2018 年 5 月 13 日

・説教 マルコの福音書7章1-23節「聖く生きる」

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2018.05.13

鴨下 直樹

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 5月も第二週を迎えました。以前、マルコの福音書から説教をしたのは3月の終わりですから、約二か月ぶりにマルコの福音書に戻ってきました。この間に色々なことがありました。先週は神田先生をお招きして説教していただきましたし、岐阜市長までもが礼拝を訪ねてくださいました。また、その前は山田長老がご自身の証を交えて説教してくださいましたし、ファミリー礼拝で避難訓練をしましたので、そういうテーマで説教をしました。また、洗礼入会式やイースター、受難日の礼拝などと毎週目まぐるしくテーマが変わってきましたので、もうマルコの福音書の話の流れが頭の中で切れてしまっている方がほとんどだと思います。

 そういう意味で言えば、このマルコの福音書の7章はこれまでの奇跡のことが書かれたまとまりが終わって、新しい段落に移るところですから、ちょうど少し内容が変わるところと言っていいと思います。

 このゴールデンウィークの始まりました時に、東海聖書神学塾主催で教会学校の教師のための研修会が行われました。今回は「子どもを知る」というテーマで二人の講演を聞きました。一人目は私の姉で小学校の教師をしています。学校の教師の現場からみて、今の子どもたちを知るという話を聞きました。この講演はとても興味深いもので、「小学生白書」という子どもたちの現状を示すアンケートのとりまとめから、今の子どもたちの生活ぶりがどうであるかということを、アンケートの表をもとに話してくれました。

 私自身、自分で姉に講演を依頼しておきながら、こんなに専門的なデーターを使って話をするのだとは思っていなかったのですが、とても興味深く聞きました。その後は、マレーネ先生が聖書の中で子どもはどのように記されているのかを丁寧に掘り下げてくださって、聖書が子どもをどう見ているのかということについて話してくださいました。どちらもとても興味深い話でした。この二人の講演を聞きながら、自分が分かっているつもりになっていることが、いかに正しい考え方をできなくさせているのかということに改めて気づかされました。

 特に、私の姉がその講演でいろんなデーターを使って子どもたちの現状を話してくれたのですが、例えば子どもの睡眠時間のデーターを見ると、子どもは平均で朝の6時半に起きるということが分かるわけです。そういうデーターを見ると、うちの子は今6時に起きているのですが、平均より少し早く起きるのは、学校が遠いから仕方がないことかな、などと思うわけです。ところが、姉はそういうデーターをはじめの時間で、ざっと説明してみせた後で、もう一度、そのデーターの細かな点に焦点を当てて話し始めました。

 例えば、その表で朝の5時半以前にすでに起きている子どもは全学年平均で8.8%もいるというようなことを話すわけです。学年によっては11.5%の子どもがすでに5時半に起きている。どういう理由があるのか、そんなに早く起きていて授業中に眠くならないのだろうかと話して、今度はでは何時に寝るのかというデーターを説明します。すると、平均の就寝時間は夜10時なのですが、夜11時半以降に寝る子供も8.8%いる。では10時以降に寝る子どもは何をしているのかというと、そのデーターによると、テレビを見ているとか、インターネットをしているとか、ゲームをやっているという子どもが合わせると55%いる。つまり、平均の中からは見えてこない、さまざまな子どもを取り巻く環境というのがあって、睡眠が足りていない子どもたちが一定数いるということに目をとめる必要があるというわけです。

 子どもは早寝早起きがいいということは誰もが分かるのですが、そうできない環境というのがあって、そのことを理解していないと色々な失敗をしてしまう。目の前に起こっている現象だけでなくて、その背景に何があるのかということをしっかりと見極めることが求められるということなのだと思うのです。

 今日の聖書の箇所は主イエスの弟子たちがパンを食べるときに洗っていない手でパンを食べたことが事の発端です。まず普通に考えてみたいと思うのですが、手を洗わないでパンを食べたということは、どのくらいの問題なのかということです。もちろん、子どもが食事をする前に、手を洗ってから食卓につくように言います。けれども、正直に白状しますと、その時に私は手を洗っていないことが多いわけです。

 「あなたの弟子たちはなぜ手を洗わないでパンを食べるのですか?」。今日の問いかけはこういうことです。もしみなさんの誰かが今日のお昼ご飯を食べるときに、自分の子どもが手を洗わないでパンを食べたとします。その時に、普通であれば親は自分の子どもに「ちゃんと手を洗って食べなさい」と言って、子どもに手を洗わせればそれで終わる話です。ところが、もし、私がその時に子どもに注意した人に対して、「あなたは私の子どものことをそう言うけれども、あなたも他人のことを言えますか? あなたの心は汚れているではありませんか。他人のことを言えますか?」と言い返したとしたらみなさんはどう思うでしょうか。この牧師、逆切れしたよ。こんな教会もう二度と行くもんかと思うのではないでしょうか。

