2020 年 5 月 31 日

・説教 ガラテヤ人の手紙5章13-26節「御霊によって歩む」

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2020.05.31

鴨下 直樹

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 今日の17節に、「あなたがたは願っていることができなくなります」という言葉があります。私たちはこの数か月の間、確かに願っていることができない状態がつづいていますから、この聖書の言葉をよく理解できるかもしれません。

 コロナウィルスが終息に向かいつつある中で、私たちは少しずつですけれども、自分のしたいことができるようになり始めています。外食をする。誰かと一緒に楽しい時間を過ごす。スポーツジムに行く。いろんな願いが、私たちの心の中に膨らんできています。

 今日の聖書箇所のテーマは「自由」です。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。

と13節にあります。私たちはそもそも自由に生きるように、神は私たちを召した。任命したのだと言うのです。本来は、誰かと楽しく会食をするのも、ジムに行くのも、外食するのも自由です。ただ、パウロはこう続けます。

ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

 この後で、「肉」という言葉と「霊」という言葉が反対の意味の言葉として出てきます。この「肉」というのは、人の心の中に働く自分中心の考え方のことを「肉」と呼んでいます。 

 私たちは自由に生きていいんだけれども、その自由を自分自身のために使わないで、「愛をもって互いに仕え合いなさい」とパウロは勧めているのです。

 ただ、私たちはこういう命令の言葉を見つけますと、もうさっそく「自由」ではない気分になります。なんだ、命令されてるんじゃん。命令に従うなんて自由じゃないじゃん。そんなふうに感じるのです。そして、やっぱり自分の好きなようにやりたいという思いが、頭をのぞかせるわけです。

 自由の難しさはそこにあります。命令されてやるのか、自主的にやるのか。どっちがいいのかということになります。今回のコロナの対応について日本のやり方は、「命令しないが、自主的にお願いします」というスタンスでした。そして、見事にそれをやってのけたことを、世界中の国々が驚いています。もちろん命令されてやるよりも、自主的に判断してやる方がいいに決まっているのです。けれどもほとんどの場合はうまくいかないわけで、それで世界中が驚いているのです。そもそも命令されるというのは、その人がちゃんとできないと思っているからです。 (続きを読む…)

2020 年 5 月 24 日

・説教 創世記25章27-34節「何に価値を見出すか」

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2020.05.24

鴨下 直樹

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 ドイツにいた時のことです。最後の半年間私はある町の教会でインターンとしての実習を受けることになりました。その教会の牧師は日本でも宣教師として働いたことのあるクノッペル先生の教会です。当時、まだ青年だった私はこのクノッペル先生ととても仲がよくて、良い時間を過ごしていましたので、このインターンの期間はとてもよい実習の時となりました。

 この牧師の書斎の机の上にいつもひとつの石ころが置いてありました。遠くから見ているだけでは特に変わった石には見えません。ごつごつした黒っぽい石です。私自身は、石ころにとてもロマンを感じます。これは、どこにあった石なのか、どんな歴史を経て来たのか、何万年前からあるのか、そんな想像力を掻き立てられます。あるとき、私がクノッペル先生に、この石はなんですかと質問してみました。すると、クノッペル先生は顔を輝かせて、まるでその質問を私がするのを待っていたとばかりに、その石について語り始めました。最初に見せてくれたのは、その石の後ろにライトを当てて、よく見るように言われました。すると、なんとその石の後ろに置かれた光を通して見てみると、その石の中に水が溜まっているのが見えるのです。そして、この石の中の水はいつからここに閉じ込められていて、何万年前の水かと想像するとわくわくするという話を聞かせてくれたのです。

 何となく、この人は私と同じタイプの人間なんだと共感できた一瞬でした。もちろん、何の興味もない人からすれば、それはただの石ころでしかないのですが、ちょっと関心を向けると、そこにはとてつもないドラマがあることが分かります。一見、何の変哲もない石に見えても、そこに秘められたドラマに価値を見出すこともできるわけです。

 今日の聖書は、エサウとヤコブの兄弟のある一日の出来事が記されています。読みようによっては、何の意味も感じられないような出来事なのかもしれません。弟が作っていたレンズ豆の煮物を、兄が食べたいと言った時の小さな会話。それだけのことです。けれども、小さな出来事の中に、聖書は実に大きなテーマを取り扱おうとしています。
 それは神の選びと委棄の物語です。「委棄」(いき)という言葉はあまり普段使わない言葉です。委ねられたものを放棄するということです。つまり、この場合、長男としての権利を、エサウは放棄したということです。

