2020 年 4 月 12 日

・説教 ローマ人への手紙6章23節「死と永遠のいのち」

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2020.04.12

鴨下 直樹

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「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」  ローマ人への手紙6章23節

 イースターおめでとうございます。今、私はみなさんと共にイースターの喜びをともに分かち合いたいと心から願っています。しかし、今日私の前には教会の皆さんの姿は残念ながらありません。新型コロナウィルスのために県が緊急事態宣言を出しました。そのために、今日もみな自宅からこの礼拝の様子をライブ配信で見たり、あるいは後でホームページから音声を聞かれたり、原稿を読みながら、それぞれの家庭でイースター礼拝を行っておられると思います。しかし、その小さな礼拝のなかにも主は今生きて働いておられ、私たちの礼拝を喜んでお受け下さっておられると信じます。

 今、私たちはこのローマ人への手紙6章23節のみ言葉をともに聞いています。

 「罪の報酬は死である」とこの言葉は語っています。今ほど、この言葉の意味がよく分かるときはないと言えるでしょう。罪は身を亡ぼすことになるということを、今多くの人々が身をもって味わっています。外出自粛要請が出されていますが、その要請に聞き従わないで、自分には関係ないと飲み歩いていた人が、自分のしたことを後悔しているという放送を、何人もの方が目にしたと思います。病になって、自分のしていることが、いかに愚かなことであったかということに気づくようになるのです。

 もちろん、ここでパウロが問いかけているのは「罪」の問題です。パウロはこのローマ人への手紙の少し前のところで、「罪の奴隷」という言葉を使っています。罪が人を奴隷にすると言っているのです。けれども、面白いものですけれども、人が罪の行動を選択するとき、たいていの場合、自分は自由だと思いながらその選択をするのです。罪とは自分のしたいことをするのです。自分は自由なのだ、誰にも支配されないといいながら、実はその人は罪の奴隷となっているのだとパウロは語ります。奴隷には、かならず主人がいます。罪の奴隷の主人というのは奴隷の思いや考えを無視して、その人の意志を奪ってしまいます。

 ここが罪の不思議なところですけれども、自分では自分のやりたいこと、したいことをしている、自分は自由なのだと思っているのに、気づかないままに罪に支配され、罪の奴隷となってしまっているのです。そのことを、「欲」という言葉で表現します。パウロはここではこの「欲」のことを「罪」と言い換えて語っています。自分のしたいこと、自分の欲、それがいつの間にか自分を支配している。気が付くと、自分の欲に支配されてしまっているのだと言うのです。それが、罪の姿なのだと言っているのです。

 今世界中で150万人の人がこのウィルスに感染していると報道されています。実際にはこの2倍以上の人が感染しているとも言われています。この時期、私たちは自分が感染者になっている可能性があるので、外出自粛をするようにと呼び掛けられています。特に、半数の人は自分が感染していることに無自覚であるというのが、今度の病気の特徴です。だから、自分は若いから大丈夫だとか、自分はかからないという自信があるなどと言いながら、自分のやりたいことを優先させてしまって、その結果、感染者は世界中で爆発的に広がってしまっているのです。

 まさに、罪の報酬は死であるというこの御言葉の意味は本当なのだということを、今のこの世界が証明してしまっているのです。

 興味深いことにこの「報酬」という言葉は、軍隊の用語です。兵士として軍務に就くと給与が支払われます。それが、この報酬という言葉の意味です。そういう言葉をここで使いながら、罪が支払ってくれる報酬は何かというと、死なのだということをパウロは言っているのです。軍務に就く時に、兵士たちは自分のいのちを投げ出して、その働きに就きます。もちろん、死ぬために働くのではなく、国を守るため、勝利をもたらすために軍務につきます。けれども、その戦いに敗れてしまえば、その結果その人は死ぬことになります。

 私たちをとりまく欲、自分のしたいように生きたいという思い、私たちを奴隷にしてしまう罪が、私たちにその報酬として与えるのは最悪の結果である「死」でしかないのだとパウロは言うのです。

 一生懸命に働いて、自分に与えられた自由を満喫して、自分のしたいことをどんどんしていく。そうやって何が手に入れられるのかというと、その報酬は死が待っているのです。最初からそのことが分かっていたら、誰もそんなことしないと思うのですが、実際はそうではないのです。

 病になったらとんでもないことにということは誰もが分かっているはずなのです。今回病院関係者が何人もこのウィルスに冒されてしまいました。治療に専念していて感染したという関係者の方もあると思います。先日も東京で医師をしておられる方から祈ってほしいという要請があったことを私たちは知っています。

 けれども、この岐阜でもそうですが、新年度を迎えるにあたってこれまでの疲れを慰労するためだったり、自分たちは大丈夫だと思い込んで、楽しくお酒を飲んで自由を謳歌した人がいた。そして、その結果ウィルスに冒されしまったと報道がなされていました。もう、そうなると、誰も同情しません。自業自得だと言われてしまうのです。

 けれども、これは他人事ではないのです。自分はちゃんとやっているから大丈夫と言えないくらい、この罪は、私たちの持つ欲は、私たちの意志を奪って私たちを呑み込んでしまうのです。だから、罪は怖いのです。そして、その結果、私たちは死をこの身に負うことになるのです。これは他人事ではなく、誰もがこの罪に支配されているのです。例外はありません。