 普通に考えても、この場合、手を洗わなかった弟子に非があるわけで、それに対して反論して、人の心の汚れの問題にして言い返すような主イエスのお姿につまずくことはあるかもしれませんが、「こんなお話をなさる主イエスは素晴らしいお方だ」とはなかなか言えないのではないでしょうか。

 少し前のことですが、水曜日と木曜日の聖書の学び会でレビ記を学んだことがあります。そこには、何度も「汚れ」について記しています。そのなかでも例えばレビ記の第11章には食べ物の聖さと汚れについて書かれているところがあります。その31節にこんなことが書かれています。

すべての群がるもののうち、これらは、あなたがたにとって汚れたものである。これらが死んだ状態の時に触れる者はだれでも夕方まで汚れる。

 これはどういうことかといいますと、当時イスラエルの人々というのはエジプトからカナンの土地まで40年に及ぶ旅をしていました。人の住んでいない荒野の旅ですからテント生活のような毎日です。当然いろんな小動物が周りにいたでしょうし、虫もいたでしょう。ハエとかゴキブリがいたかどうかわかりませんが、群がるものというのは色々な種類があります。たとえば水を貯めてある壺の中に虫が落ちて死んでしまっているのを見つけたとします。そうしたら、その水を気づかないで飲んだ人はその日の夕方までは汚れているわけで、夜日が暮れるまで家族と一緒にいることはできないわけです。つまり「汚れ」というのは衛生的な意味がまずあったわけです。

 ネズミなんかが自然に死んでいたとすると、何かの理由があるわけで、そういう死骸にふれてしまうと、何かのばい菌がついていると考えられるわけです。荒野の旅をしているイスラエルの民は医者だとか病院というようなものとは少し縁遠い生活をしていましたから、自衛するためにはできる限り衛生面で気をつける必要があったわけです。そして、汚れてしまったときの対処の仕方というのは水で洗って身を聖めて、夕方まで民の外に隔離されて、様子を見て、問題ないようであれば夜には自分のテントに戻ることができたわけです。

 ですから、食べる前に手を洗うというような習慣が出てくるのはごく自然のことです。ところが、こういうレビ記に書かれている戒めは、次第にもっと丁寧にした方が良いということになっていきました。食べる前に手を洗いましょうというのもそうです。マルコの福音書7章4節を見ると、

市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。

と書かれています。

 気が付かない間に、死んだものに触れてしまうと汚れてしまうことになりますから、自然と自衛のために色々な戒めが付け足されていきました。まあ、理由は良く分かるわけですが、たとえば、寝る前に寝台、今でいえばベッドですが、これを水洗いしたのでしょうか。雑巾がけをしたというようなことだったのかもしれませんが、ずいぶんエスカレートしていきました。これは、もともとの神の戒めではありません。先祖たちからの教えとして受け継いできたことがたくさんあったわけです。

 主イエスはここで、弟子たちの手洗いを指摘したパリサイ人や律法学者たちに向かって預言者イザヤの言葉を使って、口先では立派なことを言っているように見えるけれども、その心は神の心とは遠く離れてしまっているではないかと、言い返されました。この時に、主イエスは十戒の第五の戒めである「父と母を敬え」という戒めを例にあげて、何が問題なのかを明らかになさいました。

 「父と母を敬え」というのは、大切な戒めです。自分の親を敬うというだけではありません。妻や夫の親も敬うように神は命じられました。もちろん、そんなことはみな分かっているわけです。ところが11節と12節で主イエスはこう言われました。

それなのに、あなたがたは、「もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら――」と言って、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。

 ここは少し分かりにくいところですが、ここに書かれているのは、神の定められた戒めではなくて、先祖からの言い伝えです。「コルバン」というのはささげ物です。もともとは、神さまへのささげ物にする分を家族が知らない間に使い込んでしまわないように、「コルバン」と決めたものは、ささげ物として取り分けておかなくてはならないというのが、この言い伝えの趣旨でした。ところが、自分の父母に差し上げるはずの予定の穀物が惜しくなって、これは「コルバン」だから残念ながらあげられない、というような使い方をしている人たちが出て来たのです。実際には両親にあげないで、後で自分たちの分として食べてしまうというようなことが日常的に起こっていたようです。主イエスはそれで、先祖からの言い伝えを大事にして、神の戒めをないがしろにするようなことは本末転倒な話だと言われたわけです。

