉に尽きると主イエスが言われたのです。ですから、この言葉の重みは、旧約聖書の重みと言っても言い過ぎではないほどの言葉がここで語られているのです。それで、この言葉を丁寧に語るためには、ここは分けて語るのがいいわけですけれども、残念ながらそのいとまはありません。
先ほど、愛することは現代において難しい一つの社会問題となっていると話しました。愛されていないのに、愛することは難しいのです。主イエスはここで、だからと言って、自分は愛を知らないから愛さないなどというのではなくて、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさいと言われるのです。自分がしてほしいことは良く分かるはずだ。それをしたらいいというのです。
自分の方から先に愛を示すことは難しいことでしょうか。多くの人にとって、このことは本当に難しいことのようです。愛されていないのに、自分の方から愛する、相手のために犠牲を払うなどということは、見返りがある保証もないからできないと考えてしまうようです。そんな理屈で考えなくても、愛が返ってくるかどうかも分からないのに、その人のために何かをするなんて損だと考えてしまうのです。
愛することは想像力を持つことだと色々なところで語られます。その言葉の背後にあるのは間違いなくこの黄金律と呼ばれるこの御言葉にあることは間違いないことです。そして、主イエスはこの愛に生きるためにも、まず、神の愛を知ることを務めなさいと呼びかけておられるのです。神の愛を知る者は、相手の必要を知る想像力を持つようになるのです。自分に十分ゆとりがあるから愛するのではありません。自分は立派な人間だから、自分にしてもらいたいことを人にすることができるようになるのでもないのです。

谷昌恒という教育者がおります。北海道にある家庭学校で長い間指導してこられた方です。家庭学校というのは、教護院です。普通の学校で生活することのできなくなった中学生以上の生徒たちに、もう一度、この学校で自分の生活を作り直してもらいたいと思いながら信頼によって人は育つということを実践している学校です。その、家庭学校でのあり方を綴ったひとむれという書物があります。九巻にもなるものですけれども、その中に、子どもたちとの関わりが語られています。その最初の巻にこういうことが書かれています。ちょうど、今日の聖書の言葉について触れたところです。
パンを求めているのに、石を与えていることはないか、と自らを問うているのです。そして、少なくてもそのような根底にまで掘り下げた反省が何よりもまず必要であるということを確認しておきたいと語っています。
非常に深い想像力に富んだ言葉です。愛に満ちた言葉です。自分たちの行為が、押しつけになるのではないか、相手に届いているのか、自分だけの満足になって喜ぶところに真実の愛はないということに気づいているのです。自分にしてもらいたいように、人にもするということが、自分を喜ばせるような行為ではないということを。それは反省を伴うものであるかもしれません。あるいは、本当に深い犠牲のもとに行われることもあるでしょう。けれども、そこに、キリストの愛が示されるときに、何かが始まるのです。
小さな一歩であっても、そこに、神の生き方が示されていくのです。だからこそ、この戒めが、黄金律などと言われるようになったのです。深い愛の行いを示す言葉だからです。聖書が語っていることは、律法が語り、預言者が語り、主イエスが語っておられるのはそのような愛の生き方をしようということに尽きるのです。この愛の世界が広げられるためにも、その愛を求めたらいいのです。神に教えてくださいと祈り求めたらよいのです。そして、その愛はこの神によってえ必ず与えられるのですから。

お祈りをいたします。

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