2015 年 10 月 4 日

・説教 ヨハネの福音書16章15-24節「悲しみから喜びへ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:52

 

2015.10.4

鴨下 直樹

 
 先週の日曜日、私たちは教団の日を共に祝いました。私は先週、みなさんと共に礼拝を祝うことは残念ながらできませんでしたけれども、午後に教団の日の集いが稲沢教会で行われ、そちらで一緒に教団の日の祝いをいたしました。四年前から、この教団の日の集いを地区別の主催にいたしました。そのために、その地区の教会の方々は本当に大変な準備をして、どのようにしたらこの日を一緒に祝うことができるのかと考えながら毎年のことですけれども、大変素晴らしい集会を計画してくださいます。今年は、稲沢の教会に270名以上の方々が集まったようで、懐かしい方々と一緒に教団の日を祝う礼拝をするというというのは本当に嬉しいものです。

 特に、今年は講師を招きました。大学生の伝道をするKGKという団体がありますが、このKGKの副総主事をしておられる大嶋重徳先生が説教をしてくださいました。非常に情熱を込めた説教をしてくださり、エレミヤ書からですけれども、主に喜んで仕えていきましょうと語ってくださいました。私もずいぶん色々なチャレンジを受けました。来年はこの同盟福音の宣教が始められて60年を迎えようとしています。そういうなかで、もう一度地域に伝道していくことの大切さを共に心にとめていきたいと思っています。

 先週の祈祷会でも、この芥見教会の伝道も来年で35年になるのではないかということを話していました。来年何か記念集会でもするかどうかという意見もありましたが、やはり40年がいいのではないかと思っています。そこでつい口に出したのですけれども、「荒野の40年」というテーマがいいのではないかと言ってしまいました。40年というと、まずやはり出てくるのは聖書の中では患難を示す数字です。40年の宣教は大変であったということをやはり表現するべきなのではないかととっさに思ったからです。けれども、もちろん、まだそれまでには5年あります。その間に主の再臨がないとも限りませんし、その間にもまだまだ色々な歩みがあるはずです。一言で、それを「荒野の40年」という言葉でまとめることもできないなと思います。

 今朝、私たちに与えられているみ言葉は、主イエスが「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます」と弟子たちに向かって語りかけられたところです。もう何度も、主イエスはご自分がこの地を去ることを語り続けておられます。けれども、この主イエスが弟子たちに向かって語り続けてこられたことは、弟子たちにはまだはっきりと何を意味するのか、分かってはいなかったようです。それが続く17節にありますが、弟子たちは互いに、主が何を言っておられるのか、これはどういうことなのだろうと、語り合っていたとあります。主イエスが去って行かれるということが理解できなかったのです。弟子たちはもはや直接、主イエスに尋ねることもできないほどに、悲しみに支配されてしまったようです。そこで、主イエスはそのような弟子たちが抱いている悲しみをとてもよく理解してくださいました。21節ではその悲しみ、苦しみをこんな言葉で表現されています。21節。

女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。

とても興味深い言葉です。 (続きを読む…)

2015 年 9 月 20 日

・説教 ヨハネの福音書16章4-15節「聖霊の示す真理」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:31

 

2015.9.20

鴨下 直樹

 
 今、私たちは主イエスの告別説教といわれる言葉を聞き続けています。14章から16章までで、主イエスは弟子たちに別れの言葉を告げておられます。特に、今日のこの短い箇所の中にも、何度も、私は去って行くのだという言葉が語られています。5節、「今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうと」、7節「わたしが去って行く」「もしわたしが去って行かなければ」「しかし、もし行けば」とあります。10節にも「わたしが父のもとに行き」と言われています。もう、わたしは行くのだ、去るのだという言葉を弟子たちはどのような思いで聞いたことでしょう。主イエスと弟子たちが一緒に過ごした期間は3年であると一般にいわれています。このヨハネの福音書を読む限りですと、一年ほどの期間しかなかったような書き方になっています。一年であろうと、三年であろうと、寝食を共にし、実に中身の濃い時間を過ごした人との別れというのは心に大きな穴をあけてしまいます。どんな教師や牧師であってもなしえない、実に豊かなものを主イエスと共に生きた弟子たちは味わうことができたはずです。

