2009 年 8 月 2 日

・説教 「ノアの箱舟4 虹の契約」 創世記8章20-9章19節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:27

鴨下 直樹

 今日、私たちの教会では新会堂三周年記念行事の第二弾として、子どもフェスティバルをいたします。そのために学校に挨拶に行って校門の前でトラクトを配り、幼稚園にポスターやチラシを置かせてもらい、またみなさんも大勢の家族や友人を誘ってくださったと思います。誰もが今日は天気になるように祈って来ました。それこそ、今日の聖書のように雨があがって虹を仰ぎ見ながら、子どもたちと一緒に時間を過ごしたいと願ってきたのです。

 ところが、昨日から天気が悪くなってきまして、今日は天気が良くならないのではないかと多くの方が心配してくださって、昨日は何人かから電話をいただきました。それほどに祈って備えてきた集会ですから、本当に子どもたちや、その親の方々に教会の事をもっとよく知っていただきたい、伝道していきたいと願わされているのです。

 

 この新会堂記念行事と言いますのは、この芥見教会の礼拝堂が新しく献堂して三周年がたったことを記念して行われます。そのために私たち芥見教会が一年をかけて様々な形でこの地域の方々に教会のことを伝え、伝道していきたいと願わされているのです。考えてみますと、新しい建物が建つというのは本当に特別なことです。私たちはこの新しい建物を与えられて本当に喜んでいます。新しいということは、何かこれからこれまでとは違ったことができるのではないかという希望を持っていますし、期待を込めることができるわけで、様々なことに教会として取り組んでいきたいと願わされているのです。

 

 そのように何かを新しく始めると言う時、私たちは新鮮な思いになります。新しい職場に行く、新しい車を買う、そのような時はもちろんですけれども、新しいノートを使う時でさえ不思議な緊張感と楽しさがあります。そこには様々な期待があるのです。 今日の聖書の個所も同じです。罪の世界を神は一度洪水によって滅ぼしてしまわれて、ここから新しいことが始まろうとしているのです。 私たちでも、新しいことを始める時にはこれほどの期待を込めているのですから、神がご自身が作られたこの世界をもう一度新しく始めようと言う時には、その神の思いはどれほどだったかと思うのです。

 

 

 今日の聖書の個所は少し長いところですけれども、四度、神が語りかけるところが記されています。そしてその四度とも、神が一方的に語っておられるのであって、人は一言も発してはおりません。言ってみれば、ここで神がうれしくって思わず饒舌になっておられるのです。新しい世界を神は大変お喜びになって、思わず言葉がついてでてしまっているかのようです。人は気分の良い時にはおしゃべりになると言いますが、まさに神もそのように少しおしゃべりになっておられたのかもしれません。それほどに神の喜びは大きかったということなのでしょう。あるいは、神がこの新しく始まった世界にそれほどの期待をかけておられたということなのかもしれません。

 

 

 この神の独り語りのきっかけは、箱舟かでら出たノアとその家族が捧げた礼拝の犠牲の香りです。この時、祭壇で焼かれる鳥の何とも言えない香りをかがれ神の心は動いたのです。これが、最初の神の語りかけの言葉となります。

21節では「主は心の中でこう仰せられた」とあります。口に出して、ノアに聞こえるようにはお語りになりませんでしたが、自分自身に言い聞かせるように語ったということでしょう。つまり、ここには神の決心が記されているのです。

 神はここで「わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい」と21節にありますけれども、そのように神は決心なさったのです。この言葉の中には、神がこの世界を洪水によって滅ぼすことがどれほど厳しいことであったかということが語られていると言えるでしょう。ここに神の決心が記されているのです。

 

 けれども、この後すぐに神はこのように語られました。「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」と。新改訳聖書には、この初めからのところに注が付いておりまして、そこには「直訳すると、幼い時から」となっております。新共同訳では「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」となっています。

 新しい世界ではあっても、ここを読むと明らかに人間の持つ罪というものが何の解決も見出されていないことが良く分かります。人間は子どもの時からその心の中に悪いことを思うのです。誰が教えなくてもです。別に、ここの個所は原罪という、キリスト教の教理を強調するところではありませんけれども、私たちはそのことを心に覚えておかなくてはなりません。だからこそ子どもの時から神の前に生きることの尊さを教えていかなければならないのです。このことは教会の使命でもあるのです。

 ですから、昨日何人もの方から電話をいただきまして、明日天気が悪くなっても大丈夫でしょうか?という問い合わせがあったことを私は本当に嬉しく思っています。教会が子どもたちに伝道していくということに、それだけの思いを向けているということは、人間が滅びることがないようにと神が決意しておられることと通じることだと思うのです。神が、人を滅んでほしくないと思っておられるように、私たちも子どもに滅んでほしくない、神の救いを知っていてほしいと切実に願っているのです。

 

 

 9章に入って、神は今度は言葉に出して語りかけます。それが、ノアとその息子たちへの祝福の言葉です。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と、神が天地創造の時にすべての被造物をおつくりになられた後で語られた言葉を、神はここでもう一度語りなおしておられるのです。そして、そのような祝福と同時に食物のことがここで語られます。ここでは「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である」と3節で言われているのです。この時から、人は肉を食べることがゆるされるわけです。

 

 今夏休みに入っておりますけれども、私もこの八月から九月にかけてキャンプなどで3回ほど教会を留守にいたします。その間、教会音楽伝道師の森岡さんや、教会の執事の方々が順番に説教をしてくださることになっています。また、祈祷会も今秋からは信徒の方々の御言葉の奉仕をいたします。これは本当にこの教会の素晴らしい伝道だと思っています。色々な方々が御言葉を語るというのは、本当に大切な経験だと思うのです。八月の礼拝細目の中に、八月末に御言葉を語る下斗米執事は「聖書と食事」という題で話をしてくださることになっているようです。私も聞いてみたいと思っていますが、いかにも下斗米さんらしい題だと思いました。

