2017 年 8 月 6 日

・説教 マルコの福音書1章16-20節「漁師イエス」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 13:53

 

2017.08.06

鴨下 直樹

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 いつも、夏になりますと、私たちの教会では信徒交流月間ということで、水曜日と木曜日の祈祷会の時に、信徒の方々が証をするときとなっています。今年も、水曜日にはTさん、木曜日にはYさんがそれぞれ証しをしてくださいました。両方合わせて20名以上の方々が出席くださいました。

 水曜日にTさんは、イザヤ書52章7節の「良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことよ」のみことばから、誰もが自分に福音を伝えてくださった人がいるはずというところから話してくださいました。お話を聞きながら、改めて、自分に福音を届けてくれた人は誰だっただろうかと思いだしながら、またお話を聞いた後で、自由に語りあう機会を持ちました。木曜日のYさんは、ご自分の若いときから今に至るまでの信仰の経緯をお話しくださいました。この日もまたその後で、みなさんYさんの証に刺激されて、自分はどのように信仰に至ったかという話しをしてくださいました。

 救いの証というのは、人によってはもう何回か聞かせていただいた方もありますけれども、何度聞いても、自分がどのように救いに導かれたのかという話しを聞く時というのは、嬉しい時です。そして、毎回思わされるのは、誰もがみなそうですけれども、主イエスとの出会いを通して、変えられていくのだということを改めて覚えさせられるのです。

 今日の箇所もそうです。いよいよ、ここからは、主イエスの伝道の姿が具体的に記されているところです。そして、ここで何が書かれているかというと、シモン、アンデレという漁師であった兄弟と、またヤコブとヨハネという漁師の兄弟が主イエスの弟子になったということが記されているわけです。伝道の旅を始めるにあたって、主イエスは、まず初めに、一緒に旅をする仲間をお集めになられたわけです。
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2017 年 7 月 23 日

・説教 マルコの福音書1章14-15節「時が満ちた!」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:13

 

2017.07.23

鴨下 直樹

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 私たちが聖書を読む時に、いくつもの驚きを発見します。私自身、今水曜日と木曜日の祈祷会で、このマルコの福音書を先立って一緒に読み進めています。そこでは礼拝ではほとんど語れない細かな所まで丁寧に学びながら、みなさんと一緒に考える時を持っています。そこでとても嬉しく思うのは、参加しておられるみなさんが本当によく聖書を理解する力を持っているということです。ところが、そうやってとても丁寧に聖書を学びながらも、このための説教の原稿を整える時には、さらにその時の何倍もの驚きを発見するのです。ですから、祈祷会で学んだとおりに説教するということには不思議とならないわけです。それほどに、聖書の言葉には深みがあるのです。

 ここで、「ヨハネが捕えられて後」と書かれています。何故ヨハネが捕えられることになったのか。その経緯についてはマルコの福音書の6章まで待たなければなりません。けれども、ヨハネはこの時代、非常に大きな影響力をもっていました。6章を読みますと、ヘロデ王自身、「ヨハネを恐れて保護を加えていた」と書かれているほどです。ただ、荒野で騒ぎ立てている薄汚れた預言者というようなことではなかったのです。

 そのヨハネが捕えられる。たいていの場合、そこで何を考えるのでしょうか。ヘロデに一目お置かれていたヨハネでさえ捕えられてしまうのであるなら、逃げた方がいいのではないかと考えるのが普通です。ですから、つづいて記されています「イエスはガリラヤに行き」という言葉をそのように理解した人たちが少なくなかったのです。主イエスはヨハネが捕えられて、自分も危ないと思って、ガリラヤ、つまり自分の故郷に帰った。そうして、故郷で人知れず、こっそり伝道を始められた・・・。マルコの福音書の書き方はそのように読まれても仕方がないような書き方です。あまりにも、説明不足なのです。けれども、そのように読んでしまうと、どうしてもつづく主イエスの言葉の響きが暗くなってしまいますから、そうは読めないわけです。
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2017 年 7 月 16 日

・説教 マルコの福音書1章12-13節「荒野に立つ主」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 12:05

