・説教 マルコの福音書6章14-29節「神の言葉の確かさ」
2018.03.04
鴨下 直樹
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今日のところには色々な人の名前がでてまいります。ヘロデ、そして、ヘロデの妻ヘロデヤ、そして踊りを踊ったヘロデヤの娘、バプテスマのヨハネ。出て来る四人に共通しているのは、ここに出てくる人たちの不幸がここで語られているということです。誰一人として喜んでいる人はいないのです。この箇所は初めから終わりまで重たい空気が漂っています。
ヘロデ王がここで登場します。聖書の中には色々なヘロデが出て来ますので少し整理してみたいと思います。ここで「ヘロデ王」と書かれていますけれども、正確には王ではなくて、日本で言うと知事のような立場で、その地方の領主です。正式の名前はヘロデ・アンティパスと言います。ベツレヘムで嬰児虐殺をしたのは彼の父、ヘロデ大王です。ヘロデ・アンティパスの息子ヘロデ・アグリッパは使徒の働き12章でキリスト教会に迫害を加える人となる。罪にまみれた家族と言ってもいいわけです。親子三代にわたって聖書に登場しながら、このヘロデ一族がしたのは「神のことばを抹殺しようとした」と言っていいと思います。
バプテスマのヨハネはヘロデに悔い改めを語りました。というのは、ヘロデは自分の兄弟であるピリポの妻をとりあげて、自分の妻としていたのです。姦淫の罪を公然と行い、自分の権力で周りの声を押し殺して来たのです。けれども、バプテスマのヨハネは恐れることなく、誤りは神の前に認められないのだと悔い改めを求めたのです。ヨハネはヘロデの権力を恐れませんでした。そして、自分の語るべきことをしっかりと語ったのです。
今日の箇所の前のところでは、主イエスが弟子たちを遣わしたということが書かれていました。主イエスの弟子たちが語るのも悔い改めです。神の思いに逆らって、自分を正当化して生きることは間違っているのだということを語るよう、主イエスに遣わされたのです。そして、ここでは、まさに主イエスの弟子たちからしてみれば先輩であるヨハネは、そのために殺されることになったということが書かれているわけです。そして、今日のところでは、そのようにして主イエスが働き始めた時に、主イエスの働きはまるでバプテスマのヨハネのようであるという噂がたったということが記されているのです。
14節にこうあります。
イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にもはいった。人々は「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が、彼のうちに働いているのだ」と言っていた。
と書かれています。人々は噂したのです。主イエスとバプテスマのヨハネは同じことを言っていると。バプテスマのヨハネを殺害した当のヘロデにしてみれば、自分が殺害したことでもう耳に入ってくることはないと思っていた神の言葉がふたたび聞こえて来るようになったわけです。そして、そのために、自分の犯した罪に対する良心の責めを感じたのです。
ここで、なぜ、ヘロデはヨハネを殺害するに至ったのか、その経緯が書かれています。ヘロデヤの娘が踊りを踊り、その踊りの素晴らしさと、ヘロデヤの娘のかわいらしさに褒美を何でもやると約束します。そして、その褒美としてヨハネの首を求めることになったのです。
ヘロデヤの娘がこの時何歳であったか分かりません。おそらく、ヘロデヤと前の夫ピリポとの間に出来た子どもだったと考えられます。子どもが何かを立派にやり遂げた時に求めるものは、そんな人の首ということではなくて、もっと子どもが嬉しくなるもののはずです。
うちの娘の話しで申し訳ないのですが、先週歯医者に行ってきました。大人の歯が上手く生えて来なくて、子どもの歯と重なって二列に生えてきてしまったので子どもの歯を抜かなくてはならなかったのです。その治療が終わったあとで、娘から電話がかかって来ました。「麻酔の注射、前よりとても痛かったけれども、泣かないでできた。だから、このあいだダメと言った300円のおもちゃを買って欲しい」というのです。普通はダメというのですが、頑張ったんだろうということがわかったので、「買ってもいいよ」と返事をしました。
ヘロデヤの娘が6歳なのかどうかは分かりませんが、もう少し上だったとしても、貰った褒美が盆に載せられたヨハネの首であったら、トラウマになる以外のことはちょっと考えにくいのです。ここにも、親の道具とされてしまう子どもの悲しみが描かれているように思います。
ヘロデヤにしてもそうです。ピリポと結婚をしながら、権力のあるおそらく兄であったヘロデのものとなる。ヘロデヤがどう考えていたか直接には書かれていませんが、ヨハネを殺したいと思うほどに憎んでいるのですから、ヘロデヤも権力者のもとにいたほうがメリットが多いと考えていたようです。自分が間違ったことをしていながら、正しいことを語るヨハネを黙らせてしまいたいと考えていたのです。