 それで、主イエスは言われました。5節の後半部分です。「あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません」。もちろん、弟子たちは何度も主イエスに尋ねたのです。13章の最後のところではペテロがイエスに命がけで「あなたの行くところに私はついて行きます」と言いました。14章ではトマスが「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちには分かりません」と言っています。はじめのうち弟子たちは主イエスに尋ねていたのですが、だんだんと主イエスの行かれるところに自分たちはついていけないこと、そして、主イエスを失った後迫害があること、けれども互いに愛し合うことなどを主イエスから聞かされました。そうこうするうちに弟子たちは悲しみに支配されてしまったようです。ですから6節で主イエスはこう言われました。

かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。

 弟子たちにしてみれば主イエスと一緒に歩み、寝食を共にしながら、毎日慰められ、生きる望みが与えられ、これこそが人の生きるべき姿なのだということを味わってきました。そして、これから自分たちがどのような生き方をすることになるのかを心躍る思いで毎日過ごしていたに違いないのです。この主イエスと共に生きることが、自分の生きる喜びそのものだったのです。それが、ここに来て、急に主イエスが別れの言葉ばかりを告げられるようになってきたので、もう弟子たちには続けて主イエスに尋ねる気持ちが失われてしまうほど悲しみにくれていたのです。それは誰もがよく分かることなのだと思います。

 しかし、主イエスはそのような弟子たちに向かって語りかけられます。7節。

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。

と。
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2015 年 9 月 13 日

・説教 ヨハネの福音書15章18-16章4節「信仰の戦い」

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2015.9.13

鴨下 直樹

 
 この水曜日から祈祷会でレビ記を学び始めました。レビ記というのは、おそらく聖書を読み始められた方が、創世記と出エジプト記を何とか読み終えた後で、最初にぶつかる壁になる場合があります。こまかな戒めの規定がいくつも書かれていますので、レビ記で挫折してしまったという方の話をよく聞きます。けれども、注意深く読んでいきますと、なかなか面白い箇所です。神がどれほど細やかな配慮をしていてくださるのか、ご自身の民がどのように生きることをねがっておられるのか、そういう神の心をつかみとることのできる箇所です。この水曜日と木曜日の学び会に比較的多くの方が集ってくださったことを嬉しく思っていますけれども、これからすこしずつ丁寧に学んでいきたいと思います。先週は最初でしたので、レビ記というのがどういうことを目的として書かれたのかという話をしたのですが、一言でいうと「聖さ」です。主はご自身の民に聖くあることをねがっておられることが、レビ記を読んでいきますと分かってきます。この「聖い」という言葉は、その時もすこし説明をしたのですけれども、私たちがイメージする「聖さ」というのは、「純粋」とか「ピュア」、汚れがないということを連想しがちですが、「違う」という意味で理解してくださるとよいと思います。主は、ご自分の民に、この世の人とは違うことを求めておられる。ですから、「聖い」というのは、「この世のあり方とは違う」という意味です。

 今日、私たちに与えられている箇所は、この「世」があなたがたを憎むということが書かれています。19節にはこうあります。

もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

 旧約聖書に記されている神の民であるイスラエルも、主イエスの弟子も、まさに、主からこの世の者とは違う者、聖い者として召し出されます。だから、世はあなたがたを憎むのだと主イエスは言われているのです。 (続きを読む…)

2015 年 9 月 6 日

・説教 ヨハネの福音書15章11-17節「友なる主イエスに招かれて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

 

2015.9.6

鴨下 直樹

 
 少しの間、夏休みを頂いておりましたけれども、今日また、みなさんの顔を見ることができて、とても嬉しい気持ちでいます。この夏休みの間、私はいつも色々な教会の礼拝を見に行く機会としているのですけれども、今年は、群馬県にあります、私たちの群れの下仁田教会の礼拝に行ってまいりました。ですが、やはり下仁田教会の牧師も夏休み中ということで、井上牧師が説教をしにきておられました。井上牧師は、私たち芥見教会出身で牧師になられた方です。そして、その時井上牧師によってなされた説教はこのヨハネの福音書第15章1-17節からでした。
 お休みをいただく前に、私はこの部分の前半のところ、主がご自分のことをぶどうの木と言われたところから説教しました。そして、今日は、その後半部分をと二度に分けたのですけれども、井上先生は、まさにこの箇所から説教されました。大変素晴らしい説教で、もう、聞いた話をそのままやろうかななどと思ったくらいです。その説教で、井上先生はぶどうの木のはなしをなさったのですが、そこでは、やはりこの地域の出身ということもあって、長良川沿いのぶどうを買って食べる機会がたくさんあったようです。そこで、みられたそうですけれども、ぶどうの木は幹の部分と枝の部分の境がほとんどわからないと言われて、キリストとわたしたちも、どこから幹でどこから枝かわからなくなるほどに一つとされるのだというメッセージをされました。前回、私は、ぶどうの木の幹は60センチくらいで、あとは枝ばかりだという話をしましたので、休みのあいだ、気になって、ぶどう園を見に行きました。すると、そこはぶどう酒のためのぶどうを育てているところなのですが、やはり、私が話したように幹は60センチくらいしかありませんし、はっきりと枝の部分と区別ができます。そこで、気づいたのですが、どうも、ぶどう酒用のぶどうの木と、果実を食用するぶどうの木とはどうも少し性質が違うようで、食用の方のぶどうの木は、井上先生が言われるようにどこまでが幹で、どこからが枝かよくわからないのだそうです。それを知って少しほっとしています。