2017.07.16

鴨下 直樹

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 今年は、宗教改革500年の記念の時です。それで、私たちの教会では今年の10月に4日間に及ぶ、連続講演会を計画しています。先週そのチラシができました。本当に、よいチラシが出来たと思っています。宗教改革とは何か、それが、私たちにどのような救いをもたらしたのか、宗教改革の祝福は今の私たちの生活にどんな影響を与えているのか、様々な視点や切り口で6人の講師から話を聞きたいとおもっています。

 明日、私が教えております東海聖書神学塾で、毎年この海の日に、古本のみのいちを開催しています。どういうわけか、私がその担当をしているのですが、ただ、古書を買うためだけに名古屋まで出て行きたくないので、何か講演をしてほしいと頼まれて、昨年から一時間ほど、講演の時を持っています。それで、明日は、宗教改革者ルターについて、お話をしたいと思っています。それで、先日もキリスト教書店に行きまして、何か良い本はないかと探していましたら、今年、宗教改革記念と合わせて「ルター自伝」という小さな本が復刊しておりました。思わず買いそうになったのですが、この本をすでに持っていることを思い出して、買わずに帰りました。時々、こうやって、すでに持っているのと同じ本を買ってしまうことがあるので、そういう本を古本のみのいちに出すわけです。いかに自分の書庫の管理ができていないかということでもあるかもしれません。

 この「ルター自伝」というのは、ルターが自分で自伝を書いたというより、「卓上語録」と日本語では言いますけれども、ルターがテーブルを囲んで仲間たちと談話をした会話が記録されていました。その中から、自伝と言えるエピソードを集めて編集されたものです。この本の中に、「誘惑」という項目があります。ルターが修道士の頃に、この誘惑といつも戦っていたのは大変よく知られた話です。まだ、修道士のころですから、カトリックの信仰に生きていた時です。カトリックには今でもそうですけれども、「告解」とい、罪を告白して教会の中につくられた小さな部屋のなかで、「聴く罪」と書きます、「聴罪師」に罪を聞いてもらうわけです。

 ルターは恩師であったシュタウピッツ博士と呼んでいる人に、何度も告解をしていました。ルターが誘惑と感じていたのは何かというと、性的なことではなくて、「自分の罪を裁かれるのは神である、ならば、神は罪人の敵ではないか」という疑問がいつも頭に思い浮かぶからでした。そのつど、シュタウピッツは、「そんなことで悩んでいるのはお前だけだ」といつもルターをあしらい続けていました。シュタウピッツがどう応えてもルターは納得することができません。それでも、ルターは来る日も、来る日も同じ誘惑を感じるたびに、シュタウピッツに告解をすると、ついに、シュタウピッツはこう答えます。「あなたは愚か者だ。神があなたに怒っているのではなく、あなたが神を怒っているのだ」と。ルターはこの言葉によって、それまでのカトリック教会の教えに対して怒りを覚えていたことの気づきとなっていったのでした。
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2017 年 7 月 9 日

・説教 マルコの福音書1章9-11節「主イエスの洗礼、私たちの洗礼」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 21:59

2017.07.09

鴨下 直樹

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 先週の木曜日から今日まで名古屋にあります東海聖書神学塾の塾生の方々が伝道実習ということで、この芥見教会にきてくださっています。先ほども神学生の方々が、「聖書のおはなし」と、証しをしてくださいました。今日までの四日間、教会のさまざまな集会で奉仕してくださり、また、教会に集っておられる方々と交わりの時をもってまいりました。昨日もある方が、キャンプをしているみたいで楽しいと言ってくださいましたが、本当に楽しいひと時となっていて感謝です。金曜日の夜は、長良川の鵜飼いを何人かの方々と、神学生たちと一緒に観ることが出来ました。とても良い天気で、岸辺に皆で座りながら、鵜飼を観ながら、お弁当を食べて、楽しいひと時となりました。今は、鵜飼のシーズンですから大勢の観光の方々も船に乗って鵜飼い見学をしたり、私たちと同じように岸から鵜飼を見学しておられる方もおられました。長良川の岸辺で、こんなに綺麗に鵜飼が観られるのだということを、私は知りませんでした。もう、岐阜に来て10年目を迎えようとしていますけれども、改めて岐阜というのは良い街だなぁと知らされた思いです。