結果として、本当は何をしなければならないかをヨハネに告げられていながら、その言葉に耳を傾けず、かえって正しいことを語るものを殺害することで、自分の問題をなかったことにしようとした罪がここに示されています。そして、その罪のためにヘロデもヘロデヤも、その娘も喜ぶことができなくなってしまっているのです。
こういう話は、あまり具体的な例を上げて話す必要もないと思いますが、私たちの中にもおなじように、神の言葉に耳を傾けないで、無視するということをしてしまうことがあるのだと思います。だいたい、何か大きな問題が起こる時というのはそこには様々な問題があるわけです。その時、本当はその問題が何に根差しているのか、問題はどこにあるのか、自分の過ちはどこにあるのかということと向き合わなければなりません。
先週の説教で少しお話ししましたが、私がまだ十代の時にそのことを宣教師であったクノッペル先生から、「逃げないで徹底的に向かい合って考えるように」言われました。先延ばしにしてはならない。そこで神は何か考えておられるのかをしっかりと考えて、自分が改めるところが何かに気づいて、気づいたらそのことを改めなければ自立した人間になれないのだと教えられました。私はそのことを本当に感謝しています。自分の問題としっかり向き合うためには、何かをしながら考えるというのではなくて、じっくりそのことを頭の中にとどめて悩み抜くことが大事なのだと教わりました。まだ私は十代の時でしたが、この助言をとても感謝しています。
私たちは、何か自分にとって不都合なことがおこると、つい相手が悪いと考えてしまいます。あるいは、その状況では仕方がないのだと正当化してしまいます。そして、気分転換をして、そのことを遠ざけて考えないようにして、何とかやり過ごすことをし始めてしまうのです。けれども、それは問題を内在化してしまって、それにまた新しいことを積み重ねてしまうことで、どんどんあるべき自分の本当の姿から遠ざけることにしかならないのです。
昨日のことです。また娘の話しで申し訳ないのですが。このくらいの年齢の特徴なのかどうか良く分かりませんが、最近よく自分で作詞作曲した歌をうたいます。昨日、歌っていたのは「心の闇をうちやぶり~♪」と歌っていたのです。それを聞いて私が娘をからかおうと思って、「慈乃の心には闇があるの?」と尋ねました。
すると、こんな答えが返ってきました。「誰の心にもあるよ。お父さんの心にも闇があるでしょう」と反対に問い返されてしまって、私自身ドキッとしました。私の心の中の闇ってなんだろう。娘に問われながら、自分は心の闇をどう処理しているのだと考えさせられました。そして、ふと森有正の言葉を思い起こしました。「アブラハムの信仰」という本の中の言葉です。
「人間というものは、どうしても人に知らせることの出来ない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、恥があります。どうも他人には知らせることのできない心の一隅というものがある。そこにしか神様にお目にかかる場所は人間にはないのです。」
6歳の娘にも心の闇というのは誰の心にもあるということが分かるのです。けれども、この誰にもある心の闇の問題の解決の仕方は、誰もが知っているわけではないのです。森有正は今から40年も50年も前の人ですけれども、人の心の闇でこそ神に出会うことができるということを知っていた数少ない人の一人です。
神の言葉が語られる時に、人はその心の闇を、いつも遠ざけている自分の本当の問題と向き合って、神から癒していただくことができるのです。そのために、主は御言葉をもって語りかけてくださり、私たちを悔い改めへと導かれるのです。
ヘロデは神の言葉を聞く機会が与えられていました。そして、喜んでみ言葉に耳を傾けていました。けれども、自分の問題と向き合おうとはしませんでした。そして、結局は神の言葉を殺したのです。耳を傾けることをやめたのです。
今、私たちはレントを過ごしています。私たちがこの時、心に留めなければならないのは、私たちもまた神の言葉を殺す者であるということを心に刻むことです。悔い改めないで、神の御心を知りながら、正しいことは何かを知りながら、問題を先送りにする。人のせいにする。まわりのせいにする。そうやって、自分の闇に目を向けることを拒む時、神の言葉は殺されるのです。
神の言葉は弱い、十字架につけられて殺されてしまうほどに弱い。私たちが簡単に無視することができるほど弱いのです。けれども、み言葉に耳を傾け、自分と向かい合って、神に自分を託すことを選び取るなら、神の言葉は私たちの中で力をもち、私たちの目の前の現実を打ち破る力を持つのです。
そうです。私たちは心から「心の闇を打ち破り~♪」と歌うことができるようになるのです。それほどに、私たちに与えられている神の言葉は確かなもので、私たちを喜びと力強さでいっぱいにし、主に望みをもって生きることができるようになるのです。
お祈りをいたします。