 井上先生はもうひとつ、「友」ということもその後半のメッセージで語られたのですが、まさに、それが、今日の個所の大切なテーマです。教会の中には子どもの名前にこの「友」という名前をつけておられる方が時々おられます。私たちの教会出身の舛田牧師も、ご両親がここにおみえになりますけれども、名前に「友」がついています。Kさんも子どもに「友」という名前をつけておられます。
 そのようにクリスチャンの名前に時々「友」という字がつけられた名前を聞くことがありますが、実は、聖書の中で「友」という言葉はそれほどでてきません。けれども、このヨハネの福音書には何度か、この「友」という言葉がでてきます。K家にしても、M家にしても、たぶん、このヨハネの福音書からつけられたのではないかと勝手に想像しているのですが、いつかちゃんと聞いてみたいと思っているのですが、気になる方はぜひ、後で直接聞いてみてください。

 このヨハネの福音書にはこのように書かれています。13節から16節です。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

 ここには、いくつかのことが語られていますけれども、私たちはここで少し驚くのは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」という部分でしょうか。もちろん、そこでは、当然のことですけれども、主イエス・キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださるということが前提となっています。 (続きを読む…)

2015 年 8 月 16 日

・説教 ヨハネの福音書15章1-10節「主はまことのぶどうの木」

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2015.8.16

鴨下 直樹

 
 今日の箇所は主が「わたしはぶどうの木です」と語られた箇所です。いつも、聖書の流れが大切だと話していますけれども、今日のところは、少し複雑です。前の14章30節で、「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。」と語っておられ、31節では「さあ、ここから行くのです。」と言われました。ですから、14章からはじまっている主イエスの別れの言葉は、ここで終わっているような印象を受けます。ところが、続く15章では、その前に語られたことはまるでなかったかのように主イエスの話しがはじまっています。いつも、聖書の文脈を正しく理解することが大切だと話していることと、少し矛盾するのですが、この話の順序は、ここでいろいろ考えてもはっきりしません。この15章も16章も主イエスが弟子たちと別れる際に語られた大切な言葉が語られたところであることに変わりはありませんから、今日の場合は14章とのつながりについて、ここであまり深く考えなくてもよいと思います。

 ただ、このヨハネの福音書の第15章というのは、私にとっては少し特別な箇所です。私の父は牧師をしています。そして、私は5人きょうだいなのですが、両親はこのヨハネの福音書の15章から4人のきょうだいの名前を付けました。私は直樹という名前です。他のきょうだいにも、枝であるとか、実という名前を付けています。ここに記されているぶどうの木をイメージしながら子どもたちの名前を付けたのです。最後の弟は、もうアイデアが尽きたのか、こことは直接関係ない名前になっていて、その説明を聞いて弟がすねてしまったこともあります。私の場合は、父はまっすぐに伸びる樹をこのところから思い描いたようです。しかし、私は後になって気が付いたのですけれども、このヨハネの福音書に出てくるぶどうの木というのは、私の名前から連想するまっすぐにすくすくと伸びる大木のような木のイメージとは正反対の木です。たぶん、その時、私の父もぶどうの木というのがどういう木なのかあまりよく知らなかったのかもしれません。

 ちょうどこの季節はぶどうの収穫の季節です。いつも、休暇の時に長野県にあるたくさんのぶどう園を横切ります。日本の場合は、ちょうど立って作業のしやすいような高さにぶどうの枝がはりめぐらされていて、手を伸ばせばすぐに収穫できる位置にぶどうの実がなっているのを見ます。ドイツのぶどう園のイメージはだいぶ異なります。もっとも、ドイツで目にするのはほとんどワインの為のぶどうです。

