2016 年 6 月 12 日

・説教 エペソ人への手紙 3章14-21節「パウロの祈り」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:20

 

2016.06.12

鴨下 直樹

 
 今日のところは、パウロの祈りが記されているところです。昨日の家庭集会でも、祈りについてお話したのですが、この夏のキャンプのテーマでも祈りをテーマにしています。祈りは、私が牧師になったときからわたし自身のひとつの大きなテーマでもあります。神学生の時から、しばらく祈れなくなるという時期を経験しました。きっかけはたいしたことではないのです。仲間の神学生たちの祈りを聞いて、それを心の中で非難していたのです。けれども、人の祈りに耳を傾けて、文句ばかり言っているうちに、自分はどうだということになりまして、自分の祈りの生活を振り返って考えてみるようになりました。それで、自分も人のことを言えるほど豊かな祈りの生活ではないことに気づかされて、すっかり自信をなくしてしまったのです。

 その時から、多くの祈りについての本を読みましたし、色々な信仰者の祈りの本を読みました。もう何冊読んだか分からないくらい読みました。そして、聖書の中に記されている祈りについても注意深く見るようになりました。特に、聖書の中に記された祈りを読んでいますと実に、色々なことに気づかされます。その一つに、聖書に記されている祈りは、いわゆる個人の願い事というのはあまりないということに気づかされます。このことは、祈りを学ぶ意味でも、とても大きいのではないかと思います。

 今日の箇所もパウロの祈りです。ここでパウロは何を祈っているのかというと、とてつもなく壮大な祈りをしています。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と祈っているのです。みなさんの中に、こういうことをこれまでに祈ったことがある方がおられるでしょうか。ひょっとすると、私たちでは思いつきもしないようなことを、ここでパウロは祈っているのです。確かに、この祈りもパウロの個人的な願いごとであるかもしれませんけれども、むしろ、このいのりは、神が願っておられることを、パウロが祈っているようなものとも言えます。

 私たちは、祈りにおいて、自分の常識や限界を超えて、神に近づくことができます。それが、いのりです。祈りにおいて、パウロの祈りがそうであるように、神の思いと一つになると言ってもいいかもしれません。そういう祈りを祈ることができるときに、私たちは深い喜びに包まれます。
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