 そんな長良川の余韻にひたりながら、今日出てきますヨルダン川はどんなところだったのだろうと色々と想像してみました。ヨルダン川と言っても長い川です。このマルコの福音書でも、他の福音書でもそうですけれども、ここで洗礼を授けていたバプテスマのヨハネが、ヨルダン川のどこで授けていたのかまでは書いていません。今は便利になりまして、インターネットの地図で、今の様子を航空写真でみることができます。ヨルダン川の周辺はどこをみても緑が豊かですから、きっと、当時も水が豊かな川であったのかと想像することはできます。ただ、バプテスマのヨハネは「荒野に現れた」と4節にありますから、緑豊かな森というようなところではなくて、豊かな水の流れている荒野の地区だったのでしょう。岐阜のように観光地になっているわけでもありませんが、その荒野の川に、当時大勢の人々が集まって来て、ヨハネから洗礼を受けました。その時の様子は長良川のように山に囲まれているわけではなかったと思いますけれども、大勢の人たちが集まって来るなかで、洗礼を受けている姿というのは、きっと鵜飼いを観るよりも感動的な光景であったのではないかと想像することができるわけです。

 先週もお話ししましたけれども、このバプテスマのヨハネの授けた洗礼は罪の悔い改めのバプテスマということですから、多くの人々は、真剣に自分の生き方について何とかしたいと考えていたということです。そして、ヨハネの言葉に耳を傾けて、洗礼を受けたのです。自分の人生を変えたい、新しくしたい。そのような人の思いは真剣であるはずです。マルコは、この福音書に主イエスを登場させるに先立って、そのように真剣に生きることを考えていた人たちがいたことを書き記すことから始めました。そして、イザヤの預言の言葉に応えるように、神はその道をこの世界にお示しくださったのだとまず初めに書いたのです。 (続きを読む…)

2017 年 7 月 2 日

・説教 マルコの福音書1章1-8節「福音のはじまり」

Filed under: 教会の活動,説教音声 — susumu @ 10:39

2017.07.02

鴨下 直樹

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 今日からマルコの福音書のみ言葉を順に聞き続けていきたいと考えています。このマルコの福音書は四つの福音書のはじめに記されたものです。主イエスのことを簡潔に、しかし、とても丁寧に記しています。この福音書を読む人は、まさに最初に書かれているように「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」がどうであったのかを知ることができるのです。ですから、この冒頭の一節はこの福音書の内容をすべて言い表した、この福音書全体のタイトルと言ってもいいほどです。「神の子イエス・キリストの福音はこうしてはじまった」と翻訳した人がありましたが、その方がこの冒頭の言葉をよく捉えていると言ってもいいかもしれません。

 この福音書がなぜ書かれるようになったのかというと、主イエスがこの世を去られた時に、主は再び来られることを約束されました。ですから生まれたばかりの主の教会は主がすぐにおいでになると信じていました。けれども、次第に主のよみがえりの証人と言われる人たちが死を迎えていくにつれて、主の教えて下さったことを主の弟子たちから直接聞くことができなくなってしまうので、記録に残しておかなければならないということに気づき始めます。

 このマルコの福音書のマルコという人物は、はじめパウロとバルナバと共に伝道の旅に加わった者です。けれども、途中で伝道に同行しなかったために、パウロはこのマルコを次の伝道旅行には連れて行かないと言い出します。このマルコはバルナバと従弟であったこともあり、パウロとバルナバはこのために別々に伝道することになります。その後、マルコはペテロに仕えるようになったことが知られています。つまり、パウロと共に伝道し、次にペテロと共に働いた人物ということは、主イエスの記録を書くのに格好の人物であったということが言えるわけです。 (続きを読む…)

2017 年 6 月 4 日

・説教 詩篇90篇「主は私たちの永遠の住まい」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:41

 