 マレーネ先生が住んでおられるのはドイツのライン川沿いのバッハラッハという小さな町ですが、すぐ近くにローレライがあるために大変多くの観光者でにぎわうところです。ライン川の両脇にある山の峯はみわたすかぎりぶどう園です。それで、ドイツにいたときに、何度かマレーネ先生の家を訪ねたのですけれども、その時に、少し散歩にでますと、すぐにぶどう園を抜けることになります。そこで、ぶどうの木を見てびっくりしたのですが、ドイツで見たぶどうの木というのは、木の幹の長さが五、六十センチしかありません。それも、しわしわでぐにゃぐにゃと曲がっているものもある、ひどく不格好な木です。それを見ながら、私は、これは「直樹」という私の名前のイメージとはだいぶちがうなぁという印象を持ったのです。マレーネ先生の説明では、ぶどうの木というのは家具にも何にも使うことのできない木なのだそうです。ぶどうの木のむしろ大切なのは枝の方です。日本のように、頭の上の高さに綱を張り巡らせて、そこに枝をからませているような場合であっても、ドイツのように谷間を利用して育てているために、短いぶどうの木にまっすぐな木の棒を添え木して、そこに実をつけさせながら、高低差を利用して収穫させるやり方にせよ、大切なのは実を結ぶ枝の方だということが分かります。
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2015 年 8 月 9 日

・説教 ヨハネの福音書14章25-31節「平和を与えるお方」

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2015.8.9

鴨下 直樹

 
 私たちは、この一週間に何度も平和ということばを耳にしてきました。この一週間は、一年の中でも最も平和が語られる季節であるということが出来ると思います。広島と長崎に原爆が落とされて今年で70年を迎えます。戦後70年の談話を今、首相がどのような言葉にするべきか検討しているなかでも、何度も平和国家という言葉が語られます。戦争のために、考えられないほど多くの犠牲が生まれることを私たちは経験してきました。そして、この国は、世界に戦争の悲惨さがどのようなものであるかを伝える使命を持つ国としての役割を果たしてきたといえます。私がドイツに居りました時にも、「日本に行ったことはないけれども、広島と長崎だけは知っている」という方々に何人も会いました。今、私たちはここで改めて平和とは何を指して言うのかということを考えさせられています。

 今日、私たちに与えられている聖書は、こう語りかけています。

わたしは、あなたがたに平和を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平和を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

と27節にあります。今、私が聖書を読むのを聞いて、新改訳聖書をお持ちの方は、あれと思われたかもしれません。新改訳聖書では「平安」と訳されている言葉を、私はいま「平和」と読み替えました。この言葉は聖書の中でもよく知られたギリシャ語で、「シャローム」という言葉です。挨拶にも使われる日常的な言葉でもあります。この言葉は、「平安」とも訳すことができますけれども、個人の心の状態を表す言葉に留まりません。ですから、はっきりと「平和」とする方がよいと思います。それで、平和として読んでみたのです。
 主イエスはこの世が与えるのとは異なる平和を与えてくださるとここで約束しておられます。この世が与える平和とは何でしょうか。平和というのは戦争がない状態ということができるかもしれません。戦後70年間にわたって私たちの国も平和な国を築き上げてきました。そして、近年近隣諸国との関係が悪くなるにつれて、今私たちの国は、平和であるためにどういう国であろうとするのかを改めて問いかけられています。しかし、主イエスはそのようなこの世がもたらすのとは異なる平和について語られるのです。

 主イエスがここで語っておられるのは、何よりもまず自分自身の死についてです。主イエスはこれまで、人と争わないというような消極的な意味での平和について語ってはこられませんでした。むしろ、積極的な愛に生きることを自ら示し、また教えてこられました。愛するというのは、相手の状況とは関係なしに、自ら腰を低くすることによって示される愛です。自らが犠牲を払うことに示されるものです。そして、その模範となって主イエスは愛を世に示してこられました。しかし、これからはそうはいかないのです。ここで語っておられる主イエスは、次の日には十字架にかけられて、殺されてしまうのです。そして、世界はまた、主イエスという愛の模範を失ってしまうのです。 (続きを読む…)