 私は五人兄弟の二番目で、長男です。上に姉がおり、下に、弟が二人と、妹が一人います。子どもの頃、まだ小学生の頃のことです。弟は、この話が気に入ったのか、時々神様は弟を祝福するというテーマの話を私にしていました。私は弟になったことがありませんでしたので、兄の持つ価値ということに、あまり興味がありませんでした。もっとも、姉はそうではなかったようで、兄弟げんかがはじまると、その責任を問われるのはいつも姉でしたからずいぶん悩んだのだと思います。そう意味では、私は気楽な二番目の長男だったわけです。けれども、たとえば、おやつを兄弟と分けるというような場合になれば、長男の権利を発動して、大きなものを取ることができましたので、長男のありがたみをそれなりに満喫していたのだと思います。けれども、弟からしてみれば、いつもいい方を兄である私がかっさらって行くわけですから、面白くなかったのでしょう。そんなこともあって、この聖書の物語にことさらに興味を覚えたのかもしれません。

 あるとき、ヤコブがレンズ豆を煮ていると、兄のエサウが疲れて帰ってきます。何日も狩りに出かけてへとへとになって帰って来た。そんなことだったのかもしれません。そして、兄はちょうど料理をしていた弟に、その豆の煮物を欲しいと頼むのです。それは何でもない日常の一コマの出来事です。「いいよ」と言って差し出せばそれで済む話です。ですが、ヤコブはその時にこう言います。

「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」

31節です。 (続きを読む…)

2020 年 5 月 17 日

・説教 創世記25章19-26節「イサクとリベカの祈り」

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2020.05.17

鴨下 直樹

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 先週の15日、新型コロナウィルス感染拡大防止のための緊急事態宣言の解除が出されました。この岐阜県でも段階的に解除していくという指針がだされています。本当に長い期間に感じられましたが、少しずつ本来の生活を取り戻していくことができるようになればと願っています。

 特に、教会に集って礼拝ができなくなるなどということは、これまでの歴史のなかでもそれほどないことです。ですから、多くの方がまた一緒に礼拝ができる日が来るようにと祈ってこられたと思うのです。

 さて、今日のテーマは「祈り」です。イサクが祈り、またリベカも祈っています。私たちもまた祈ります。このような事態から一日も早く回復できるようにと祈ります。祈りには色々ありますが、ここに記されている祈りは、願い求めの祈りです。
 私たちはお祈りをするという時に、そのほとんどが、この願い求めの祈りだと思います。神様に願い事をする。願い求めの祈りをする。それはごく日常のことです。車に乗るとき、運転が守られるように祈る。仕事に出かける時、玄関先で短く、今日の一日の守りを祈る。家族の健康が支えられるように祈り、あるいは、他の人の病気がいやされるように祈る。私たちの祈りの生活の多くが、そのような願い求めの祈りです。そして、時折、私たちにはどうしても祈りをかなえてほしい願いがでてくることがあります。

 時々、お話しすることですけれども、私が中学3年生の時、毎日窓を開けて、天を見上げながらある祈りをしました。それは、私はあまりにも勉強をしていなくて、入学できそうな公立の高校がありませんでした。先生からも私立の受験をすすめられていましたが、我が家にはそんな経済的な余裕がありません。それで、私は一念発起しまして、その日から、毎日祈りました。「神様、どうか私の頭がよくなるようにしてください。あなたはソロモンに知恵を与えられました。私にもできるはずです。」とかなんとか言う祈りです。毎日、毎日、勉強もしないで、祈り続けました。結果、頭は全然よくなりませんでした。幸いに、何とか県下の工業高校に当時は最高の2.6倍という倍率を乗り越えて、公立ぎりぎりの高校に入ることが出来たのは、神様の憐れみだったのだと思います。なんでそんなに倍率が高かったのかよく分かりませんけれども、たぶん、そこが公立の一番下のラインという事で、受験する人が殺到したのだと思います。

