・説教 マルコの福音書6章33-40節「見るべきところ」
2018.03.11
鴨下 直樹
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今日、私たちに与えられている聖書の箇所は五つのパンと二匹の魚で男の人だけで五千人の人々がお腹いっぱいになったというところです。五千人の給食などと言われるところで、聖書の四つの福音書のすべてに書かれている出来事です。どの福音書にも書かれているということは、それだけこの出来事が人々の心を捉えたということでしょう。
聖書にはたくさんの奇跡の出来事が記されています。けれども、聖書の描く奇跡というのは、主イエスがこんなにすごいことができるということを強調するために記されてはいません。これまでの奇跡の記述も、奇跡は起こったが分かったのは癒された当の本人か、弟子たちだけに限られていました。けれども、ここでは一度に五千人以上の人たちがこの出来事を目の当たりにしたのです。ところが、このマルコの福音書は、この出来事の記述を後半に描きながら、とても簡潔な報告でまとめています。むしろ、他にテーマがあると言っているかのようです。
マルコの福音書はここで派遣された十二弟子たちが戻って来て、それぞれの伝道の結果を報告するところから記しています。そして、31節にこう記されています。
そこで、イエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。
今週の火曜日のことです。この教会で教団役員会を行いました。朝9時から始まりまして、昼食に1時間休憩がありますが、夜の9時すぎまで話し合いをしました。その日、ある方が電話をしてくださっていたのですが、結局折り返しの電話をできたのは夜10時過ぎてからです。芥見が会場だったので、私はすぐに家に帰れるわけですが、他の先生方は家に着くのは12時近くです。みなさんでも、働いておられる方は、残業で夜遅くになってようやく家に帰り着く方も少なくないと思います。そういう時に、この箇所を読みますと、少し慰められる気がするのではないでしょうか。
「さあ、あなたがたで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」この主イエスの言葉を聞くだけでも、ああ、この方は分かってくださっているなぁという気になるわけです。主イエスはここで働いてきた弟子たちを労わってくださろうとしておられます。他の誰でもない、主が私のことを気にかけてくださっているのかと考えるだけで、充分という気持ちになるのかもしれません。しかしこの出来事は、これがすべてのきっかけとなっています。つづいて、こう書かれています。
そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。
と32、33節に記されています。
弟子たちは何日かの伝道の旅を終えて疲れて帰って来ました。そして、さあ今から休もうということで、静かな所に向かおうとすると、もう人々が先回りして手ぐすね引いて待っているというわけです。しかも、先回りしている人たちは数人というのではないのです。男だけで五千人という数です。女と子どもを入れたらどれくらいであったか。もう言ってみればお祭り騒ぎのような状態でしょうか。
もし、私がこの時の弟子だとしたら「もう勘弁して」とつぶやいたのではないかと想像します。みなさんならいかがでしょうか。そもそも、主イエスの弟子たちは何も持たず、杖一本で何日も旅をしてきたのです。もちろん、その働きの成果はそれなりにあったのかもしれません。旅先で家を借りたでしょうか。親切を受けたかもしれません。けれども、やはり旅先ですから緊張もしたでしょうし、疲れも覚えたはずです。やっと仲間だけの時間を過ごし、主イエスも休むように声をかけられているのです。そんな矢先に、もう何千人、ひょっとすると一万人を超える人々が、休もうと思っているところへ大挙して押しかけ待ち構えているのです。
休みモードに入っているとすれば、ここからは完全に余計な仕事という感覚になるのだと思います。現に、弟子たちはこのあとのところを読むと、それほど快く思っていないことが読み取れるのです。
しかし、主イエスは違うのです。34節にこう書かれています。
イエスは、舟から上がられると、多くの群集をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。
弟子たちはここで主イエスを見て、何を思ったのでしょうか。よく考えて見れば、伝道から帰って来るまで、弟子たちは人々のところに送り出されていたのです。そして、主イエスが語る神の国の福音を語ったはずなのです。「神が支配してくださるならば、幸いに生きることができる。だから、神に逆らう生き方をやめて、悔い改めるように。神の思いに生きるように。」
弟子たちが語ってきたはずのことを、まさに自分たちの目の前で主イエスがしておられるのです。弟子たちはさっきまで自分たちが主イエスに遣わされていたことを忘れて、もうここで自分の語った言葉も忘れて、群集を疎ましく思ってしまうほどに、主イエスの心から遠く離れてしまっていたのでしょうか。
この聖書の箇所をこの一週間何度も読みました。そして、考えました。自分のこととして考えて見ると、弟子の気持ちは痛いほどによく分かるのです。「さっき、休めって言ったやん」。そんな言葉が私の口からも出てくると思うのです。不思議なもので、一度自分のことを考える気持ちになると、なかなか切り替えることができなくなります。問題はどこをみているのかということなのです。
弟子たちは、疲れて休むこともできない可哀想な自分を見つめ、主イエスは「羊飼いのいない羊のような人々」を可哀想に思っておられる。そして、この違いこそが決定的な違いとなるのです。
私は可哀想。自分ばかりそんな役割をやらされている。周りの人も同情してくれたりすると余計に、私たちはこの悲劇の主人公のモードから抜け出せなくなるのです。悲劇のヒロインシンドロームなどという言葉もあります。昔からの言葉で言えば自己憐憫とも言います。
宣教師として長く日本で働かれたエミー・ミュラー先生はいつもこの言葉を口にしては、私たちに教えてくださいました。「自己憐憫は罪です」。自分が可哀想だと思いながら自分を慰めている姿に、かつて自分を導いてくれた先生からの助言の言葉だったのだそうです。