2015 年 8 月 2 日

・説教 ヨハネの福音書14章15-24節「主の愛に生かされて」

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2015.8.2

鴨下 直樹

 
 先週と、今週の祈祷会の時に、二回に分けて「どう読むか聖書」という話をいたしました。今年の一般キャンプのテーマですが、キャンプに先立って教会の方々と共に、どのように聖書を読むのかを学びました。今日の箇所などでもそうですけれども、聖書の中には奇跡の出来事や主イエスの譬え話など、情景を思い浮かべることのできる箇所と、説明の言葉の多い教えを記した箇所とに分けられます。特に、このヨハネの福音書の第14章から16章までは主イエスの告別説教と言われているところで、弟子たちに向けて語られた大切な言葉です。そのために、大切なことを語っておられますが、ここで弟子たちにどうしても伝えておきたいという教えの言葉の部分が多く含まれています。しかし、この主イエスの教えを聞いていた弟子たちもなかなか理解できなかったようで、途中で何度も主イエスの言葉をさえぎって質問が飛び出します。今日のところもそうです。主イエスがお語りになられた時からすでに、何を言っておられるのかよく分からないという部分があったようです。

 このような少し込み入った話になりますと、聖書を読んでいる私たちは難しいという印象を持ってしまって、ここで何が語られているのか、その意味をなかなかつかみ取ることが難しいと感じてしまいます。どのような筋道で語っているのかが見えにくいと感じてしまうのです。そういう時に、私たちがついついしてしまいがちなのは、分からない言葉の意味をあれこれと考えてしまって、そこに固執すればするほど、分からなくなってしまうということがあります。そういうときは、分からない言葉を前のめりになって考えるよりも、むしろ、少し後ろに下がって全体像を見渡してみるということが案外大切です。

 今日の箇所は「聖霊」について語られている、とても大切なところです。ですから、ついつい、聖霊について何が書かれているのか正しく理解しようとしてしまうのですが、そのまえに、この文章は全体で何を語ろうとしているのかを、まず考えてみることが大事です。今日は15節から24節までを選びました。この聖書の分け方はいろいろあるので、他の分け方もあると思いますけれども、今日の部分でいいますと、この箇所で扱われているのは15節から24節まで一貫して語られている「あなたがたが私のことを愛する」のは何によって示されるかということです。 (続きを読む…)

2015 年 7 月 19 日

・説教 ヨハネの福音書14章7-14節「父を見せてください」

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2015.7.19

鴨下 直樹

 
 今週の月曜日のことですけれども、私たち夫婦はマリッジコースというセミナーに参加してきました。結婚講座とでも言ったらいいでしょうか。そんな話を突然しますと、「あら、鴨下先生たち夫婦大丈夫かしら。何かあったんじゃないか」と心配になられる方々があるかもしれません。大丈夫ですか?と敢えて質問されると、どう答えていいか分からなくなる部分もあります。私たちはお互いにかなり理解しあっていると思っていますが、お互いが本当にそう思っているかどうかは、ふたを開けてみないと分かりません。

 なぜ、説教の冒頭からこんなハラハラさせるようなテーマから始めるのかと、勘ぐる方もあるかもしれません。実は、先月御代田で行われた教役者研修会で、このマリッジコースの紹介がされました。これは、これから結婚する人のためのコースというよりは、すでに結婚している夫婦のためのプログラムです。会場になった稲沢教会はとてもきれいにテーブルセットされていまして、さながらケーキバイキングにでも行ったかのようでした。真ん中のテーブルにいろんな種類のケーキと飲み物があって、自由にとっていいのです。そして、それぞれ夫婦でテーブルについてセミナーを受けるのですが、隣の声は気にならないくらい距離が離れています。それで、そこで同じ質問に二人で答えていきながら、お互い話し合って、夫婦の理解をより深めていくことができるように考えられているプログラムでした。

 このプログラムはDVDになっていまして、そのために誰か専門の講師を呼ばなくても、映像に従ってお互いに質問しあっていくというものなので、他の人に自分たちの会話が聞かれる心配もありませんし、自分たち夫婦のことを人に発表することもないという、とてもよく考えられている内容でした。ぜひ、教会で導入してほしいので、まずは牧師たちが自ら体験してみてはどうかということで、稲沢のベルンス先生が紹介くださったのです。

 実は、私はそういうセミナーにはまったく興味がなかったのですが、妻が勝手に申し込んでおりまして、そこに行くまでの気持ちというのは、まさに屠り場に引かれていく子羊のような心境だったのですが、心配したようなことは行われずに、とても安心して帰ってきました。いつか、この教会でもやってみたいと思いはじめています。

 そのプログラムの中で、自分が気にかけていることと、相手が気にかけていると思っていることにチェックをして、それについて話し合うというものがあったのですが、妻は、私のことを割と正しく洞察していたのに対して、私は妻の気にかけていることを一つも当てることができませんでした。もう、20年も夫婦をやっていますし、お互いよく理解しあっていると思っていましたので、正直、この結果に驚きました。分かったつもりになっているのは、私の方だけで、実は、分かっていなかったということが、明らかになってしまったのです。 (続きを読む…)

