2019 年 3 月 17 日

・説教 マルコの福音書12章28-34節「一番大切なもの」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 12:44

2019.03.17

鴨下 直樹

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 みなさんにとって、「一番大切なものってなんですか?」と質問されたらなんと答えられるでしょうか。ちょっといろいろ考えてから答える必要がある質問です。

 私の場合、今すぐに直感的に出てくるのは「こども」という答えです。でも、こう答えた後で、いや、それだと牧師らしくないと考えて「信仰」と答えたくなる衝動が出てきます。でも、もう少し丁寧に考えればもっと上手に答えられるのではないかと、少し冷静になって考えてみると、もっと大きな意味を込めて「いのち」と答えることもできるかなとか色々考えます。人によっては、ケータイの中に自分のすべてが詰まっているという人もあるかもしれませんし、やはり家族がなによりも大切と答えたくなるかもしれません。

 少し質問を変えて、「いちばん大切にしていることは何ですか?」と質問するとどうなるでしょうか。「もの」から「こと」に替わるだけでずいぶん違った答えになるはずです。「一番大切にしていること」と聞いて、すぐに出てくるのは、どの分野での質問だろうということです。「牧師として一番大切にしていること」というのと、「説教するときに一番大切にしていること」ではおのずと答えが変わってきます。

 実は、この説教題のつけ方はだいぶまずかったなと反省しています。タイトル自体が抽象的すぎるのです。教会の前を通りかかると、次の説教の題が一週間掲示されているわけですが、自分で何度も目を通しながら、これを近所の人が目にしてどんなことを想像するんだろうかとあれこれと考えるわけです。そして、きっと「人生において一番大切なものって何かな」と考えてくれるのではないかと思うことにしました。そう考えるのが妥当だと思えるからです。

 けれども、そう考えて聖書を読んでみますと、「すべての中で、どれが第一の戒めですか」と書かれています。ここで、ちょっと困ってしまうわけです。「人生の中で一番大切なもの」と、「戒めの中で第一にするべき戒め」というのとは、少しというか、かなりニュアンスが違ってくるわけです。

 私たちは毎日生活するなかで、それほど多くの戒めに縛られて生きてはいないと思います。けれども、いろんな考え方はあります。「人に親切にしよう」とか「ちゃんと挨拶をする」とか、あるいは、「電話は10回以内で出る」とか、「待ち合わせは5分前に着くようにする」とか、人によって、いろいろと大事にしていることがあると思うわけです。なかでも、多くの人のかなり上位にランクインする考え方として「人に迷惑をかけないようにする」というのがあると思います。この考え方は、いろいろなものを含んでいます。たとえば、「電話を10回以内で出る」というのも、「待ち合わせは5分前に着くようにする」も、「人に迷惑をかけないようにする」ということの中に含まれます。ですから、より包括的な考え方というのが大事になってくるわけです。

 ところで、今日の「すべての戒めの中で、どれが一番か」という質問ですが、全てってどれくらいあるんだろうかと気になって調べてみますと、なんと旧約聖書には613の戒めがあるというんです。248の戒めは積極的なもの、たとえば「なになにしなさい」という形態のもので、消極的な戒め「なになにしてはいけない」という戒めが365あるんだそうです。よく考えてみると、私たちが生きていくためにも、たしかにそのくらいの数の戒めがあるのかもしれません。いや、ひょっとすると、現代はもっとたくさんあるのかもしれません。「出かける前にガスの元栓は閉めましょう」とか、「暗証番号はこまめに変えましょう」、「電話番号や誕生日を暗証番号にするのはやめましょう」とか、そんなものまで上げればきりがありません。でも、そういうものも、全部、私たちが生きていくうえで大切なわけです。
 実は、聖書の戒めも、私たちの日常生活の大切な習慣も、もとをたどれば同じことで、私たちがより良く生きていくために大切なことを、大事にしているわけです。そして、その質問に、主イエスは何と答えられたのかが、29節から31節です。

「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。神は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」

 さて、主イエスはここでなんと言われたかというと「愛することが大切」と言われたのです。第一の戒めは、神を愛すること、第二の戒めは隣人を愛することと言うのです。なるほどと思うわけです。その中に、すべてのことは含まれているのです。