「自己憐憫は罪」。
それは、自分で自分を可哀想だと思いながら、もうそれで自分を慰めてしまって、神に期待しない心、自分を変えようとしない心。この考えが自分を支配し始めると、もう自分のこと以外何も見えなくなってしまうということです。
今、この弟子たちには主の姿が見えていません。35節と36節にはこう書かれています。
そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」
弟子たちは、いつまでも人々に語りかけておられる主イエスに何らかの感情を持っていたのは明らかです。へんぴなところ、時間もおそい、解散させてほしい、食べる物をめいめいで買うように。そういった言葉が続きます。目の前で起こっている出来事を受け入れられないのです。気持ちはよく分かるのです。時間が遅くなってお腹が空いたのでしょう。お腹がすくとだいたい男の人はイライラするのでしょうか。休むには好都合の寂しいところも、翻訳の問題もありますが「へんぴな所」となり、とにかく、この目の前の人々をどこかに追いやって欲しいのです。最近の言葉で言えば、「空気読んでよ」ということなのかもしれません。休みなさいと言ってくださった主イエスなら弟子たちの気持ちは分かるはず。そんな思いがあったのだと思うのです。
しかし、主イエスの口から出て来た言葉はまったく違う言葉でした。37節。
「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
と主イエスは言われたのです。
「まさか!」と言いたくなるような言葉が、主イエスの口から発せられます。その後に記されている弟子の言葉はもはやただのグチです。
「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」
聖書には書いていませんが、弟子たちの心はこうです。「いいかげんにして!」
200デナリというのは、一デナリが大人の一日の労働賃金ですから、単純に一日一万円と考えれば200万円ということになります。岐阜県の最低賃金は一時間800円ですから、一日8時間労働で換算しても128万円という額になります。着るものも何も持たずに伝道にでかけた弟子たちですからそんなお金をもっているはずもないのです。それに、男だけで5000人という数の食料を調達するだけでも、とてつもなく大変なことです。なぜ、そんな無理難題を主イエスは弟子たちに課したのでしょう。
主イエスと弟子たちとの決定的な違いはどこにあるのでしょうか。主イエスは自分が疲れていても、休みたいと思っても、自分を犠牲にしてでも、人々に心を向けることができました。一方で、弟子たちには人々はむしろ邪魔な存在なのです。主イエスは自分の気持ちしか見えなくなってしまっている弟子たちに、大きな気づきを持つことを願われたのです。
主イエスは弟子たちに尋ねます。「パンはどれくらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」38節です。
この何千人という大群衆の前に五つのパンと二匹の魚というのは笑ってしまうしかないような数です。恐らく12弟子と主イエスが食べるはずの分だったのでしょう。それ以上は無理です。目の前には何千人という数の人々がいるのです。それに対して五つのパンと二匹の魚、それがいったい何の役に立つのかと言いたくなるほど、目の前の現実に対して小さすぎる数の食べ物しかないのです。
この5つのパンがどのようにして五千人の人々の手元に届いたのか。想像するしかありません。子どものときに見た映画で、「ジーザス」だったと思いますが、その映画の中に、この時の場面が描かれているのをみました。大きなパンをちぎって隣の人に渡す。その隣の人もパンをちぎって次の人に渡す。そうやって、次々にパンをちぎって渡していくのですが、パンがちっとも小さくならないで、つぎつぎに貰った人がまた次の人にとネズミ算式に増えていくのです。その様子をみて、子どもながらに納得しました。今となっては、もうその映像しか頭の中にイメージできないほどに私の中に深く入り込んでいます。誰もが考えるのだと思うのです。どうやってパンが増えたのか。
これは、間違いなく奇跡です。とてつもない大きな奇跡です。だから、誰もがここの出来事を記したのでしょう。聖書の描く奇跡というのは、その奇跡を信じるかどうかという書き方をしていません。ここでもそうです。問題は、奇跡を見て、主イエスを信じたということではなくて、テーマはそれを配って行った弟子たちが、そこで何を見たのかということであったはずなのです。
祈祷会で、ある方が「この奇跡は主イエスが群集にみ言葉を語るだけではなくて、お腹まで満たしてあげる奇跡だった。主イエスという方は空腹のままで人を帰らせないほどに、人に寄り添ってくださる方だと分かった。」と言われた方がありました。私もそれを聞きながらなるほどと思いました。別に空腹のままで帰らせても問題ないはずなのです。だいたい弟子たちはそう考えたのです。自分の食事のことは自分でさせればいい。けれども、主はそう考えなかったのです。その人たちをご覧になりながら空腹のままで帰らせるのではなく、食べ物を与えようと思われたのです。
弟子たちはこの何千人という人々にパンを配り、また残りを集める時に人々の顔を見たことでしょう。「人々はみな、食べて満腹した。」言葉にすればたったそれだけのことです。けれども、何千人という人たちがお腹も満たされている光景に自分が携わっていることに、何も感じなかったとは考えにくいのです。ここには書かれていません。けれども、主イエスが何を弟子たちに見せたかったのかは、分かったと思うのです。
人を愛するということはどういうことなのか。弟子たちはここで身をもって経験したはずです。自分を犠牲にしてでも、人が喜ぶ顔を見ることができる。このとき弟子たちの不平やつぶやき、疲れなども全部ふっとんでしまったのではなかったかと思うのです。見るべきところは、主イエスの姿です。疲れている自分、可哀想な私ではないのです。自分を見ることをやめて、自己憐憫を乗り越えて主イエスをじっと見る時に、主がなさっておられることの中に、本当に私たちがするべき道が示されているのです。
お祈りをいたします。