2021 年 10 月 24 日

・説教 ローマ人への手紙6章1-14節(2)「キリストと共に生きる!」

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2021.10.24

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 私がドイツに住んでいたころ、週に一度、村の人たちとサッカークラブで、一緒に汗を流しました。あちらは、多くの人が仕事終わりにそのようなサークルとかクラブというようなものに所属していて、一緒にいろんな活動をします。私は、サッカーを学生のころにしていたわけではありませんが、一緒にやらないかと誘われて、サッカーをすることになりました。

 いつも、集まって来るのは8人とか10人というメンバーです。それを二つのチームに分けまして、体育館でサッカーをするのです。ただ、私が驚いたのは、1時間ひたすら走り続けるのです。休憩なんてありません。ずっと走り続けるので、足の皮は剥けてしまうし、何しろ疲れるのです。ゴールキーパーなんて人数が少なくて作れませんから、ゴールは跳び箱の一番上の段を裏返しにしたものです。そのわずか1メートルほどのゴールに入れなければなりません。さらには、ちょうどそのゴールの周りに、ハンドボールコートで使う半円のペナルティーゾーンという入ってはいけないエリアの線があるのですが、そのサッカーでもその線の中には入れないという特別ルールがあります。だから、ゴールまで敵のいないフリーな状態でボールをもらっても、その小さなゴールに入れるのは至難の技です。そこで、私がゴールを外してしまうと、みんないつも一つのポーズを取ります。

 腹に剣を刺して、横に引く、いわゆる「腹切り」のパフォーマンスをするのです。こんな簡単なゴールを外す奴は切腹ものだと言うわけです。一緒にサッカーをしていた彼らはどこでその習慣を知ったのか知りませんが、「日本人は失敗をしたら、腹を切って詫びを入れる」そういうことだけは知っていたようです。

 長い自分の話をしてしまいましたが、私が言いたいのはこういうことです。日本人であっても、さらにはドイツ人でさえもと言うべきかもしれませんが、古くから罪を、過ちを犯した代償は死であるということは知っていたということです。そして、そういう意識というのは、今でもどこかで残っている気がします。昨日、妻と話していましたら、手話で「罪」は「つ」という指文字を作って、そのあとで親指を立ててお腹を切る、そういう表現をするそうです。罪とは腹切りだというのが、手話でも罪をあらわしているのです。

 今日、私たちがこの聖書から考えたいのはこの罪の支配をどのように乗り越えることができるのかということです。私たちがそこで考える必要があるのは、私たちが罪を犯してしまった相手というのは、ゴールが入らなかったとか、他人に迷惑をかけたとか、そういうことではなくて、神に対しての罪を犯したのだということです。神を裏切ってしまった。そして、そのために神の支配されている神の国という世界から追い出されてしまうほど、私たちは神の前に立つことができないほどの罪を、負債を、神の前に負っているということ、これが、聖書が語る罪です。

 しかし、私たちは自らの罪の責任を取るために腹を切る必要はなくなりました。主イエスが、私たちの罪の責任をとって、十字架で死んでくださったからです。私が負わなければならない死を、主イエスが代わりに負ってくださったのです。これが、福音の知らせです。

 主イエスは、私たちの神に対する罪を、自ら引き受けて下さって、神の裁きを私たちに代わって身に受けて下さったのです。

 そして、主イエスがその時に十字架で死んでくださったというのは、そこで、罪人であった私たちが死んだということです。だから、私たちも、そこでキリストと共に死んだはずなのです。そうでないと、私たちの罪の問題の解決はありません。私たちの罪が、私たちからなくなるためには、私たちが死ぬ必要があるのです。悔い改め、というのは、その死を通して、私たちは死んで、そこから新しいいのちがはじまったということなのです。

 5節の冒頭にこう書かれています。「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら」と書かれています。

 ここで、パウロは何を言っているかというと、「私たちはキリストの死と同じようになった」、「同じようになって一つになったのだ」と言っています。これが、主イエスが十字架で死なれた意味です。主イエスがあの十字架の上で死なれたのは、私たちと一つになったのだと。

 主イエスは、その後、3日目によみがえられました。私たちは、主イエスと同じように一つとされて、あの十字架の上で、この私は死んで、そして、よみがえらされたのです。だから、そこでもうすでに私たちは罪から解放されているのだとパウロはここで語っています。

 この7節では、(すでに)「罪から解放されている」とパウロは語っています。主イエスが私たちに代わって死んでくださった。そのことを受け入れて、信じて、洗礼を受けたというのは、もう私たちはそれまでの罪から解放されているのです。もう、罪が私たちを支配することはないのです。

 しかし、です。私たちはそう言われるとそこで立ち止まってしまいます。この言葉は、私たちを苦しめるのです。なぜなら、罪の支配が無くなったという実感がないからです。

 パウロが言うように洗礼を受けたということは、一度そこで、古い罪に支配された自分は死んで、新しくされたのだ。だから、その罪は私を支配しないと言われるのです。けれども実際には、私たちはそう感じるどころから、洗礼を受けてからの方が、私たちの中にあるこの罪の自覚に苦しむようになるというのが、私たちの実感なのではないかと思うのです。
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