 その中に今日の聖書箇所が出てくるかどうか分かりませんけれども、それまで木の実や果物を食べていた人間がここから肉を食べることになるわけですから、おそらく下斗米さんにも、そして皆さんにもこの個所は印象的な聖書箇所なのではないかと思います。ですから、今日あまり説明してしまいますと今月末の楽しみがなくなってしまいますから、あまりそのテーマについては話しません。ここでは肉を食べるということが、それほど積極的に語られているわけではありません。むしろ、「いのちである血のままにたべてはならない」と言われて、むやみに殺してはならないのだということがここで言われているのです。つまり、人間が弱肉強食の頂点に立つ存在だなどいうのではなくて、むしろ命を尊むものだということをここで語っているのです。

 

 そしてここからは、食べ物の話というよりもいのちの尊さの話に展開されていきます。もし、人間が命に対する尊厳を失ってしまうなら、人間は獣と化してしまうことになるのです。肉を食するということは、他の命を、他の生を犠牲にして自らが生きるということです。そこには命への畏れが必要なのです。このことを忘れてしまうなら、この世界は再びすぐにでも間違った世界になっていってしまう。だからこそ、神はそのことを人に語られたのです。

 事実、大洪水によって神は全ての命を滅ぼしてしまわれました。けれども、神はその命を誰よりも大切にしておられた方です。神は全ての命を滅ぼしたんだから、今後は何をやっても許されるというような誤った考えが出てこないためにも、神はここで人に対して語られたのでした。

 ですから、この5節では「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の値を要求する、わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。」と語られています。

 これは命には命をという、後に「目には目を、歯には歯を」で知られる「同害同復法」といわれる「ダイラシュ」よりも先立つ戒めです。けれども、原則的には同じことが教えられているわけです。人の命を奪うものは、自らの命を奪われる、だからむやみに人を殺してはならないのです。

 その理由として続く6節では「人の血を流すものは、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから」と、神のかたちであるからとされています。人間のいのちは神に基礎をおいているのだから、それを軽んじることは神を軽んじることになる。だから、命を軽々しく奪うものは神の裁きの対象になるということをここで改めて教えているのです。

 ここは食べ物の話であったのに、この話はこうして人間の根本的なあり方の話へと展開されていくのです。飛躍しているようですけれども、まさに神の作られた世界というのは、人間の自分勝手な振る舞いがそのような破滅を招いたことをどうしても理解しなければならないのです。

 

 ニュースや新聞を見ていても、毎日、本当に毎日短絡的な殺人事件が起こっています。「むしゃくしゃしたから」という言葉が何か正当性を持っているかのように、連日のように人を殺した理由がそこにあったのだと告げています。自分の気持ちを支配するということは、子どものころから学んでいかなければならないことでしょう。人をたたけば痛いのだということを、子どもは身をもって知っていかなければなりません。そういう一つ一つの積み重ねが、自分の心をコントロールする力となっていきます。

 最近は動物を飼うことがそのような心に大きな助けになると言われます。けれども、同時に想像力の足りなさが動物を虐げることになる現状もあります。そうです。まさにそこで問われているのは、「想像力」を持つことです。

 命には命を、と言われていることの本当の意味はそこになるのでしょう。相手を苦しめることになるということを学ぶのは、この想像力でしかないのです。まさに描いてみせる力です。神は、人にこの大洪水というとてつもない裁きをお見せになって、人が滅ぼされるということがどれほど恐ろしいことか、決して忘れることがないように見える形でお示しになられたのです。命を奪うことはそれほどに恐ろしいことであると。

 

 そしてこの想像力の豊かな神は、この出来事の最後に「虹」をお与えになられました。これを見る時に誰もが思い起こすことができるようにと。人間に想像力をお与えになられた神は、その想像力を用いて人が滅びることがないことを教えようとなさるのです。

 けれどもこの神は、私たちに「思い出せ」と言われるのではなくて、神ご自身が思い出そうと言われるのです。

 

 「虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神とすべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」(16節)

 

 神はこの虹を、私たちを滅ぼさないことのしるしとして与えてくださいました。そしてそれは、大洪水で人間を滅ぼすことはしないという神からの契約のしるしだとここで語られました。ノアの箱舟の話の初めの時にすでにお話しましたけれども、この神の契約というのは神が一方的に話してくださるという契約です。ここでは、人間はひたすら沈黙しているだけにすぎません。神は私たちを救うために一人で働いていてくださるのです。

 

 けれどもここで、神は雨上がりの虹をご覧になって永遠の契約をしたことを思い起こそうと言ってくださる時、私たちも同様に、神のこの約束を思い起こすことを願って言っておられるのは明らかです。神は、私たちが想像力を働かせて神の御業と恵みとを思い起こすことを願っておられるのです。虹は、天と地が一つに結ばれるようにかかっていますが、それを見る時に私たちは思い出さざるを得ないのです。神のおられる天と地を神が虹で結んでくださった。私たちと関係を深く結んでくださる神と共に生きるなら、私たちは新しく生きることができるのです。想像力をもって、愛を持って、希望をもって生きることができる。まるで新しい歩みをスタートするようにして生きることができるようになるのです。

 そして、そのために神が熱心に語り、全ての御業を行っていてくださるのです。この神に、私たちも一つの虹によって結ばれることができるのです。そしてこの約束は、神の方が忘れないでいてくださるのですから、どれほど確かか分かりません。

 このお方は、私たちが新しく生きることをそれほどに喜んでいてくださるお方なのです。

 お祈りをいたします。

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