 みなさんにはこんな経験があるでしょうか。私たちが祈るとき、時としてとてもわがままな祈りになってしまうことがある気がします。

 ですが、少し考えてみる必要があると思うのです。たとえば、みなさんが相手は誰でもいいのですが、誰かから、顔を合わせるたびに、「ねぇ、お願い、お願い」と願い事ばかりを頼まれたらどうでしょう。ちょっとうっとうしく感じるのではないでしょうか。そういう人と少し距離を取りたいと思うのではないでしょうか。

 よく、デパートに買い物に出かけますと、小さな子どもがおもちゃ売り場の前で泣いていて、母親が腕をひっぱったり、あるいは子どもを無視したりしている光景を目にすることがあります。私はあの光景を見るのは嫌いではありません。がんばっている親の姿を見て、どこか応援したくなる気持ちがあります。みんなそういうことを通して、願うものは何でも手に入れられるわけではないのだという事を、体験的に学んでいくわけです。

 ところがです。不思議なこともあるものですけれども、こと神様にお願いをするときに、私たちは時折この子どものような祈りをしてしまうことがあるのも事実です。祈ったものが与えられないと、へそを曲げたり、腹を立てたりします。でも、よく考える必要があるのです。親は、自分の子どもにでさえ、すべてのものが手に入れられるわけではないことを教えるのに、神さまは全部何でもいうことを聞いてくれると考えるのは身勝手なことなのだ、ということがそこで明らかにされている。それ以外の何物でもないのではないか。そんなことに気づくことが必要なのだと思うのです。

 さて、今日のところからイサクの物語に移っていきます。そして、聖書はここでイサクを描くのにあたって、まずこう書いています。21節です。

イサクは自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。

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2020 年 5 月 10 日

・説教 創世記25章1-18節「その後のアブラハム」

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2020.05.10

鴨下 直樹

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 20年ほど前のことです。当時私が牧会していた教会に、音楽をやっている20代の女の子が来るようになりました。毎週、教会に集い、よく説教に耳を傾けていました。あるとき、当時私は教団の学生や青年たちの担当していたこともあって、教団の青年の交わりに、その女性を誘いました。同世代の子たちと仲良くなれるといいなと思ったのです。ところが、彼女は、私が青年たちとはしゃいでいる姿の方に驚いたみたいで、終始、周りの青年たちに鴨下はいつもこうなのかと聞いてまわっていたのです。どうも、日曜の私の説教の姿と、青年たちと一緒に騒いでいる姿が重ならないので、そのギャップに驚いていたのです。

 その当時、わたしの普段のイメージを知っている方の教会に、礼拝説教者として呼ばれたことが何度かあったのですが、よく「先生の説教は案外普通なんですね」と言われました。暗に面白い話を期待していたようなのですが、それほどでもないので、がっかりしたようです。私としては何とも申し訳ないのと、どんなのを期待していたんだろうと、そのころはずいぶん悩みました。

 今もそれほど変わっていないのかもしれませんが、どうも私に期待しているものと、実際の私には大きなギャップがあるのかもしれません。今、目の前に人がおりませんので、こういう話を誰もいない会堂でやるのはちょっと勇気がいります。今のは一応笑うところです。

 私に限らずですが、私たちはきっとお互いにそんなところがあるのだと思います。いかがでしょうか。教会に来ている時の自分の姿が、自分のすべてではない。なんとなく、そんなギャップに苦しんでいる方もあるかもしれません。

 人にはいろいろな顔があります。人に見せてもいい姿と、人にはあまり見せたくない姿。そして、この人たちには自分のマイナスの面を見せたくないとか、あるいは、本当の自分を知られたら困るとか、そんな思いがひょっとすると、どこかにあるのかもしれません。

 今日のアブラハムの姿は、まさにそんなアブラハムの新しい一面を垣間見せるものです。というのは、アブラハムにもう一人ケトラという側女(そばめ)がいたというのです。しかも、6人も子どもがいたというのです。ちょっとこの最後にきて耳を疑いたくなる話です。今までのは一体何だったのと言いたくなります。

 私たちは何となく、聖書を順に読んでいきますから、息子のイサクがリベカと結婚したので、その後でアブラハムが再婚したようなイメージで読むのですが、どうもそういうことではないようです。100歳のアブラハムに子どもが生まれるのは難しいと言っているのに、イサクが結婚した後ということは、アブラハムは140歳を超えていることになりますから、そうやって読むのは現実的ではありません。1節に「再び妻を迎えた」とありますが、これは恐らくハガルを妻としたときと同じようにという意味なのでしょう。ですから時期としてはまだサラがいた時のことだと考えた方がよさそうです。ただ、ハガルの子、イシュマエルはアブラハムの子孫とされていませんから、ケトラの子たちも、同様にやがて「東の国に行かせた」と6節にあるように、アブラハムの子孫のようには考えられていなかったということなので、最後の最後まで物語の中心にはなりえないということで、これまで書かれていなかったということなのでしょう。

