・説教 ローマ人への手紙10章14-21節「福音宣教」
2022.03.13
鴨下直樹
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聖書を読む。これは、クリスチャンである私たちがとても大切にしていることです。聖書を通してしか、神様のことが分かりません。そして、聖書には、私たちがどう考えていけばいいのか、私たちの生きる意味や、判断の仕方、目標、大切なことがここに記されています。
今、私たちが耳を傾けているローマ人への手紙の9章から11章まででは、ユダヤ人は救いにあずかることができるのかどうか、というテーマをパウロは語っています。今日のところは、ユダヤ人は聖書を読んできたのに、どうして救われないのかという問いに答えているところです。これは、聖書を大切にしている私たちにとって、素通りすることのできないテーマです。
ユダヤ人は、子どもの頃から聖書を暗記するように教えられている民族で、聖書と共に歩んできた民と言ってもいいと思います。もちろん、そこでいう聖書というのは旧約聖書のことです。特に、モーセ五書と呼ばれる、神から与えられた律法、神の戒めを記している箇所などは、ことさらに大切にしてきたのです。それなのに、なぜユダヤ人は救われないのか。これは、とても大切なテーマです。
今日の私たちクリスチャンとは、比べものにならないほど、聖書を大切にし、聖書に親しんできたのが、ユダヤ人です。それなのに、私たちは救われて、聖書を誰よりも熱心に読んできたイスラエルの民が、救われないのだとしたら、いったい自分たちが大切にしてきた聖書とは何か。せっかく時間をかけて読んできても何の役にも立たないもの、ということになる可能性もあるのです。
それで、パウロはここで、信じるために必要なものは何かということを、語ります。あまりまわりくどい言い方はしないで、信じるために必要なのは、まず「聞く」こと。聞かなければ信じられないと言います。けれども、その福音を「聞く」ためには、「宣べ伝える人」が必要で、宣べ伝えるためには「遣わされる」ということが不可欠だということを順に語っています。
神様のことを伝える、神から遣わされた「メッセンジャー」が必要なのです。
今、私たちは大きな戦争のニュースを毎日耳にしています。そこで驚くのは、ロシアの人たちは、隣の国でロシアの軍隊が行っていることを知らないということです。それを聞くと愕然とします。若い、20代、30代の人たちはインターネットで世界中と繋がることができますから、何が今行われているのかよく知っています。けれども、高齢者になるほど、テレビのニュースしか耳に入って来ないので、隣の国で何が行われているのか知らないのです。プーチンの支持率は71パーセントに増えたというニュースが先日報道されたばかりです。もちろん、このニュースも本当なのかどうかさえ分かりません。ただ、そこで私たちが驚くのは、「事実を知ることができない」、大切な知らせを伝える「メッセンジャー」がいないとどうなるのかという恐ろしさです。
ロシアの外務大臣は「戦争をしていない」とさえ発言しました。あるロシア人は、「ウクライナ人が、自分たちで自分たちの町を破壊している」と言って世界を驚かせました。正しいことを知らせるメッセンジャーがいないのです。
伝える人がいなければ、信じることができないというこのパウロの言葉は、メッセンジャーの存在の大切さを私たちに改めて思い起こさせます。しかし、一体誰が、その知らせを、メッセージを届けるのでしょうか。一体誰が、メッセンジャーを遣わすのでしょうか。
旧約聖書は、この神から遣わされたメッセンジャーのことを「預言者」と言いました。神の言葉を預けられて、届ける役目です。
「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」とパウロはイザヤ書の52章から引用して語りました。
ここでパウロはメッセンジャーの「足」のことを「美しい」と語ります。大事なのは、顔でも口でも、声でもなくて、「足」だというのです。そこで意図されているのはその預言者の背後にある「遣わす者」の存在です。
伝えている人の口や声が美しいというのではなくて、その「足」に目を向けさせるのです。イザヤ書40章の9節では、
シオンに良い知らせを伝える者よ、
高い山に登れ
と記されています。
この言葉の背後には、バビロンによる捕囚が終わりを迎えるという知らせをエルサレムに届けるために、山を越えて、シリアの砂漠と野原を超えて知らせを届けることを語っています。イザヤ書52章の7節にはこういう言葉があります。
良い知らせを伝える人の足は、
山々の上にあって、
なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、
幸いな良い知らせを伝え、
救いを告げ知らせ、
「あなたの神は王であられる」と
シオンに言う人の足は。
パウロの言葉はここからの引用だということが分かります。伝えるメッセージは、「あなたの神は王であられる」というメッセージなのです。その知らせを伝えるために、バビロンから山を越え、砂漠を超えて、救いの言葉を人々に届ける。そのメッセンジャーの足は美しいというのです。
それは、このバビロン捕囚というイスラエルの民にとって絶望的な状況にあって、「神が王となられる」というメッセージ、バビロン捕囚が終わるというメッセージを早く伝えたくて、必死に走って来た足なのです。その知らせの、福音の内容のすばらしさを届けたいという、その預言者の持っているメッセ―ジの力に目をとめさせるのです。
そのような力強いメッセージが届けられたとしても、肝心なことは、そのメッセージを「信じる」ということが必要です。「聞いて、受け入れる」ということがなければ、そのメッセージは意味をなさないのです。 (続きを読む…)