2019 年 12 月 8 日

・説教 創世記12章4-20節「しかし、主は」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 19:28

2019.12.08

鴨下 直樹

 最近の説教の中で私は、「神様は人間に自由意志を与えられた」という話を時折します。神が人を創造された時に、神は人に自分で考えて判断する責任を与えられました。これを自由意志といいます。私たちに与えられた自由意志というのは、本当に完全にその決断は任されています。決断はひとそれぞれ違うのです。その人が考えているように決断し、実行するわけです。

 先週、私たちの教会では連日、さまざまな集いが行われていました。中には毎日教会に来ていたという方も少なくないと思います。どの集会に出て、どの集会にでないか、そんなことも決断する必要があるわけです。家庭の都合などもありますから、すべての集いに出られるという決断をすることもまた難しいものです。私たちは、私たちに与えられているこの自由をどのように用いたらよいのでしょうか。

 また、特にこの二日間はKさんのお父さんであるMさんの葬儀もありました。今日の聖書箇所のアブラムの場合、アブラムは父を失って旅をつづけ、今日の箇所ではカナンの地に到着しました。Kさんもお父さんを失って、これからこの地で歩んでいくということと重なるような気持ちで、私は聖書を読んでいました。

 アブラハムのことを信仰の父といいます。このアブラハムの生涯というのは、多くの人の心を魅了してきました。ここにあるのは、私たちの物語だという思いがしてくるからです。アブラムは、カナンの地に到着しました。

 そして、シェケムという地に来た時に、主からの語りかけを聞きます。7節にこう書かれています。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」という言葉です。

 アブラムにではなく、子孫にと言われているのは不思議な気がするかもしれません。神様がなぜそのような語りかけをされたのか不思議に思う方も沢山いると思います。ですが、子孫に与えるということは、この地はあなたの一族が治めるようになるという意味ですから、神様の意地悪な言葉ではありません。ただ、アブラムには子どもがありませんから、その言葉をアブラムはどのように受け止めたのか、気になるところです。

 アブラムはこの時に、祭壇を築いて、礼拝を捧げました。まず、神の御前で礼拝を捧げる。ここに語りかけてくださる神に対するアブラムの姿勢がよく表れていると言えるでしょう。アブラムの新しいカナンの地での生活がいよいよここから始められるのだと、誰もが思うところです。ところが、8節にはこう書かれています。

彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこに主のために祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。

 理由はよく分かりませんが、シェケムにとどまらないで、ベテルに移動しているのです。もちろん、そこでも礼拝を捧げます。それは、アブラムのとても優れたところです。そういう良い点があることも確かですが、どうも落ち着かない様子なのです。9節になると、さらにこう書かれています。「アブラムはさらに進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。」とあります。

 新改訳聖書2017には、後ろに地図が載っています。今は、見なくても結構ですけれども、あとで、ぜひ見てみてください。カナンの土地がどれほど広大な土地なのかということもそうですが、アブラムがこの時、どのくらい移動したのかということもよく分かってきます。そして、10節には「その地に飢饉が起こったので、アブラムはエジプトにしばらく滞在するために下って行った。」と書かれています。

 カナンの地になぜとどまっていなかったのだろうと思うのですが、理由はよく分かりません。ハランの地の人々は遊牧民だったようですから、その生き方が身についていて、旅をせずにはいられなかったのかもしれません。

 いずれにしても、アブラムにはこれから先に起こることがすべて予想できたわけではないのです。ここで私たちに「神が与えられた自由意志を用いての決断」ということが姿を現すのです。自由意志というものは、いつも人を悩ませます。カナンの地に到着したということは、神の約束の地、ゴールに到着したはずなのです。けれども、そこにはすでにカナンの地の人々が住んでいるのです。神から、「ここが約束の地だからこの地にとどまれば間違いない」というような声が聞こえてきたわけでもなかったのです。

 私たちは時々思うのです。この後どうしたらいいのだろう。神様がここにとどまっておきなさいとか、この会社はいい会社だからここにしなさいとか、この人と結婚すると間違いないとか、住むならこの町にしなさいとか、そういうことを教えてくれたらいいのにと。けれども、神は、私たちにそのように神の御心を示して具体的なサインをくださることはありません。私たちはいろいろなことを総合的に考えて決断する必要があるわけです。だから、悩むのです。