 こういうアブラハムの一面を、最後の最後に聖書はなぜ書くのかという思いになるのですが、それが聖書です。都合のいい部分だけでなく、その人となりを描くことによって、アブラハムという人物の姿を描き出しているのです。 (続きを読む…)

2020 年 5 月 3 日

・説教 創世記24章10-67節「ある結婚の形」

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2020.05.03

鴨下 直樹

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 今日の聖書箇所はとても長い箇所です。今は、新型コロナウィルスの対策のために礼拝の時間を短くしていますので、すべての聖書箇所をお読みすることができません。それで、今日は、10節から14節と、終わりの62節から67節をお読みしました。前回、1節から10節のところから説教しましたが、この24章全体が、イサクの結婚について書かれているところです。長い箇所ですから、そのすべてに目をとめることもできません。ご了承ください。

 ここには、ある一つの結婚の形が描き出されています。それは、恋愛結婚でも、お見合い結婚でもありません。イサクの父アブラハムは、自分のしもべであるエリエゼルにイサクの妻となる人を探しに行かせたのです。ですから、イサクからしてみれば、そのしもべに自分の人生を託すしかないわけですが、どうも聖書を読みますと、イサクの好みを聞いたとかそんな記述も見当たりません。しかも、自分の知らないうちに親が自分の結婚相手を決めてしまっているというありさまです。現代では少し考えにくい結婚の形です。

 けれども、私たちは日本でもそうですけれども、昔は、たとえば戦国時代などもそうですが、親同士が結婚相手を決めるということはごく普通に行われていました。ただ、その場合は家同士の格だとか、自分たちの身分を保つための方法という一面があったように思います。

 私たちは、今日この箇所から聖書が結婚について何を語ろうとしているのかということに目を向けてみたいと思います。といいますのは、創世記のこれまでのところでアダムとエバの結婚以外で、二人が結び合わされて結婚するという場面を描いているのは初めてです。ですから、ここに聖書が描いている結婚の一つの形というのが示されているといえると思うのです。

 さて、今日は24章全体なのですが、先ほど10節から14節までのみ言葉を私たちは聞きました。ここに書かれているのは、嫁探しを請け負うことになったしもべエリエゼルの祈りが記されています。しもべの立場からしてみれば、自分の主人であるアブラハムの担い手となるイサクの妻を探さなければならないわけですから責任は重大です。それで、どうしたのかというと、まず祈ったということがここに書かれているわけです。そして、実にこのまず祈るということの重要さを、私たちはもう一度知る必要があるのです。

 この祈りは、「私の主人のために恵みを施してください」という祈りでした。この二人の結婚が神の恵みであるようにという祈りです。何でもないようなことですけれども、ここに結婚の祝福があるのは明らかです。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 26 日

・説教 創世記24章1-9節「イサクへ、次世代へ継がせるもの」

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2020.04.26

鴨下 直樹

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 毎年、4月の第四週には、教団役員研修会が行われています。今年は、この新型コロナウィルスの拡大防止ということで、残念ながら中止になってしまいました。役員研修会は、各教会の長老や執事、役員がみな参加してその年のテーマでしばらくの時ですけれども、様々なテーマの研修の時を持っています。昨年は、今教団の五か年計画で「次世代への献身」というテーマを掲げていることもあって、教団の20代、30代の若い牧師や宣教師たち6名だったでしょうか、それぞれ描いているビジョンについて語ってもらうというテーマでした。

 その中で大垣教会の伊藤牧師がアブラハム世代、イサク世代、ヤコブ世代という言葉を使いまして、自分はイサク世代なんだという話をされました。実際に伊藤牧師は牧師の家庭に生まれた、二代目です。ただ、彼はそういうことではなくて、この同盟福音の第一世代のクリスチャン家族が、クリスチャンホームを形成して、信仰がその子どもたちに受け継がれている。そういう意味で、自分たちの世代のことをイサク世代であると定義して、その後に続く神様の祝福の担い手になりたいのだという話をしてくださいました。そして、先日この伊藤牧師にも三世代目の赤ちゃんが生まれたそうですから、なおさら伊藤牧師は今このことを願っておられるのではないかと思います。