2017.06.04

鴨下 直樹

 
 私事からはじめて恐縮ですけれども、この同盟福音キリスト教会の代表役員に就任して二ヵ月がたちました。これまでは知らなかったのですけれども、これまでやったことのないいろいろな仕事が新しく加わりました。先週、可児教会で午後から行われた役員研修会で説教をするというのもその一つです。あるいは、四教団の理事会に出席することもそうです。けれども、私にとって一番厳しい思いになるのは、人事の話をしなければならないことです。しかも、これまで同盟福音の教会で長く奉仕してくださってこられた先生方と、今後の奉仕について話すことは、とても緊張します。

 先日もこれまで長い間奉仕してくださった先生が、教団規則の年齢に達したために次年度新しい牧師を迎える準備のことで電話をいたしました。実は、とてもドキドキしながら電話をしました。私の中では何か最後通告をしなければならないような気持になっていたからです。電話をする前に、何度も祈りました。失礼なことを言わないように、話す会話の段取りを頭の中で何度もシミュレーションしてから電話をしたのです。辞めるつもりはないと言われたらどうしようか。どうして、自分の時にこんな大任が回って来たのか、いろいろなことを考えながら電話をしました。会話は思い描いていたよりもはるかにスムーズで、肝心の話しを切り出したときも、「分かっていますよ、次の牧師についてもう教会で話し合いを始めているので、一度役員会に来て、一緒に話してほしい」と言われ、私は拍子抜けしてしまいました。40年、50年と牧会をしてこられた牧師が、その職から退くということはすごいことだと思うのです。

 以前も一度お話したことがあるかもしれませんが、私が神学校に入る前に、半年ほど根尾の麓の村で仕事をしながら、神学校に行くまでの間を過ごしたことがあります。その時に、この芥見教会を開拓伝道からつくりあげたストルツ先生ご夫妻が、日本での宣教の働きを終えてドイツに帰国するために、最後の一週間を、根尾山荘で過ごされたのです。そして、ドイツに帰国するという朝、車に荷物を積んでいるストルツ先生に、私は一つの質問をしたことがあります。

「ストルツ先生。どうして、神さまに召されて、宣教師となったのに、人間が作った定年という制度に従って、宣教師を辞めてしまうのですか」と。私がまだ22歳か、23歳の時のことです。今であればもう少し上手に尋ねることもできたかもしれませんが、当時の私は何の配慮もないままに、日本をこれから離れて寂しいであろう宣教師に、残酷な質問をしてしまったと思うのです。けれども、ストルツ先生は、もうその答えを用意しておられたかのように、私にこう答えてくださいました。

「私は今日、ドイツに帰国します。けれども、私は主に仕えることを辞めるつもりはない。日本での、宣教師という働きは確かに今日で終わるけれども、私はドイツでこれからも主に仕え続けるのですよ。」
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2017 年 5 月 28 日

・説教 詩篇46篇「揺れ動く地から主を仰ぐ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:18

 

2017.05.28

鴨下 直樹

 
 先週の火曜日と水曜日に日本自由福音連盟の理事会というのが東京で行われました。この日本自由福音連盟というのは、信仰のルーツを一緒にしている4つの教会、関東地区の日本聖契教団、岡山県を中心とした日本聖約教団、全国にあります日本福音自由協議会、そして、同盟福音キリスト教会とが60年ほど前から交わりを持って来ました。この日本自由福音連盟に130教会ほどがあり、教会堂は180会堂ほどあります。

 そこで、年に二度各教団の役員が集まりまして、お互いの情報を共有し、共に祈る時をもっています。各教団の報告がそこでなされるのですが、今年はどこの教団も祈りの課題にあげていたのが、次世代の担い手のためにという課題でした。この四団体の中で定年制をもうけているのは私たちの同盟福音と聖約教団だけです。ということは、牧師は何歳まででも働くことができるわけです。それにも関わらず教会の働き人がいないために教会を統廃合しなければならなくなっている教会がいくつもあるのです。伝道することが難しい時代を迎えていると言えます。

