2025.11.02
鴨下直樹
今日の聖書の箇所は、主イエスの譬え話が記されています。譬え話自体はそれほど複雑ではありません。ぶどう園の主人が旅に出るので、ぶどう園を農夫に託して出かけます。しばらくして収穫の時期になったので、主人は収穫物の中から農夫たちに与えると約束した分を除いて、収穫物を納めるように使いを送り出します。ところが、農夫たちは主人の言うことを無視して、遣わされて来たしもべたちを3度にわたって暴行を加えた上で追い返してしまったというのです。それで、ついに、主人は自分の跡取りの息子を送り出します。しかし、農夫たちは跡取りを殺してしまえばこの土地は自分たちのものにできると考えて、この跡取りを殺してしまったというのです。
この譬え話のテーマは何でしょうか? これは、前の1節から8節までの話が前提となっています。つまり、神殿の商売人を追い出してしまった主イエスに対して、神殿側の祭司長、律法学者、長老たちが、主イエスに尋ねた「あなたはいったいどんな権威があってこれらのことをしているのですか?」という問いの続きなのです。ですから、この譬え話の箇所もテーマは「権威」です。この「権威」という言葉は、まず覚えておいていただきたいのは「権威」の他にも「権力」や「権限」という意味にもなる言葉だということです。
主イエスは、ご自分の持っておられる権威について、ここで譬え話を用いて話しておられるわけです。この譬え話の中で、農夫たちが登場します。そこでまずこの農夫たちの視点で考えてみたいと思います。この農夫たちは、主人に雇われているわけですから、何の権限ももっていない人です。ところが、主人から預かっている畑で毎日働いていると、いろんなことを考えます。言われたことだけをやっていては、作物は育ちません。肥料をやったり、剪定をしたり、雑草を刈ったり、鳥や動物から作物が奪われないように知恵を絞ります。あるいは、日当たりを気にしたり、害虫の駆除をしたりと、やりはじめると実に様々な労力が必要となります。そうやって、ようやく多くの実を実らせることができるのです。収穫物というのは農夫たちの労苦によって得られたわけで、勤勉に働かなければそれを実らせることはなかったかもしれません。そう考えると、収穫物が取れた時に何も仕事もしないでどこか遠くにいる主人に収穫物を渡すのが惜しくなる。そういう農夫の気持ちはどこかで私たちも分かる気がするのではないでしょうか。
何も仕事もしていないのに、自分が毎日あくせく働いた労働の実を奪う主人は、なんて強欲で、酷い主人なのかと考えてしまう。この農夫は、毎日ぶどう畑で働くうちに、この畑は自分の所有物であるかのように錯覚してしまったようです。ということは、いつのまにか農夫たちは、この土地の収穫物の権利を持っているのは自分たちであって、主人ではないと考えるようになってしまったということなのです。
このように考えてしまう問題点はどこにあるかというと、ぶどう園の主人がどこか遠くに旅に出ているからです。主人が近くにいないために、農夫たちはこの土地が主人のものであるという思いを忘れてしまうわけです。
主人の視点で考えてみるとどうでしょう。この主人はぶどう園を農夫に託して出かけていきます。収穫物が取れた時、10節では「彼は農夫たちのところに一人のしもべを遣わした。ぶどう園の収穫の一部を納めさせるためであった。」とありますから、主人は収穫物の全てが自分のものと言っているわけではなくて、あらかじめ約束しておいた分を納めるようにとしていたことが分かります。それが、収穫物の何パーセントなのかまでは分かりませんが、お互いに納得をして約束をしていたはずで、主人が不当なことをしたというようなことは読み取れません。
先日の祈祷会でお話をした時に、ある方が「ぶどう園の農夫たちは不作で収穫物がなくて焦ったので渡せなかったのではないか?」という意見を言われた方がありました。なかなか斬新な聖書の読み方です。その意見を聴きながら、確かにそういうリスクも農夫にはあるなと考えさせられます。ただ、ここで聖書が語っているのは、このぶどう園の主人は、厳しい取り決めをしたわけでもなく、農夫たちのことも考えている人物であるということは、ここから読み取れるはずです。しかも、主人は何度も使いを送って、農夫たちが自主的に判断できるように促してもいます。
ぶどう園の主人は、このぶどう園の責任者です。ご自分のぶどう園のすべての権威をもっています。それなのに、農夫たちのことを信頼して、農夫たちが自らの判断で、主人に決められた収穫物を納めるように忍耐を持って待ち続けているのです。 (続きを読む…)