 アブラハムにしても、ヤコブにしてもそうですが、聖書の中でもこの創世記の二人のことは非常に大きく取り上げられています。けれども、その間のイサクというのはあまり大きな出来事がないという印象があるのかもしれません。けれども、イサクがアブラハムの信仰をしっかりと受け継いだから、その信仰がヤコブへ、イスラエルへと受け継がれていったわけです。その意味で、二世代めのイサクの持っている意味が重要だということができると思います。

 今日は、この創世記の24章1-9節までとしました。ここにはまだイサクは出てきません。ここは父アブラハムの最後の仕事といってよいかもしれません。さて、そこで聖書は何といっているか、少し見てみたいと思います。

 1節にこう書かれています。

アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主はあらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。

 ここでアブラハムが老人になっていたと聖書は書いています。サラを葬った時、アブラハムは10歳年上ですから137歳を超えています。ですからこの時アブラハムはそういう年齢になっているわけです。そして、そのくらいの年齢になって「老人になっていた」という書き方をしているのは、とても興味深い思いがします。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 19 日

・説教 創世記22章20節-23章20節「見えるものと見えないものの狭間で」

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2020.04.19

鴨下 直樹

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 今日のところは、言ってみればアブラハムの生涯の結びの部分です。アブラハムはまだ生きていますが、次のところからはイサクの物語へと視点が移っていきます。これまで、神はアブラハムの生涯に常に介入され続けてこられましたが、ここでは主は出てきません。まるで、アブラハム一人が勝手に行動しているかのような印象さえ受けます。

 ここに書かれているのは、22章の終わりの部分は、イサクの妻となるリベカの家族のことと、アブラハムが妻サラのためにお墓を購入したという出来事が記されています。ここでは特に神が介入されてはいないわけですから、こういう箇所から福音を聞き取るというのは、いったいどうしたら良いのだろうかと、普段聖書を読んでいる方は思うかもしれません。

 先週の金曜日から、私が教えております東海聖書神学塾の講義が始まりました。と言いましても、この新型コロナウィルスのための緊急事態宣言が今度は全国に出されることになり、そのために、神学塾の講義は当面の間オンライン講義になりました。実は一週間前に急遽そのように決めたのですが、講師の先生方には高齢の方もおられますし、塾生もみなすぐにオンライン講義に対応できるとは限りません。それで、先週の金曜日に一度だけ名古屋の塾に集まっていただき、一人ずつ丁寧にやり方を説明しまして、さっそくオンライン講義を行うことになりました。

 私が教えているのは、今年は「聖書解釈学」という講義です。先週の金曜日の講義には8名が受講したのですが、半分の塾生は教室に来て、窓を全部開け、ひとりずつ離れたところに座り、マスクを着けての受講です。ところが、残りの半分の4人はすでにオンラインでやりたいということで、私はパソコンを前に置き、半分はパソコンに向かって話し、半分は目の前の受講生に向かってお話しするというちょっとこれまでに経験のない講義をいたしました。目の前の人がした発言は、少し遠いためにパソコンのマイクで音を拾えません。それで、私がもう一度通訳のように言い換えまして、パソコンの前に座っている人に聞こえるように話しなおして、そして、その質問に答えるというちょっと面倒な講義をいたしました。

 今回は、そういう状態でまだ自宅にいる人には私が用意した講義のテキストも届いていませんから、とりあえずある個所の聖書を一緒に読み、ここをどう読むかという話をいたしました。その箇所は、マルコの福音書の主イエスがご自分の郷里に行かれたけれども、みな不信仰で何もできなかったという箇所です。そこも、今日の聖書箇所と同様に、特に明らかに福音的な言葉が語られているわけではありません。そういう箇所からどう福音を聞き取るのかという話をいたしました。その講義の時にも、お話ししたのですが、私たちは聖書を読むときに、どうしても自分の心に訴えてきそうな聖書の言葉を探して、何か自分にいい教訓のようなものはないだろうかと考えて読んでしまうことが多いように思うのです。