 けれども、だからと言って、嘆いているのではないのです。教会は主を見上げながら、これからの道のりを祈り求めています。時代がどれほど厳しくても、主の教会の歴史は今日まで力強く進められてきました。そして、その都度、主のみ言葉が語られ続けて来たのです。

 今日は、午後から教団役員研修会という集まりが可児教会で行われます。各教会の役員が一年に一度みな集まるとても大切な時です。私たちの同盟福音でも「次世代への献身」をテーマに、教会が活発に主の使命を果たすことができるようにと祈りながら、今年から宣教ネットワーク制が導入されました。今回の役員研修会では、それぞれのネットワークの教会でどのような協力をしながら、次世代のために、これからの教会のために何ができるのかを話し合っていこうとしています。それにしても、まず先立って私たちが知らなければならないのは、私たちの主はどのようなお方なのかということです。

 この詩篇46篇は揺れ動く世界の混沌が語られています。2節と3節にこうあります。

たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも、たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ。

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2017 年 5 月 14 日

・説教 詩篇33篇「主にあって喜び歌え」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 09:49

 

2017.05.14

鴨下 直樹

 
 今日は復活節の第五主日「カンターテ」と呼ばれる主の日です。カンターテというのは、「歌え」という意味で、詩篇98篇1節の「新しい歌を主に歌え」という言葉から取られた主の日です。もうすでに詩篇98篇から説教しましたが、この詩篇33篇の3節にも同じ言葉が記されています。

 宗教改革者のルターはこの詩篇33篇3節からこんなことを言っています。「音楽は、神から与えられたもっとも美しくすばらしい贈り物のひとつです。サタンは音楽をきらいます。それは誘惑を追い払う大きな力をもっているからです」と。ルターは当時の教会と信仰の戦いをしていました。その中で自分の信仰が揺らぐような、悪魔の力を感じるようなことが何度となくあったのだと思います。そういうなかでルターは何度も音楽によって悪魔の誘惑を感じるところから助けられた経験があるのだと思います。ルターはさらにこんなことも言っています。「音楽は神学と並んで神の与えられた栄光の贈り物です。わたしはこの世のなにものをもってしても、この音楽という小さな贈り物と交換することをのぞみません」。音楽は、神学とならんで他に代えがきかないほど大切なものだというのです。神に向かって歌を歌うこと、神への賛美の音楽は、この世界に代わるものがないほど大切なものだとルターは言うのです。

正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。

 冒頭の1節と2節にこのように記されています。この短い言葉のなかですでに色々なことを考える人があるかもしれません。「正しい人たち」とか「賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい」というような言葉を見つけると、自分は正しくないからダメだとか、心が直ぐではないからダメだと考えてしまうかもしれません。とても大切なことですけれども、この詩篇は、神を褒めたたえるように招いているのであって、誰かを締め出そうとして語っているわけではありません。「正しい者たち」というのは、「礼拝に招かれている者たち」という招きです。「心が直ぐな人」も同じです。神の御前に立つ者よ、主に感謝し、ほめ歌を歌えと招いているのです。 (続きを読む…)

2017 年 5 月 7 日

・説教 詩篇66篇「全地よ、喜び叫べ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 08:37

 

2017.05.07

鴨下 直樹

 
 このゴールデンウィークの29日に東海聖書神学塾の主催でCS教師研修会が行われました。今年は非常に大勢の参加者が与えられました。今年のテーマははじめてパネルディスカッシヨン形式で行われ、4つの教会の子どもの伝道の働きが紹介されました。私は、この集会の司会をさせていただいたのですが、とても刺激的な研修会であったと思います。いくつものアイデアを知ることが出来ましたし、実際にこれからの教会の子どもの伝道についてとてもよく考えさせられました。

 今ら20年ほど前までは今に比べると比較的、教会に子どもを集めることは難しくありませんでした。けれども、オウム真理教の出来事以来、人々は宗教に対して警戒感を強めるようになりました。それで、子どもだけで教会の集まりに参加させるというようなことが難しくなっているわけです。私たちの教会でもそうですけれども、このパネラーの多治見中央キリスト教会の山本先生は、親と子供を一緒に教会に招くという方法に切り替えたということを話してくださいました。宗教は怖いというイメージを持っている人たちに対して、教会がどのように間口を開いていくかという教会の在り方がそこでは問われていると思います。何をやっても、子どもが来ないということではなくて、どうやったら地域の人たちに教会を信頼してもらえるかということを考えていく必要があるわけです。