 この集会には参加しておいたほうがいいのか、この人にはちゃんと親切にしておくと、あとで見返りがあるよとか、そんなことは何も分からないまま、私たちはその都度その都度、選択を強いられて、悩みながら決断して生きているのです。そして、どこかでとんでもない失敗をやらかしてしまったのではないかと、いつもどこか後悔しながら生きているところがあるのです。

 アブラムの生涯を見ていると、そのことを本当に気づかされるのです。もう少し、神様も具体的に教えてくだされば、このあとあんなことをしなくて済んだのにと。

 すこし想像力を働かせて聞いていただきたいのです。世界クリスチャンの新聞の第一面にこんな記事が出たとしましょう。
「信仰の父と呼ばれたアブラハム、エジプトのファラオに売春を持ち掛ける」。
「報道によりますと、アブラム(当時75歳)には妻サライ(当時65歳)がおりました。カナンの地が飢饉に見舞われたためにエジプトを訪れた際、妻サライのあまりの美しさのために自分が殺されてしまうことを恐れて、妻を妹であると知らせたとのことです。調べによると、実際、妻サライとは異母きょうだいの関係にあったようです。エジプトの王ファラオはアブラムに多額の金品を与えて、サライを妻として宮廷に招きいれました。しかしサライはアブラムの妻であり、アブラムは妻に不貞行為をさせようとした疑いがもたれています。この知らせを聞いた世界中のクリスチャンはアブラムを信仰の父と呼ぶべきではないのではないかと、世界各地で声があがっているというのです。」

 みなさんが、こんなニュースを目にしたらどう思うでしょうか。一国の首長がこんなことをやったらもうすぐさま解任になるに違いないのです。こんなにひどい出来事はありません。聖書も、こんなゴシップ記事を隠しておけばいいのに、ちゃんと記録して後世に伝えているのですから不思議な気持ちがします。

 アブラハムの人生最大の失敗と言ってもいいし、人に知られたくない人生の汚点であることは間違いありません。この出来事のせいで、アブラハムが天国で少しくらい居心地の悪い思いをした方がいいのではないかと、考えるのは間違っていない気がします。

 ところがです。このようなアブラムのしたこの行いに、神がどうなさったのか。そちらの方が、さらに驚きを与えるのです。
17節にこう書かれています。

しかし、主はアブラムの妻サライのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれた。

 「しかし、主は」とここに書かれています。そうです。しかし、主は私たちが思うのとはまるで違う結末を備えられたと書かれているのです。「しかし、主はアブラムの妻サライのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれた。」

 神は、アブラムを打たれたのではなく、エジプトのファラオを打たれたというのです。何とも、納得のいかないことがここに書かれています。聖書を読んでいると、もっと理不尽な扱いを受けている人はいくらだっています。

 たとえば預言者エリシャは自分のことを「はげ頭」と馬鹿にした子どもたちを呪ったため、二頭のクマが子どもたちを殺してしまったという記事があります。主イエスのたとえ話には、金持ちが収穫を倉に蓄えて喜んでいたら翌日死んでしまったとか、何もそこまでと思う話はいくらだってあります。けれども、こういう記事には裁かれた当事者に多少なりとも非があります。

 しかし、この場合明らかに悪いのはアブラムです。妻の立場でいえばもう、このあと夫婦関係は完全に崩壊してしまってもおかしくないくらいのことをアブラムはしてしまっています。

 「しかし、主は」と聖書は告げます。しかし、主はこの問題の解決をアブラムにではなく、相手のファラオに負わせられたのです。この箇所のどこに福音があるというのでしょう。私たちは首をひねりたくなるのです。

 しかし、これこそが、主が私たちに今、していて下さっておられることなのではないでしょうか。私たちは、人には見せることのできない罪というものをいくつも抱えています。この時のアブラムのように、人前で明らかにされてしまったら一気に信頼を失ってしまうような、弱さというのを誰もが持っているのだと思うのです。

 森有正というキリスト者として非常にすぐれた思想家がおります。戦前に一高の教授として、デカルトとかパスカルについて教えた人です。この方は離婚を繰り返したりという経験もあって、フランスに突然行ってしまったりとなかなか難しい生活が続いたようですが、晩年に日本に戻って、思想家としてとても優れた書物を何冊も執筆した人です。

 この森有正は「アブラハムの生涯」というタイトルの本を出しておられるほど、アブラムの生き方に魅せられた人です。この人の書いた本に「土の器に」というタイトルの本があります。この森有正が教会でした講演ばかりを集めたものです。この本の冒頭に
「アブラハムの信仰」というとても優れた文章があります。そこに、この人はこんなことを書いています。