 けれども、そうやって読んでいきますと聖書の大切なメッセージを聴き取り損ねることになりかねません。そういう時に気を付けなければならないのは、聖書がこの出来事から何を伝えたいのかということをしっかりと聞き取ることです。そのためには、その前後の文脈を理解しなければなりませんし、ここで言えばアブラハムの人生の結びの記事として、今日のこの箇所はどういう意味をもっているのかということを、ちゃんと聞き取ることが重要になってくるわけです。

 といっても、これは神学校の講義ではありませんので、できるだけ難しい話はしないで、聖書に耳を傾けていきたいと思います。

 たとえば、今日の22章の20節から24節のところですが、これは、前回のイサクを犠牲としてささげるという出来事の後に、この話が書かれているということが大事で、神はアブラハムの信仰をご覧になってイサクを守られたという出来事と、まったく別のところではイサクの妻となるリベカのことを神はちゃんと備えられているということが記されています。何でもない出来事のようなことですけれども、神の配慮と、神の計画というはこのように進められていくのだということが、ここから語られているわけです。

 そして、この23章のサラのお墓のこともそうです。「サラが生きた年数は127年であった」と1節に記されています。そのうち、アブラハムと共に生きたのは、アブラハムがハランを出たのが75歳で、その時にはもうサラは妻となっていますから、結婚生活が何年だったのかということは、聖書の中に書かれていませんから分かりませんが、アブラハムとサラとは10歳年が離れていますので、サラは65歳から127歳まで、ほとんど人生の半分の年月が、アブラハムと共にカナンの地のあたりでの遊牧生活であったことが分かるわけです。今でいえば、定年退職を迎えてから、その後、一緒に旅をして暮らしてきたと考えてもいいかもしれません。それは、もう一つの人生であったと言うことができるのかもしれません。

 その間には、いろんな苦労がありました。たくさんの悲しみを経験してきた夫婦です。アブラハムからしてみれば、本当に自分の苦しみを共に分かち合ってきたわけです。そういう妻サラが死を迎える。この妻との別れというのは、どれほど悲しい出来事であったか分かりません。しかも、その愛する妻を葬る土地さえもアブラハムはまだ手にしてはいないのです。そのことが、アブラハムにとって更なる悲しみになったことは想像にかたくありません。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 12 日

・説教 ローマ人への手紙6章23節「死と永遠のいのち」

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2020.04.12

鴨下 直樹

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「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」  ローマ人への手紙6章23節

 イースターおめでとうございます。今、私はみなさんと共にイースターの喜びをともに分かち合いたいと心から願っています。しかし、今日私の前には教会の皆さんの姿は残念ながらありません。新型コロナウィルスのために県が緊急事態宣言を出しました。そのために、今日もみな自宅からこの礼拝の様子をライブ配信で見たり、あるいは後でホームページから音声を聞かれたり、原稿を読みながら、それぞれの家庭でイースター礼拝を行っておられると思います。しかし、その小さな礼拝のなかにも主は今生きて働いておられ、私たちの礼拝を喜んでお受け下さっておられると信じます。

 今、私たちはこのローマ人への手紙6章23節のみ言葉をともに聞いています。

 「罪の報酬は死である」とこの言葉は語っています。今ほど、この言葉の意味がよく分かるときはないと言えるでしょう。罪は身を亡ぼすことになるということを、今多くの人々が身をもって味わっています。外出自粛要請が出されていますが、その要請に聞き従わないで、自分には関係ないと飲み歩いていた人が、自分のしたことを後悔しているという放送を、何人もの方が目にしたと思います。病になって、自分のしていることが、いかに愚かなことであったかということに気づくようになるのです。

 もちろん、ここでパウロが問いかけているのは「罪」の問題です。パウロはこのローマ人への手紙の少し前のところで、「罪の奴隷」という言葉を使っています。罪が人を奴隷にすると言っているのです。けれども、面白いものですけれども、人が罪の行動を選択するとき、たいていの場合、自分は自由だと思いながらその選択をするのです。罪とは自分のしたいことをするのです。自分は自由なのだ、誰にも支配されないといいながら、実はその人は罪の奴隷となっているのだとパウロは語ります。奴隷には、かならず主人がいます。罪の奴隷の主人というのは奴隷の思いや考えを無視して、その人の意志を奪ってしまいます。