 でも、よく考えてみると少し変な感じがします。「愛する」というのは命令されてすることなのでしょうか。みなさんは、誰かを愛していると感じているときに、どうやってその愛を表現するのでしょうか。

 先週、妻の誕生日がありました。何が喜ぶかなと思いながら、ありきたりですけれども、食事を食べに行きました。ちょっと奮発しまして、いつもなら行かないようなところに出かけました。それは、そうすると喜ぶかなと思うからです。もし、それを、例えば妻の両親から、「今週は娘の誕生日だから、ちょっといいところへ食事に連れていきなさい」なんていう電話がかかってきたら、たぶん意地になって、絶対行かないと思います。もちろん、妻の両親はそんなことは言いませんし、今でもとても良い関係を持たせていただいています。一応念のためにお話しておきます。

 愛するというのは、誰かに命令されてやることではないわけです。愛する対象は誰でもいいんです。家族でも、孫でも、恋人でも誰でもいいんですが、そんなことはごく自然に出てくることです。主イエスはそんな無粋なことを言いたいわけではないと思うのです。だったら、なぜ、そんなことを言うのか。もちろん、一つの答えは、そう聞かれたから、そう答えたわけです。けれども、もっと大事なことは、主イエスはここで答えられるときに、まず、こう言われました。29節です。

「第一の戒めはこれです。聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。」

 「主を愛しなさい」と言われる前に、「主は私たちの神。主は唯一である」と言われたのです。愛するために必要なことは、愛する対象のことをよく知るということです。このことを忘れて、愛することなどできません。このことをちゃんと覚えていますかと、主イエスは話しておられるのです。私たちは誰かを「愛する」というときに、いつの間にか、この一番大切なことを見失ってしまうことがあるのです。私たちの神であられる主は、唯一のお方。他に替えがきかないほど、自分にとって特別なお方だということが分からなくなるのです。

 それは毎日、一緒にいると特別感がなくなるのと同じです。一年に一度「すき焼きを食べに行く」のであれば、それはとても特別なことですが、毎日すき焼きを食べていれば、どんなにおいしくても、いつの間にか当たり前になってしまうのです。あたりまえになってしまうと、そこからさらに特別感を感じることは大変なことです。結婚したての頃は、食事が出てくるだけでも感激して、嬉しかったのに、20年も30年も経つと、ありがとうの言葉はなくなって、挙句の果てに、「おれはもう少し濃い味の方がいいな」と文句が出てきてしまうのと似ています。
 「主は私たちの神、主は唯一である」。他の誰とも替えがきかないような貴いお方のことを私たちは、主であると告白するのです。私の主人、私をいつも守り、支え、いつも励ましてくださるお方。この主以外に、私は主とお呼びすることのできる方はいないのです。そのことを主イエスはもう一度思い起こすようにと言われるのです。そういうお方を、主とお呼びして、そのお方を愛するということが、聖書の語っている戒めの一番大事なことなのですよと言われるのです。このお方がかけがえのない方であることを忘れないために、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と言われているのです。

 私を愛するために、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてくださったのは他でもない、私たちの主イエスです。この私たちを心といのちと知性と力を尽くして愛してくださった主に、私たちも精いっぱいの愛で応えるのです。

 主イエスに質問した律法学者は、この主イエスの答えをよく理解しました。そのように主を愛することは、「どんな全焼のいけにえよりもはるかにすぐれています。」と答えることができました。しかし、どれほど正しく理解しても、主はこの質問をした律法学者にこう答えられたのです。「あなたは神の国から遠くない」と。神の国から遠くないということは、いいところまで来ているということです。でも、それでは神の国に入ることはできないのです。何が足りないのでしょうか。それは、愛すること、それを実行することが足りていないのです。

 どれほど正しく理解することができたとしても、それで十分ではないのです。肝心なことは、それを実際に実行に移すことです。「分かった」ということと、「分かって、それをやってみる」というのとはまるで違います。ある説教者はそれをかつて「分かって、分かる」という言い方をしました。

 愛されていることが分かる。これは、簡単に「分かる」とはなりません。先ほども言ったように、愛されることに慣れてしまうと見えるものが見えなくなってしまいます。特に、神の愛となるとなおさらです。気づかなくなるのです。何も見えないのです。神が私のことを愛してくださっているというのは本当なのだろうか。ほとんど、思い込みではないのかと思いたくなるのかもしれません。お祈りしても、自分の思うようにならないときに、私たちはイライラしてしまいます。そしていつのまにか、何も期待しなくなるということが起きてしまうこともあるのだと思うのです。