 しかし、私たちの神、主は、私たちが自らの罪のために、自らの欲のために死の報酬を受け取るしかないと分かり切っていたとしても、私たちを死に明け渡したままでいいとはお思いにならないのです。それが、このイースターの物語です。

しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 パウロは、罪の報酬が死であると語ったすぐ後に、神の賜物について語ります。「賜物」というのは、プレゼントです。無償で与えられるものです。

 先日目にした本の中にこんな話が載っていました。『視点を変えてみれば』という塩谷直也牧師の書かれた本です。その本の中に、「愛はボロ雑巾のようだ」という話が載っていました。二枚の雑巾の写真があります。一枚はまだ使っていない新品の雑巾です。そして、もう一枚は、使い古されたボロ雑巾です。

 どちらが欲しいですかと聞かれたらみなさんはどちらを選ぶでしょうか。どちらが美しいかと聞かれたどうでしょう。答えはもちろん、新しい綺麗な雑巾を選ぶと思います。ところが質問を変えてみるとどうでしょうと言って、こんな質問をするのです。どちらが貴いですか。どちらが立派ですか。どちらに「ありがとう」と言いますかと。質問を変えてみると、この質問の答えはボロ雑巾の方になるわけです。そんな話です。

 私たちはプレゼントをいただくとき、新しいもの、美しいもの、綺麗なものを欲しいと単純にイメージします。しかし、神が私たちにくださったプレゼントは十字架でボロボロにされた、まさにボロ雑巾のような主イエスのお姿を私たちは知るのです。

 でも、十字架にかかった主イエスなど、ボロ雑巾と同じで誰も欲しいとは思わないのです。そこには、見栄えのいいものもなく、心ときめかせるようなものもありません。人から蔑まれ、あざけられ、唾をかけられ、鞭打たれ、十字架にかけられたみじめな人のお姿があるだけなのです。

 しかし、このボロ雑巾のようになってしまった主イエスこそが、神からの賜物、プレゼントなのだと聖書は言うのです。この主イエスこそが、神からの恵みの贈り物だというのです。この主イエスは、自分の好きなことをし、自由を謳歌し、勝手にふるまって罪の結果である死を受け取らなければならない人の代わりに、その刑罰を代わりに受けたお方なのです。

 綺麗な雑巾がいいか、ボロ雑巾がいいかと聞かれたら、もちろん綺麗な新しい雑巾でしょう。美しい人、見栄えのいい生き方、裕福な生活、そういうものを与えてくれそうな人の方が、見た目にはいいのです。けれども、私たちに本当に必要なのは、私たちが苦しい時に私たちの苦しみを共感し、私たちが悲しい時に一緒に涙を流し、私たちが困っている時に、一緒に汗を流し、ボロボロになるまで私たちの傍らにいてくださるお方なのではないでしょうか。

 主イエスは、最初からボロ雑巾だったのではないのです。主イエスは神の御子としてお生まれになられました。はじめは、まさにこの世にはないくらいの綺麗な、まさに特別な最も美しい雑巾であったのですが、人を愛するにつれて、ご自分を犠牲にして人の汚れをふき取って、人の汚い部分を綺麗にするために、ボロ雑巾になってしまわれたのです。これが、神の愛です。これが、神の恵みの賜物です。

 このようにして、私たちに寄り添って、ボロ雑巾のように愛を示してくださったのが、主イエス・キリストです。私たちに神が与えてくださった神のひとり子なのです。そして、この主イエスが、私の罪のために十字架に身代わりになってくださって、私を救ってくださる。そのことを知った時、神は私たちを死に預けたままにしないで、主イエスに免じて、私たちをその罪から自由にし、永遠の滅びである死ではなく、私たちに永遠のいのちを与えてくださるのです。

 今日はイースターです。ボロ雑巾のようになって、私たちを愛してくださった主イエスは、十字架にかけられ、墓に葬られました。そして、三日目のこの日の朝、よみがえられたのです。よみがえられたことによって、「主イエスによって与えられたいのちは本当に、新しい命に生きることなのだぞ」ということを、世界に示してくださったのです。

 この主イエスが私たちに与えてくださる「永遠のいのち」。これは、私たちを神のものにしてくださるといういのちです。罪が私たちの主人であったのが、神が私たちの主人になるということを、この永遠のいのちという言葉で言い表しています。

 神が私たちを支配してくださるということは、神の所有物となるということです。それは、言ってみれば、神の奴隷となるというようなことでもあります。

 罪の奴隷は、私たちが自分の好きなことをやって生きることです。そして、その結果、死を、破滅を自らに招くのです。しかし、神の奴隷、神のしもべとなるとき、私たちは欲に支配されるのではなく、神の愛に支配されるようになるのです。それは、自分中心ではなく、神中心であり、他の人のことを中心に考えられるようになるのです。

 神は、私たちに死か永遠のいのちか、どちらかを選ぶように選択権を与えておられるのではありません。私たちに永遠のいのちの道、一択なのだということを、教えておられるのです。私たちの神は、愛の神です。ボロ雑巾になるまで、私たちを愛してくださる愛の神です。このように愛をしめしてくださった主イエスを喜ぶことができるのが、このイースターなのです。

 今日は、顔を直接合わせて共に挨拶を交わすことはできせんが、私たちに愛をしめし、永遠のいのちを与えてくださる復活の主イエスを覚えて、ともにイースターをお祝いいたしましょう。

 お祈りをいたします。

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