 ここが罪の不思議なところですけれども、自分では自分のやりたいこと、したいことをしている、自分は自由なのだと思っているのに、気づかないままに罪に支配され、罪の奴隷となってしまっているのです。そのことを、「欲」という言葉で表現します。パウロはここではこの「欲」のことを「罪」と言い換えて語っています。自分のしたいこと、自分の欲、それがいつの間にか自分を支配している。気が付くと、自分の欲に支配されてしまっているのだと言うのです。それが、罪の姿なのだと言っているのです。

 今世界中で150万人の人がこのウィルスに感染していると報道されています。実際にはこの2倍以上の人が感染しているとも言われています。この時期、私たちは自分が感染者になっている可能性があるので、外出自粛をするようにと呼び掛けられています。特に、半数の人は自分が感染していることに無自覚であるというのが、今度の病気の特徴です。だから、自分は若いから大丈夫だとか、自分はかからないという自信があるなどと言いながら、自分のやりたいことを優先させてしまって、その結果、感染者は世界中で爆発的に広がってしまっているのです。

 まさに、罪の報酬は死であるというこの御言葉の意味は本当なのだということを、今のこの世界が証明してしまっているのです。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 5 日

・説教 創世記22章1-24節「主に試みられる時」

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2020.04.05

鴨下 直樹

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 今日は少しいつもと様子が違います。新型コロナウィルスのためにほとんどの教会の方々は自宅で映像や音声や説教原稿をみながら礼拝を行っていただいています。岐阜県では当面の間、不要不急の外出自粛要請が出されました。いつも教会堂に集いながら礼拝をしておられるので、戸惑いもあるかもしれません。それぞれの場所でともに主を見上げてまいりましょう。

 今日は「棕櫚の主日」と呼ばれる主の日です。そして、今週から受難週を迎えます。主イエスが十字架の苦しみを受けるこの一週間を私たちは過ごそうとしています。私たちは、このレントの期間、文字通り苦しみを心に留めて過ごしてまいりました。新型コロナウィルスに感染した人の数は世界では96万人を超え、世界の半数にあたる人々が今、外出を制限されています。そして、それはこの岐阜市にもやってきました。そのため、今日はみなさんに自宅で礼拝をしていただいて、インターネットを用いて礼拝をしていただくようにお願いしています。とても残念なことですけれども、仕方がありません。この世界が今まさに試練を受けていると言っていい状況にあります。

 今日、私たちに与えられているみ言葉はまさに、この「試練」の物語です。

これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。

と今日のみ言葉は始まっています。1節です。

 「試練」と聞くと、私たちは「幸せ」の反対にあるものという理解がどこかであります。幸せを壊すものが試練であると考えるのです。確かに、試練にはそのような性質があると言えます。

 地震や津波のような自然災害、あるいは今回のようなはやり病、伝染病といったものは自然災害などと言われます。私たちはこのような試練を経験する時に、まさに信仰が問われている思いになります。そのような試練がやってくると私たちはどこかで神が、私たちから平和を奪ってしまったような、何か神に見捨てられているような思いになるのではないでしょうか。

 アブラハムのことを考えてみたいと思います。アブラハムは今や、約束の子どもが与えられ、ペリシテからの脅威もなくなり、井戸のあるベエル・シェバの土地で平穏な暮らしをすることができるようになりました。それは、まるで絵にかいたような幸せなひと時であったに違いありませんでした。

「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。」と1節に書かれています。

「試練」によって、アブラハムに訪れていた平和が、幸せが打ち破られた。しかも、神によって、この出来事は起こったと、ここに書かれているのです。主なる神はアブラハムに語りかけます。2節です。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」

 その日は突然やってきました。幸せをかみしめていたであろうアブラハムに、主なる神は突然、難題を突き付けたのです。しかも、その試練とは、アブラハムが100歳になってようやく与えられた約束の子である息子イサクを、全焼のささげものとして献げなさいという命令です。

 先に生まれた女奴隷ハガルの子イシュマエルは追放してしまっています。そんな中で、あろうことか、約束の子であるイサクまで献げるようにとの命令なのです。これはどういうことなのでしょうか。考えてみれば、神のこれまでの語りかけと、この命令とは矛盾しています。もし、イサクを殺してしまえば神の約束それ自体が無効となってしまうのです。しかも、息子を全焼のいけにえとして殺してしまうということも、理解できることではありません。この神からの要求、これこそが、ここでアブラハムに問われていることでした。