2015 年 7 月 12 日

・説教 ヨハネの福音書14章1-7節「道、真理、いのち」

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2015.7.12

鴨下 直樹

 
 ヨハネの福音書の第14章に入りました。今日のこの第14章から第16章の終わりまでの箇所がひとまとまりの文章になっています。一般に「告別説教」と言われる部分です。主イエスは弟子たちの足を洗われて、私が行く所にあなたがたはついて来ることは出来ないと言われました。そして、ここから弟子たちに向けて、別れの言葉をお語りになられました。私が2008年の秋にこの芥見教会に参りました時に、前任の後藤牧師は当時、可児教会と、芥見教会を兼任しておられました。それで、私が芥見に来たからということで、教会で送別会をいたしました。出席されたほぼ全員の方々が最後の挨拶の言葉を話されました。別れの言葉というのは、短くまとめるつもりでもついつい長くなってしまいます。もう、お別れだと思いますから、当然のことですけれども、みなさんがお話になられたので、ずいぶん時間が遅くなりまして、みなさんが後藤先生のことを非常に喜んでおられたのが良く分かりました。

 ですから、みなさんも経験があると思うのですが、人との別れに際して、どうしても話しておきたいと思う事というのは、とても大切なこと、どうしても伝えたいと思うことを伝えるものです。礼拝の説教では、そのひとまとまりの言葉、この別れの言葉を、少しずつ見ていくことしかできませんから、いつも、このことを頭の片隅に覚えておいてくださるとよいと思います。

 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」主イエスはこの告別説教の冒頭、そのように言葉を切り出されました。主イエスの弟子たちの心は騒いでいました。なぜかというと、この直前で、主イエスはご自分を裏切る者のことについてお語りになり、また、「わたしが行く所に、あなたがたは今はついて来ることができません」と言われたからです。しかも、ペテロなどは「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と主イエスから言われてしまいました。ですから、弟子たちには、これから主イエスがどこに行こうとしておられるのか、これから何かが起こるのではないだろかという動揺があったにちがいないのです。そこで、主イエスはこの冒頭で「あなたがたは心を騒がしてはなりません」と語りだされたのです。 (続きを読む…)

2015 年 7 月 5 日

・説教 ヨハネの福音書13章21-38節「主の愛に応えて」

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2015.7.5

鴨下 直樹

 
 先週の木曜日から、今日までの間、名古屋の東海聖書神学塾の伝道実習が行われております。今年は一つのチームが今、私が受け持っております三好教会の伝道実習をしにまいりました。二年前から三好教会は無牧ということもあって、いつもですと、カーステン先生が三好教会のことを主に責任をとってくださっているのですが、この7月から宣教報告のためにドイツに帰っておられるために不在です。そのため、木曜日と金曜日、神学生と一緒に三好教会に泊まりまして伝道実習に参加してきました。今日も、神学生が礼拝で説教しているはずです。その実習で何度かに分けてトラクトを配ってきたのですけれども、一日中トラクトを配っているわけにもいきません。また、無牧の教会ということもあって、教会の定期集会はさほどありませんので、時間を持て余してしまいます。それで、木曜の夜と、金曜の午前と午後、一時間半ほどの学びの時を持ちました。三好教会に来た神学生たちは5人なのですが、そのうち4人は今年の四月に入ったばかりの方々です。そういうこともあって、その学びの時に、聖書の読み方という話をしました。ここで、その話をしますと、それこそ一時間半かかってしまいますので、また何かの折にみなさんにもお話しできればと思いますけれども、その中で、聖書を読む時にはコンテキストを理解するという話をしました。コンテキストというのは、一般的には文脈と説明されることが多いと思いますが、コンという言葉は「一緒に」というラテン語です。テキストというのは、織物のことです。織物のことをテクスタイルというようですけれども、縦糸に横糸が織り込まれて織物ができるように、言葉によって編み込まれていく文章のまとまりのことをテキストといいます。ですから、コンテキストというのは、前の文章と後ろの文章がどのようにして一緒に織りこまれているのかを理解するという意味で使われます。聖書を読む時に、どうしても大切なのは今、読んでいるところだけではなくて、その前後に何が書かれていて、どういう文脈の中でそのことが言われているのかを正しく理解する必要があります。 (続きを読む…)

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