 今日はひさしぶりに詩篇のみことばを聞こうとしています。この詩篇66篇は、復活節の第四主日と第六主日に読む聖書の箇所となっています。今日は復活節第四週、「ユビラーテ」と呼ばれる主の日です。「全地よ、喜べ」というこの1節から名づけられた主の復活を全世界で喜ぶようにと招かれている日です。また、最後の20節から「いのれ」、「ロガーテ」と言われる日の聖書箇所となっています。

 今日はこの復活節の個所だけではなくて詩篇66篇全体を見て見たいと思っていますが、実はこの詩篇66篇は大きく内容が二つに分かれています。前半部分は1-12節までです。ここでは主語はつねに「私たち」となっていまして、何度も何度も命令形の言葉が繰り返されていまして、イスラエルの民全体、あるいは、全世界の人々に語りかける壮大な神の御業を讃える詩篇です。ところが、13節から20節では主語は「私」となっていて、個人的な神への祈りです。これは、このように考えてくださればと思うのですが、民全体として神の御前に礼拝を捧げている中で、自分としても神に対する喜びや感謝の祈りをささげているようなイメージをもってくださるとよいと思います。

 この詩篇が今の私たちに問いかけている大切なことは、今の世界というのは、個人のことばかりに目が向かってしまいがちで、民全体、あるいは世界全体の喜びということにまであまり目が向かなくなってしまっているのだということに気づかされるわけです。
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2017 年 4 月 23 日

・説教 詩篇118篇「主の慈しみは永遠に」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:03

 

2017.04.23

鴨下 直樹

 
 先週の月曜日から木曜日まで、私たちの教団の牧師研修会が行われました。今年は、数年前から2017年問題と言われていまして、今年の春に教団の4人の牧師が定年を迎えました。そのために、新しい牧師を祈り続けて、今年3名の新任の牧師たちが与えられました。この三人とも、私たちの教団で信仰の歩みをしておられた方々ではありません。そういうこともあって、今回の教役者研修会は「次世代に贈る言葉」というテーマでした。特に、これまで教団の代表役員をされた渡辺先生と小林先生が2回にわたって、これまで自分がどのように教会を牧会してきたかということについて話してくださいました。私にとっても、大変慰めに満ちた時となりました。

 特にその中で、私が考えさせられたのは、beingとdoing という話しでした。日本語にすると、「存在」と「行為」となると思いますが、神さまとの豊かな交わりによって自分を知るということなしに、何かをすることはどんどん難しくなるということです。たとえるなら、ガソリンが入っていない車が走れないようなものです。「しなければいけないこと」にとらわれて、自分がするべきことにいつも気を配っていると、自分の内面がどんどんカラカラに乾いてしまって、気が付くとするべきことができなくなってしまうのです。

 今日の詩篇は詩篇118篇です。この詩篇は宗教改革者ルターが「私の詩篇」と述べたほど大事にした詩篇です。あるいは、ある旧約聖書の学者は、この詩篇は「個人のほめたたえの歌としては完璧」と言いました。それほど、深い神との交わりを表した詩篇なのです。こういう詩篇をいつも心にとめることを通して、私たちは自分の存在が主の御前に確かなものとされて、喜んで生きることができるようになる。言ってみれば、この詩篇はそのお手本のような詩篇だということができるわけです。

 今日は、先ほど、ドイツから6名の神学生たちが来てくださって、賛美をしてくださいました。彼らも、どうしてわざわざドイツから日本にまでやって来たのかというと、神さまとの豊かな交わりに支えられて、その喜びを何とか日本の人にも伝えたいという思いから、日本に来られたのです。そのように、自分と神さまとの豊かな関係が、私たちが喜んで生きる原動力になるのです。 (続きを読む…)

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