 私たちはどこかでこう考えます。信仰によって幸福感が得られ、不信仰に陥ると不幸になって、試練が訪れるのだと。しかし、それは本当なのでしょうか。私たちは、この受難週を迎えているこの時、神が与えておられる試練の意味をもう一度考えるように促されています。そして、今、世界が抱えている新型コロナウィルスの蔓延という試練が、信仰にとってどういう意味を持つのかということを考えさせられているのです。 (続きを読む…)

2020 年 3 月 29 日

・説教 創世記21章22-34節「共におられる神と生きて」

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2020.03.29

鴨下 直樹

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 私たちは今、アブラハムの人生を目の当たりにしながら、主の御言葉を聞き続けています。言ってみれば、アブラハムの伝記のような性質がここにはあるといえます。多くの人の伝記、特に偉人伝などと呼ばれる物語には、だいたい最後に大きなクライマックスが準備されています。アブラハムの人生もそうです。まだ、この後最大の出来事が待ち受けています。

 今、NHKの大河ドラマ「麒麟が来る」をこの地域の人たちは特に楽しんで見ているようで、明智光秀というこの戦国時代の最大のヒール役を演じた人物を、このドラマでは明智光秀なりの生き様や人との関わりを描きながら、これまであまり描かれていなかった側面からもう一度明智光秀という人となりを描こうとしています。まだ、始まったばかりということもありますが、ほとんど創作なのではないかという出来事ばかりが続いて描かれています。明智光秀がこの期間どのようにしていたのか、あまり記録がないようです。このドラマを見ていない方はあまり興味のない方もあると思いますが、お許しください。今日の聖書と何の関係があるのかと思うかもしれません。実際ほとんど関係ないのですが、大きな出来事と大きな出来事の間には、陰に埋もれてしまうような幕間劇とでもいうような小さな出来事がたくさんあります。そして、そういう小さなエピソードが、その人物の姿をよく描き出しているものです。

 今日の箇所の出来事もアブラハムの生涯からしてみれば、省いてもほとんど何の影響もないような小さなエピソードのように感じます。けれども、この出来事は、確かに出来事としては小さな出来事のように映りますが、「ベエル・シェバ」という地名として、後々まで人の心に留められる地名がどうして生まれたのかということを説明する出来事です。そして、この小さな出来事の持つ意味は、決して小さくはないのだということを、今日はみなさんに知っていただきたいのです。

 今日の聖書の最後にこんな言葉が書かれています。34節です。

アブラハムは長い間、ペリシテ人の地に寄留した。

 実は、この言葉はちょっとここに入る文章としてはふさわしくないのです。これまで、ここに出てきているアビメレクはゲラルの王と記されていました。ゲラルというのは、後にペリシテ人の土地の中でも重要な場所となるところです。新改訳2017の後ろにあります地図の4の下の方に、「ベエル・シェバ」が出てきます。その左上に「ツィクラグ」と書かれた地名が出てきます。そのあたりが「ゲラル」です。このツィクラグという名の土地はダビデの時代にペリシテの王アキシュからダビデに与えられた土地です。

 けれども、この創世記の時代にはペリシテ人という言い方はまだしていないのです。この箇所からだんだんとゲラルという言い方ではなくて、ペリシテ人という言い方が出てくるようになってきます。そして、なぜ、ここでアブラハムがペリシテの地に住むようになったと書かれているかということですが、ペリシテというのは、みなさんもご存じの通り、イスラエル人とはライバル関係になるような民族です。けれども、アブラハムは後に敵とされるようなペリシテとも、一緒に生きたのだということが、この21章の結びで描かれているのです。そして、そのことは、決して小さくない意味を持っているのです。

 今日のところが、このゲラルの王であるアビメレクと、軍団の長であるピコルがアブラハムを訪ねてくるところから始まっています。言ってみれば、信長と明智光秀が出会ったようなものでしょうか。明智光秀がアブラハムだとすると、ちょっと言い過ぎかもしれませんが・・・。アビメレクの方は、一地方の王です。アブラハムは一部族の族長、しかも羊飼いをしているような遊牧民です。その差は歴然としているのですが、アビメレクにしてみれば、この前、アブラハムの妻サラを、アブラハムが妹だと言ったので、妻に迎え入れるという出来事の後です。今風の言い方をしれば、アブラハムに貸しが一つあるわけです。それで、盟約を結ぼうという提案を持ち掛けに来ているのです。 (続きを読む…)

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