 それがこの13節の主イエスの言葉です。

このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。

 この13節が一つの結論ですが、主イエスの話はここからさらに進みます。14節から続いて、主イエスは群衆たちに語りかけました。「外からはいって来るばい菌などが人を汚すのではなく、人の心の中にあるものが人を汚すのだ」と言われたのです。

 この話の面白いのは、主イエスは手を洗わなかった弟子たちを弁護して、この話をさなったのですが、肝心の弁護された弟子たちは意味が良く分かっていません。群集がいなくなると、「さっきの話はどういうことですか?」 と主イエスにたずねたので、主イエスもがっかりです。18節以下にこう記されています。

あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。

 新改訳はこれまで「かわやに出されてしまうのです」となっていましたが、今は「かわや」と言っても意味が分からないということで、「排泄される」という翻訳になりました。たしかに、パソコンでも「かわや」と入力すると、下に赤線が出てきて、日本語が間違っていますと出ます。こういううんちくのある話はそんなに丁寧にする必要はないのですが、肝心なことは、ばい菌などの汚れた物が入ってきたってそれは心に入るわけではないでしょうと、主イエスはここで言われたのです。汚れというのは、そういう衛生的なことを本当は問題にしているのではなくて、まさに心の問題を大事にしているということです。

 ですから、主イエスはこの19節で「すべての食物をきよいとされた」と言っています。これまでは、豚肉は食べてはだめだとか、足のひずめがわれている動物はだめだとか、バッタは食べてもいいけれども、飛び跳ねる足のついていない昆虫は食べてはいけないとか、実に細かいことが書かれていたわけです。ところが、主イエスは汚れの問題というのは、実はばい菌の問題ではなくて、心の問題なのだということをここではっきりとされたわけです。そして、心の汚れというのは人の心の中にあって、そういうものが実は人を汚すことになるのだと言われたわけです。その人を汚すものは何かというと、21節と22節に記されているようなリストの中のものだと言われたわけです。

 問題は、こういう聖書を読むと、すぐに分かるのは、聖い心でいるということが大事なのだということはすぐに分かるわけです。けれども、聖い心でいるためにどうしたらいいのだろうかと考えるとすぐに分からなくなってしまいます。というのは、イスラエルの祖先たちは聖く保つために色々なことに取り組んできたわけですが、結果的にそういうことは全部自分たちの都合の良い考え方を見つけ出すだけで、何かを気をつけましょうというようなことは、問題の解決にはならないということが分かるわけです。

 主イエスは15節で「人の中から出てくるものが、人を汚す」と言われました。人の心の中には汚れた考えや、ずる賢い考えが秘められています。こういう心を持っていない人はいないわけで、すべての人がその心の中に汚れた部分を持っているわけです。

 ではどうしたらよいのか。主イエスはこの話の中で言おうとされていることは何かというと、それは、聖いものは自分の中にあるのではなくて、外から来るということです。つまり、神のことばこそが聖いものなのであって、神のことばを聞く時に、人はその心の醜さがきよめられて、悪い考え方が変えられていくのです。この14節に記されている言葉、「神の言葉を無にしないで、神のことばをしっかりと受け止めることこそが、私たちが聖く生きることのできる道なのだということなのです。

 説教の冒頭で、子ども白書の話をしました。表面的に見えていることだけで判断するのではなくて、その背後にあることを見極めることが大事だという話をしました。子どもの生活の背景にも実にさまざまな大人の事情というのが見え隠れしています。例えば、子どもを早く寝かせる方がいいということが分かっていても、仕事のためにそうできないというような大人の事情があります。何が善いことかということは分かっても、それをすることができるようになるには、実にさまざまなものが整わないといけないわけです。

 まず、考え方が変わらなければなりません。そして、生活環境を変える努力をしなければなりません。そいうことは一所懸命なんとかしようと思っている時に、他の人に非難されるようなことがあれば、その心はつぶれそうになることだってあると思います。ひとつのことをとりあげてみても簡単なことではないわけです。

 けれども神のことばが聞こえてくると、自分がどう変わりたいのかという姿が見えるようになってきます。そして、神は聖霊を通して私たちを助けてくださいます。また、そのために励ましてくれたり、祈ってくれる信仰の友を持つことができるようになります。そうやって、少しずつ、一歩ずつ、自分の生活が神のことばに捉えられて変えられていくことを経験するようになっていくわけです。

 それは、神さまにおいのりすれば、すぐに状況が改善されて何でもうまくいくようになるというようなことではないのかもしれません。けれども、神のことばに捉えられていくということは、確実な変化をもたらしていくのです。そして、それは決して小さなことではないのです。

 神のことばは外から聞こえて来るとき、それは私たちが変わることができるようになる時なのです。この神のことばと共に生きることこそが、私たちを生かすことになるのです。

お祈りをいたします。

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