 最近、よく語られるようになった言葉の中に、「霊性」という言葉があります。英語で言うと、「スピリチャリティー」という言葉です。神の働きをどのように感じることができるかという意味でつかわれることが多いと思います。神との交わりと言い換えてもよいと思います。あるいは聖霊に満たされるという言い方をする場合もあるかもしれません。今月末に、渡辺先生を講師にお招きして、教会の修養会で、この「霊性」をテーマにしながら、クリスチャンの霊的な生活というテーマで学びをしたいと思っています。今朝、渡辺先生からメールが届きまして、その日の朝の説教は「御霊に満たされ導かれて生きる」というテーマで話してくださるそうです。午後は「礼拝しながら生きる!」というテーマです。

 そこで話そうとしていることは何か特別なことというよりも、むしろ、とてもシンプルなことです。神との深い交わりをどうしたら持つことができるかということです。相手が神さまなので、なんだか難しい気がしてしまうわけですが、相手が人間だったらどうするでしょう。深い交わりを持とうと思えば、一緒にご飯を食べながら、膝を突き合わせて語り合うということに尽きると思います。相手のことをよく知ることが大事です。相手のことが分かってくると、好意を持つことができるようになります。その人のことが好きになってきます。信頼して、色々なことを話すことができるようになります。

 まさに、そのように、神との交わりを持つのです。神と出会うこと、神を知ることです。そうすると、このお方は、「私の主で、この主は唯一の方だ」ということが分かってくるわけです。そこまで、よく知らなければなりません。そうしたら、自然に、愛することができるようになるわけです。何も命令されることなんかないのです。

 では、なぜ、戒めは愛することを求めるのでしょうか。それは、愛しなさい、と命じられることによって、初めの愛を思い出すことができるからです。当たり前になってしまって見えなくなっていることが、もう一度見えるようになるのです。

 今、私たちは受難節を迎えています。受難節というのは、主イエスが私たちのために十字架の苦しみを受けられたその苦しみの期間を、思い起こす時です。それが、どれほど大きなことであったのか、どれほど私たちを大切に思っていてくださるから、そのような苦しみを受けてくださったのかを思い起こすのです。

 さきほど、聖書のお話のなかで、火事の中で一人取り残された子どもの話しを聞きました。この少年は、燃えている自分の家の外に出ていた鉄のパイプが、火事で熱くなっているのにもかかわらず、その熱さを乗り越えて、自分を助けに来てくれた男の人の優しさによって助け出されました。その火事の後、一人になってしまったその少年を誰が引き取るかという相談が始まったときに、身寄りがなくなってしまったその子どもの前に、自分がこの子を引き取ると、その焼けただれた手を示してくれた男の人に、少年は身を委ねたという話を聞きました。この人であれば、自分を愛してくれると受け止めることができたのです。

 その子どもが、この男の人のもとで大きくなっていくと、いつの日か、自分がこんなにまでして守られたということを忘れてしまう日がやってくるのかもしれません。親に反抗するように、わがままを言いたくなる日がやがて来るのです。けれども、その手の焼け跡を見るならば、自分が確かにあの火事から救い出されたのだということを思い起こすことができるのです。

 それと同じように、私たちはこのレントの時に、主イエスの十字架を思い出しながら、主イエスの手の傷あとを見る、十字架を見るのです。そうすることによって、確かに私たちはこの主に愛されて、救い出されたのだということを思い起こすことができるのです。そして、確かに、このお方こそ、「主は私たちの神、主は唯一である」ということを改めて思い起こすのです。そして、この主を愛そう。この主に信頼して、自分を任せよう。そう思えるようになるのです。

 私たちにとって一番大切なもの、それは、私たちのために心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、私を愛してくださった、この主の愛を知ることです。そうしたら、私たちはこの主を愛し、この主が愛しておられる私たちの隣人をも愛することができるようになるのです。

 私たちがこの主の愛に生きる時、私たちはこの主が与えてくださる神の国に生きる者とされるのです。

お祈りをいたします。

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