「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥があります。どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがある。そこにしか神様にお目にかかる場所は人間にはないのです。人間が誰はばからずしてしゃべることのできる観念や思想や道徳や、そういうところで誰も神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことはできない。」

 森有正は、自分の心の闇をよく知っていた人です。そして、そこで主とお会いすることの幸いを知っていたひとでした。そのことをアブラハムの生涯から何度も何度も聞き取ってきたのです。この部分でもそうだと言っていいと思うのです。アブラムの心の闇です。自分が生き残るために、妻を妹としてファラオに差し出すのです。そうすることで、生き延びることができる。考えてみれば、なんとも短絡的な結論の出し方と思えるかもしれません。けれども、エジプトのファラオというのはピラミッドなどでも分かりますが、圧倒的な軍事力を持つ、超大国の王です。そして、外は飢饉で食べるものもない、弱者であるアブラムがその時打つことのできた手はこれ以外になかったのです。サライを差し出してしまえば、神との約束はどうなるのかとも思えますが、その時のアブラムにはそういうことを言っておられる場合ではないほどに、困窮していたのでしょう。

 神様はそう言ったって、現実には神様の約束なんて何の訳にもたたない。そんなことを考えていたのかもしれないのです。それほど、アブラムのこの時の決断は現実的です。ところが、この時に、ファラオがこう言ったのです。
「あなたはわたしに何ということをしたのか。」
 この言葉は、これまでの中に二度、まったく同じ言葉で出てきている言葉です。一度は、3章の13節です。エバが蛇に勧められるままに食べてはならないと言われた善悪の知識の木の実を取って食べた時です。「あなたは何ということをしたのか。」と主はエバに言われました。

 その次にでてくるのはカインが弟アベルに襲いかかって殺した時です。その時、主がカインに語りかけたのが同じ言葉です。「あなたは何ということをしたのか。」

 この言葉が主の口から出る時、それはいつも、人のした決断が間違って主の御心を大きく損なった時です。主の目にかなわないことをしてしまった時に、神はこう語りかけておられるのです。「あなたは何ということをしたのか。」と。

 しかし、ここで、主なる神が、この言葉を、ご自分ではなく、ファラオに言わせたのです。けれども、これは紛れもない、主からの言葉そのものであることに違いはないのです。けれども、主はアブラムを裁かず、ファラオを災いで打たれました。アブラムに直接語られるのではなく、ファラオに直接語らせたのです。それは、なぜか。それは、アブラムを赦すと決めておられるからです。

 アブラムはこの時自分の心の一隅に主が出会ってくださったことを体験したはずです。神が、赦してくださっていることを知ったはずです。もちろん、それでアブラムは反省してこの後、二度と失敗を繰り返しませんでした、とはなりません。聖書はこの後に同じことが2度、アブラハムに一度、息子イサクの時に一度同じ出来事が起こったことが記されています。

 神に与えられた自由意志を正しく用いることは何と困難なことなのでしょう。それは、私たちもよく知っていることです。毎週、神の御前に出る時に、私たちは同じ罪の告白を繰り返すようなものです。それでも、毎週主の前に立つことができるのはなぜか。それは、主が私たちを赦しておられることを信じることが出来るからです。

 私たちの主はなんと寛容なお方なのでしょうか。この世の人であればみな呆れて、その人から顔をそむけたくなるようなことであったとしても、神はその人の罪を赦してくださる。それが、神が一度した約束を果たされると言うことです。

 もちろん、私たちは、だからと言ってこの神を軽んじることはゆるされません。神を悲しませていいはずはないのです。けれども、罪を悔い改めつつ、主のまえに砕かれた悔いた心を持つものを、主は蔑まれることはないのです。それは、聖書が約束していることです。

 アブラムはいつも、主の前で礼拝を捧げました。主の御前で礼拝をささげる者は、自らの罪に気づき、悔い改めることができます。自らの醜い心の一隅に目を向けることになるからです。

 私たちの主に心を向けつつ、主との交わりに生きるなら、私たちのような罪あるものをも、主はアブラハムの子孫として、神の子どもとして受け入れ、神の国の国民としてくださるのです。そして、それこそが、永遠に確かな、私たちの慰め、たとえ私が死を迎えたとしても、平安でありつづけることの祝福がそこにはあるのです。

お祈りをいたします。

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